33話 「うかのみたまのおおかみ」
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――榮が「やっぱり誰も――」と言いかけた、その瞬間。
「……蒼真。」
不意に、すぐ後ろから澄んだ女性の声が響いた。
「っ!?」
榮は肩を震わせ、勢いよく振り返る。
五葉も同時に後ろへ目を向けた。
そこには、一人の女性が静かに立っていた。
その女性と目が合った。
「――っ。」
胸の鼓動が、大きく跳ねる。
心の奥を直接掴まれたような感覚。
息が詰まり、思わず立ち止まった。
瞳は琥珀色で、底が見えないほど澄み切っていて、その視線だけで心の中を見透かされているようだった。
背丈は榮はより少し小さく。
髪は狐色で、肩のところまで伸びていて、とても綺麗な髪だった。
「……。」
そして、ようやく気付く。
女の頭に狐耳が二つ、ぴんと立っていた。
風に合わせて、その耳がぴくりと小さく動く。
「き、狐の耳……?」
榮は思わず呟く。
五葉も目を見開いていた。
「本物なの……?」
女はそんな二人の反応を見て、小さく口元を緩める。
「ふふ。」
「やはり、わしを初めて見る者はそのような反応をするのう。」
どこか楽しそうだった。
しかし次の瞬間、その視線は真っ直ぐ榮へ向けられる。
「……ほぅ。」
狐耳がぴくりと動く。
まるで何かを感じ取ったように。
女はゆっくりと榮の周りを一周するように歩き始めた。
榮は戸惑いながらその場に立ち尽している。
「え……。」
女は榮の前で立ち止まると、顔を少し近付ける。
じっと、その瞳を覗き込んだ。
「……面白いの。」
「実に面白い。」
榮はたじろぐ。
「な、何ですか……?」
女は答えない。
代わりに狐耳が嬉しそうにぴこりと揺れた。
その様子を見た蒼真は、
「稲荷様。」
「そんなに榮を困らせないでくださいよ。」
「む?」
女は蒼真を見る。
「困らせてなどおらぬ。」
そう言いながらも、視線はまた榮へ戻る。
「この少年……。」
「わしの予想より、ずっと興味深い。」
その一言に、榮も五葉も首をかしげる。
榮本人は、なぜ自分がそんな目で見られているのか、まったく分からなかった。
一方で女は、何かを確信したように笑みを浮かべていた。
「……ふむ。」
まるで何かを確かめるように目を細める。
榮は思わず息をのむ。
その視線から逃れようとしても、なぜか目を逸らせなかった。
数秒の沈黙。
やがて女は、小さく首を傾げて、
「のう。」
「……は、はい。」
榮は反射的に返事をした。
女はじっと榮を見つめたまま、静かに問いかける。
「お前さん。」
「かみしろか?」
その言葉が、静まり返った境内に落ちた。
「……え?」
榮は目を見開く。
思考が一瞬止まる。
「かみ……しろ?」
あのとき、澪華が言っていた名前を、この人も知っている。
驚きだった。
五葉も驚いたように榮を見る。
「榮……。」
蒼真もわずかに眉を上げる。
女のその笑みは、確信を得た者のものだった。
榮は戸惑いを隠せない。
「ちょ、ちょっと待ってください。」
「か、かみしろって……。」
稲荷様はすぐには答えない。
榮の顔をじっと見つめ、どこか懐かしむように目を細める。
「……なるほどの。」
「面影はあるが、本人ではない……か。」
その意味深な独り言に、榮はますます混乱する。
「本人……?」
「何の話ですか。」
しかし稲荷様は質問には答えず、小さく笑うだけだった。
「ふふ。」
「これは思わぬ拾い物をしたのう。」
その言葉に、蒼真は静かに口を開く。
「稲荷様。」
「その話は……。」
蒼真の声には、少しだけ緊張が混じっていた。
そこで――。
「そういえば……、まだわしの名を名乗っておらぬのう。」
小さく咳払いをすると、袖を軽く整える。
「わしに本当の名は『うかのみたまのおおかみ』というらしいのだが……。」
「ながい名じゃのうと思っておるわい。」
そう言って、どこか照れくさそうに言う。
「じゃが遠い昔、皆から心愛と呼ばれておった。」
「ゆえに、わしのことはみたと呼べばよい。」
そう言って柔らかく笑う姿は、先ほどまでの神秘的な雰囲気とは少し違い、どこか親しみやすさも感じさせた。
しかし次の瞬間、その表情が少しだけ真面目になる。
「さて。」
「先ほどの話じゃが……。」
みたが榮へ視線を向けようとした、その時――。
「稲荷様、後の話は俺が……。」
「……うむ。」
「なら任せるのじゃ。」
蒼真は榮と五葉へ向き直る。
「さっき、稲荷様……いや、みた様が言った"かみしろ"。」
「それは、おそらく君の名字のことじゃない。」
「そもそも君の名字は神代だが、かみしろとは呼ばないだろう?」
榮は眉をひそめる。
「……はい。」
「でも、どういうことですか。」
蒼真はゆっくりと言葉を選ぶ。
「神代――。」
「昔から伝わる、一つの血筋の名前だ。」
榮は思わず息をのむ。
「血筋……?」
蒼真は頷く。
「詳しいことは、俺も全部知っているわけじゃない。」
「ただ、かなり昔から、人ならざる存在と深く関わってきた一族がいたと言われている。」
「その一族を、人はかみしろと呼んでいたそうだ。」
五葉も静かに耳を傾けている。
「もちろん、伝承の域を出ない話だ。」
「俺も半信半疑だったよ。」
そこで蒼真は一度、みたへ視線を向ける。
「でも、みた様が榮を見て最初に"かみしろか?"と尋ねた。」
「それで確信した。」
榮は混乱したまま、自分の胸元へ手を当てる。
「じゃあ……。」
「俺の家族が、そのかみしろっていう一族、なんですか……?」
「そこまでは、まだ分からない。」
「だからこそ、俺も驚いてる。」
すると、それまで黙って聞いていたみたが、小さく笑みを浮かべた。
「どうやら、おぬしたちは。」
「まだ何も知らぬようじゃの。」




