20話 毒の異能
第20話です。お読みいただきありがとうございます。
路地裏には、静かな沈黙が流れていた。
誰も口を開かない。
だが先にその空気を破ったのは、アスピラだった。
「そんなに睨まないでよ。」
軽く肩をすくめながら笑う。
「私はただ、お話がしたいだけ。」
「……。」
澪華は何も答えない。
その視線は、一瞬たりともアスピラから逸れなかった。
アスピラはそんな澪華を見つめ、くすっと笑う。
「真面目だねぇ。」
「疲れない?」
「一応仕事ですので。」
澪華は淡々と答える。
「そう。」
「なんか大変そうだね。」
アスピラのその口ぶりには、本当に同情しているのか、それともからかっているのか分からない曖昧さがあった。
榮は二人のやり取りを見守る。
張り詰めた空気とは裏腹に、会話だけを聞けばどこか穏やかにも思えた。
だが五葉だけは違う。
じっとアスピラを見据えたまま、一歩も動かない。
その小さな体からは、隠しきれない警戒心が滲み出ていた。
アスピラはそんな五葉へ視線を移す。
「そんなに警戒しなくてもいいのに。」
「別に今すぐやるつもりなんて──」
言葉の途中で、小さく笑う。
「……なんて。」
その一瞬だった。
アスピラの紫色の瞳が、妖しく輝く。
「っ!」
澪華が異変を察知した、その刹那――。
アスピラの姿が掻き消えた。
「なっ……!?」
榮が目を見開く。
次の瞬間には、アスピラはすでに澪華の懐へ潜り込んでいた。
「ざんね〜ん。」
ドンッ!!
鈍い衝撃音が路地裏へ響く。
アスピラの拳が、澪華の腹部へ深く突き刺さる。
「っ……!!」
澪華の体が大きく浮き、そのまま路地の奥へ吹き飛ばされた。
しかし、その体勢は崩れない。
空中で素早く身を捻り、両足と片手を地面へつけて衝撃を逃がす。
ザァッ――。
靴底が地面を滑り、砂埃が舞い上がる。
数メートル先で静かに停止した澪華は、ゆっくりと立ち上がった。
目立った外傷はない。
受け身も間に合っていた。
(……今の一撃だけなら。)
そう判断した、その時だった。
「……?」
体の奥に、小さな違和感が走る。
腕が重い。
指先が、わずかに痺れる。
「これは……。」
澪華の表情が、初めてわずかに変わった。
遠くでアスピラが、口元だけで笑う。
「ちゃんと入ったみたい。」
その笑みは、奇襲が成功したことを確信した者の笑みだった。
自分の身体の異変に気付いた澪華は静かに自分の右手を見る。
指先が思うように動かない。
腕だけではない。
足にも、胸にも、全身へ何かが広がっていく感覚があった。
(……違和感ではありません。)
(これは――。)
胸の奥が焼けるように熱い。
血液そのものが異物へ侵されていくような、不快な感覚。
その正体に気付いた瞬間、澪華の瞳がわずかに揺れた。
「……毒。」
ぽつりと漏れたその言葉に、榮は目を見開く。
「毒……?」
アスピラは嬉しそうに笑う。
「正解。」
「拳だけで終わると思った?」
「私、そういう戦い方しないんだよね。」
そう言って、自分の拳を軽く眺める。
「さっき触れた瞬間、皮膚から入れといた。」
「しかも、結構たっぷり。」
「まあ、手の中に針を仕込んでるなんて見抜けるわけないよね。」
その言葉を聞いた五葉の表情が凍りつく。
「……っ!」
澪華は立ち上がろうとする。
しかし、一歩踏み出した瞬間――
「がっ……!」
喉の奥から熱いものが込み上げる。
思わず口元を押さえた。
指の隙間から、鮮やかな赤が零れ落ちる。
ぽたっ……ぽたっ。
血が静かな路地へ落ちた。
「澪華!」
五葉が駆け寄る。
澪華の肩を支え、その顔を見る。
呼吸は荒く、額には冷たい汗が滲んでいた。
「大丈夫!?」
「……問題、ありません。」
そう答えようとした。
しかし次の瞬間、
「ごほっ……!」
再び大量の血を吐き出す。
膝が崩れ、その場へ片膝をついた。
全身から急速に力が抜けていく。
血液に乗った毒が、凄まじい速さで体中を巡っているのが分かった。
(速い……。)
(ここまで強い毒を……。)
視界がわずかに霞む。指先の感覚も薄れていく。
「澪華!」
五葉の声が震える。
榮も目の前の光景を信じられなかった。
「お、おい……。」
さっきまで冷静だった澪華が。
誰よりも落ち着いていた澪華が。
今は血を吐き、その場から立ち上がることすらできない。
「あ〜あ、ご愁傷さま〜」
アスピラはそれを横目に見ていた。
また、榮の頭は完全に混乱している。
(何なんだよ……。)
(何が起きてるんだ……!)
路地裏には、澪華の荒い呼吸だけが静かに響いていた。
五葉は澪華を支えながら、ゆっくりと立ち上がる。
その瞳は、もうアスピラだけを見据えていた。
淡い黄色の瞳から、いつもの穏やかな光は完全に消えている。
「……許さない。」
小さな呟き。
それだけで路地裏の空気が張り詰めた。
アスピラはその変化を見ても、口元の笑みを崩さない。
「お。」
「やっと本気?」
「その顔、結構好きかも。」
五葉は返事をしない。
頭の中では、一つのことだけを考えていた。
(どうやって……。)
(どうすれば、あいつだけを止められる。)
今ここで力を解放すれば、アスピラを倒すことは難しくない。
それだけの自信はあった。
だが、その代償も理解している。
少しでも制御を誤れば、この狭い路地ごと吹き飛ばしかねない。
榮まで巻き込む。
それだけは、絶対にできない。
(榮は普通の人。)
(絶対に巻き込めない。)
五葉は歯を食いしばる。
一歩踏み出しかけては止まり、視線だけがアスピラを射抜いていた。
アスピラはそんな五葉の迷いを見透かしたように笑う。
「困ってるね。」
「力はあるのに使えない。」
「そういうの、一番やりやすいんだよ。」
その言葉に、五葉の拳が震えた。
怒りではない。自分の無力さへの苛立ちだった。
その様子を見ていた榮は、何もできず立ち尽くす。
(五葉……。)
今にも飛び出しそうなのに、動かない。
動けない理由は分からない。
だが、それが自分に関係していることだけは、なんとなく伝わってきた。
その時だった。
「……五葉。」
かすれた声が聞こえる。二人が振り向く。
血を吐きながらも、澪華がゆっくりと顔を上げていた。
その顔色は青白く、呼吸も乱れている。
それでも、その瞳だけはまだ死んでいなかった。
「……下がって、ください。」
「でも!」
「今は……だめです。」
澪華は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「落ち着いてないあなたが、完全に制御しきれてない力を使えば……。」
「榮さんを……巻き込みます。」
五葉は唇を噛み締める。
分かっている。
だからこそ動けなかった。




