8.5話 『出会っていた二人』 2
お読みいただきありがとうございます。
――『五葉はすごく優しいね……大好き』
『はっ……!?』
脳内にその言葉が流れ込んできて、私は強制的に意識を浮上させた。
『あだッ…! 痛っ……』
遅れて、首元に凄まじい激痛が走る。
愛莉と二人きりの放課後に、突如として私を襲ったこの『意識の朦朧』。
その不気味な渦のなかにまだ囚われているせいか、脳は霧がかかったようで、完全に覚醒しきってはくれない。
『なんなの……もう……』
手で痛みを感じる首元を触ると、手のひらには赤い鮮血。
しかもかなりの量だ。
そして仰向けに倒れていた床を見下ろすと、自分の血が細々と点在していることが確認できた。
『ひっ……!』
ゾッとするような光景に、思わず顔を引きつらせる。
……私は血を――この時初めて見たのだ。
これまでの人生で、血が出るような怪我をしたことは一度もなかった。
出血を伴わない怪我で言えば、小さな骨折や捻挫くらい。切り傷やかすり傷がつくことすら、経験したことがない。
だが、そのどれも私的には全然痛くなかった。
元々痛みを感じづらい体質で、幼稚園の時に自転車に跳ねられたこともあったが、その際でも痛がる素振りを見せなかったらしい。
我ながら、今思うと化物だ。
しかし、この状況では話が変わる。
人生初めての大量出血。
『大量出血』というワードだけでも血の気が引くが、恐怖をさらに跳ね上げるのは、四方八方に散らばる自分の血。
化物といえど所詮は子供。やっと十歳になったばかりの幼い少女が、このような惨状を眼前に突きつけられた場合どうなるだろうか。
それはきっと――とてつもないトラウマになって、泣くどころの話にならない。
『血? これ血……? 私の血なの? いやっ……いやっ…!』
目の前にある自分の血。それが満遍なく滲んだ手を見つめ、拒絶しながら身体をガクガクと震わせている。
――そして今はもう、血のことしか考えられなかった。
教えてあげる約束など脳の片隅にも残らず、全体が恐怖に覆い尽くされていた。
さらに宝来愛莉という、あの子の名前すら忘れそうな私。
強く印象に残ったはずの「名」は、恐怖という『概念』にかき消される――。
『先生ぇ……! 死にたくない! お願い、助けて……!』
泣きじゃくる度に顔を拭う。けれど、その手にはさっきの血がべっとりとついていた。
繊細で純粋な美顔は、血が付着したハンカチに様変わりしていく。
――
午後の六時半。
普段見回りにくるはずの先生達がこない。
校内は夜の静寂に包まれるが、少女が声を枯らして泣いていた教室だけ、満月の光がやけに強く差し込む。
『……あれ、なんで誰も来てくれないの?』
私は意図せぬ間に泣き止んでいた。
泣いていた理由は自分の血を見て、さらに痛みを感じたから。それは分かってる。
が、一つ気になることがあった。
なんで私はここにいるの?
呼び出されたから? 誰かに会うため? 忘れ物を取りに来たから?
どうしてだろ。
覚えた宝来愛莉という名前は恐怖によって上書きされ、記憶を無くしてしまった五葉。
彼女の本来の目的は「愛莉さんに勉強を教えるため、早く家に帰ろう」なのだが、皮肉なことに覚えていない。
さて、どうするのか――。
首元の出血は止まり、気づけば意識も元に戻っていた。
けれども、ある名前を思い出せない。
でもまあ、もういいや。
『取り敢えず、顔を首を洗おう。血が付いたままは不衛生だよね』
私は教室を出て、月明かりが伴う窓辺の水道に行った。
顔と首と手、そして爪の間にも血がこびり付いていたので念入りに洗う。
『これでよしっと。……でも、なんで先生来てくれかったのかな』
学校の壁に反響するぐらい泣き叫んだはずなのに、誰一人と反応がなかった。
生徒がいないのは当然だが、教師は見回りでいるはずだ。少なからず一人は……。
たまたま見回りがなかった日だから? いや、それも違う気がする。
この小学校の教師は、夜に必ず徘徊しなければならない、そんな事を委員会の先輩から聞いたことがあった。
どうやら昔、ここのクソガキが夜の学校に肝試ししに来ていたらしい。
そいつらはバレた後、こっ酷く説教をさせられていたわけだが、
「俺達ならできる! きっと大丈夫! うん!」
と供述としたアホな先輩が、その説教の後日に便乗して来たらしくて、大目玉を食らったのだとか。
それで教師の徘徊制度ができた。馬鹿馬鹿しい理由だよ、ほんと。
――まあとにかく、今は先生を探そう。いなかったら家に帰ればのはなしだし。
『ん、階段から足音がする。やっぱり、誰かまだいるのかな』
私が考えるのをストップした時、近くの階段からコツコツと硬い音が響いた。
『す、すみません、先生ですか? ちょっと困ったことがあって助けてほしいんですけど……』
小声で叫んでみた。
が、何の反応も帰ってこなかった。
というか、足音が止まった気がする。
『あ、あれぇ……。先生ではないんですか。じ、じゃあ誰ですか……?』
もう一回声を掛けたが、それでもこない。
(おかしい。誰かはいるはずなのに……。もう自分から行くか)
返しの言葉がないことに少し苛立ち、私は試しに中段あたりまで上がってみることにした。
『そこにいるなら返事ぐらいしてほしいんですけど……』
足音が聞こえたすぐ近くまで足を進め、暗闇に向かってそう言い放つ。
その瞬間。階段に向けていた私の視線の上層から、強烈な『何か』の気配が降ってきた。
(………?)
念のため、恐る恐る目を上に移動させる。
そこには――――
◇
「あ、れ……? この先なんだっけ」
ブツリ、と記憶が途絶え、無理やり現実に戻された。
目を上げたあとに目撃した、あの光景が思い出せない。
そこにいた人の姿も、映画のフィルムの一部が剥ぎ取られたような白紙になっていた。
さらに。
いじめでの大暴動。それもその後で起こったはずなのに、どうしてだか思い出すことができずにいる。
「ていうか、こんなことしてる場合じゃない……! 早くお兄さんを助けなきゃ!」
独り言のようには激しく呟き、榮の方へ目を走らせる。
そこには、さっきと何ら変わらない茶髪と榮の取っ組み合いが、まだ続いていた。
(あーもう、作戦なんて要らない! でも殺すのはダメ! 突っ込めばなんとかなる! うん!)
少女の回想が長ったらしくて、ごめんなさいね。




