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魔王を看取った男 ──介護福祉士・矢野透の異世界救済譚──  作者: もしものべりすと


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第一章 申し送り、午前七時

七時十二分。蛍光灯の下で田中フミ子の指は俺の白衣の袖を掴もうとして空をかいた。


「お母さん」


その声を俺は聞かなかったことにした。


距離。介護現場で五年間磨いてきた俺の最大の技術はそれだった。


夜勤明けの体は鉛のように重い。耳の奥で空調の低音だけが鳴っている。フミ子さんの皺だらけの指がもう一度伸びてきたとき、俺は椅子を半歩引いた。半歩。それで彼女の手は届かなくなった。届かない場所に身を置く。届けば疲れる。疲れることを俺はもう何年も前にやめていた。


「お母さん おうちに帰ろう」


「田中さん ここがおうちですよ」


声は出した。マニュアル通りだった。それ以上は出さなかった。


特別養護老人ホーム「ひだまり苑」の二階フロア。三十二床。要介護度の平均が四を超える終の棲家。窓の外では曇った冬の朝が始まりかけていた。空は灰色で雪の予報が出ていた。


俺の視線は手元のクリップボードに落ちた。バイタル記録。体温三十六度六分。血圧百二十八の七十二。脈拍七十四。SpO2九十七パーセント。数字の羅列。生きている人間を数値に変換する作業。それを俺はボールペンで淡々と書き込んだ。ペン先が紙を擦る音だけが部屋に響いた。


田中さんの娘の連絡先は今もカルテに残っている。何年も面会には来ていない。母親が誰の名前も呼べなくなってから家族の足は遠のく。それは介護現場では珍しくない風景だった。最初に気づくのは正月だ。次に誕生日。次に母の日。それらの行事を境に親族の影は遠ざかり、最後に残るのは俺たち介護職員の足音だけになる。フミ子さんもそうだった。だからフミ子さんは、若い男の白衣を見るたびに「お母さん」と呼ぶ。彼女の中で時間は逆流している。彼女が今いる場所は、四十年前の台所であり、ご飯が炊ける匂いと幼い娘の足音の中だった。


それが俺には分かっていた。分かっていて振り払った。


「矢野さん」


背後から呼ばれた。同期の沢田だった。


「田中さん また矢野さんに『お母さん』って」


「ああ」


「替わろうか」


「いい」


俺は短く答えた。沢田の視線が俺の横顔に刺さるのを感じた。沢田は何か言いたそうに口を開いて、結局閉じた。それからカートを押して隣の部屋へ消えていった。沢田の靴底がリノリウムを擦るキュッという音が、廊下の奥に吸い込まれていった。


俺は一拍置いてからフミ子さんに向き直った。彼女の目はすでに俺ではないどこかを見ていた。彼女の口元はわずかに動いていた。子守唄か。あるいは娘に向ける言葉か。俺には聞こえなかった。聞こうとしなかった。


おむつ交換のカートを引き寄せた。手袋を二重にする。エプロンを締め直す。立体ギャザーを指で立てる。テープをクロスに止める。下のテープを斜め上へ。上のテープを斜め下へ。鼠径部の隙間をなくす。背中からの尿漏れを防ぐ。一連の動作は十秒もかからない。介護福祉士養成課程で教わった通り。新人の頃に何度も叱られた通り。今では呼吸をするように手が動く。


呼吸をするように、心は動かない。


「終わりました」


声をかけてシーツを戻した。フミ子さんは何も言わなかった。彼女の目には涙が浮かんでいたかもしれないが、俺は確認しなかった。確認すれば反応しなければならない。反応すれば疲れる。


廊下に出た。換気扇の油じみた匂い。配膳ワゴンの金属の音。エレベーターのチャイム。それらが朝の風景を作っていた。フロアの窓の外では雪が斜めに降り始めていた。歩道の縁石が白く縁取られていく。


ナースステーションでは新人の若林がパソコンに向かっていた。一年目の女の子。化粧の薄い顔に目の下の隈が濃い。パソコンのキーボードを叩く指がぎこちなかった。介護記録の入力に慣れていない。半年経っても慣れていない。


「矢野さん」


「うん」


「あの 相談があって」


俺はクリップボードを台に置いた。


「どうした」


「私 向いてないかもしれないです」


「向いてないって何が」


「介護です」


俺は時計を見た。七時二十六分。日勤者への申し送りまで残り三十分。


「向いてないかどうかは三年やってから言え」


「でも」


「でもじゃない。慣れだ。手が動くようになれば気持ちも追いつく」


若林の唇が震えた。何か言い返そうとして、彼女もまた口を閉じた。沢田と同じ顔だった。俺と話したあとに皆が浮かべる、あの表情。期待を半分諦めた表情。


俺はそれを知っている。知っていて変えなかった。


「今日はBユニットの入浴回るから。十時から。バイタルだけ先に取っておいて」


「はい」


「血圧計の電池 残量見ておけ。昨日切れかけだった」


「はい」


事務的なやり取り。それで会話は終わった。若林はパソコンに視線を戻した。彼女はあと三ヶ月ともたずに辞めるだろう。それが俺の予感だった。予感は経験から来ている。俺の班に入った新人はこれで七人目の脱落候補になる。


階段を降りた。昨夜から動き続けている脚の付け根が鈍く痛む。階段の踊り場の窓から見える駐車場には職員の車が冷たい朝霧の中で並んでいた。俺の中古の軽自動車も端に停まっている。あの車に乗って家に帰り、シャワーを浴びて、カップラーメンを食べて、布団にもぐり込む。それで一日が終わる。終わって、また始まる。


母さんが死んでから、俺の毎日はそういう形になった。


階段の途中で立ち止まった。理由はなかった。ただ膝が動かなくなった。窓ガラスに映った自分の顔を、俺は見た。


二十八歳。痩せている。目の下に細かいシミ。髭は剃ってきたつもりだったが首筋に剃り残しがある。介護福祉士の白衣は何度も洗ったせいで生地が薄くなっていた。襟の縫い目が一カ所ほつれていた。これが俺だった。


これが俺の、五年間の答えだった。


専門学校時代の俺は、もう少し違っていたと思う。介護福祉士になろうと決めたのは、母さんがまだ元気だった頃だった。母さんは小学校の用務員をしていて、子どもたちに人気があった。「お母さんの仕事、いいなぁ」と俺は子どもの頃に言った。母さんは「人を助ける仕事は気持ちがいいよ」と笑った。その言葉を俺はずっと覚えていた。だから、人を助ける仕事に就こうと思った。介護福祉士の資格を取るために専門学校に入ったとき、母さんは「お母さんを大切にしてくれる仕事を選んでくれてありがとう」と泣いた。その涙を俺は今でも覚えている。


覚えていて、思い出さない。


母さんが死んだのは三年前の二月だ。認知症が進んで、老人保健施設に入って、半年経った朝、職員から電話があった。


「お母さんの容態が急変しました」


俺は仕事を抜け出して施設に向かった。タクシーが渋滞に巻き込まれた。雪の日だった。今日と同じような雪の日だった。施設に着いたとき、母さんはもう冷たくなっていた。


担当の看護師が言った。


「最後に何か言いたそうにされていました。『ありがとう』って 口の形で。透さんに伝えたかったんだと思います」


俺はその場では泣かなかった。葬儀でも泣かなかった。骨を拾うときも泣かなかった。


ただそれから三年経った今も、母さんの遺品の段ボールは俺の部屋の隅に積み上げられたままだ。封を切れない。封を切ったら何かが終わってしまう気がして、俺はそれを毎日見ないふりをして暮らしている。


階段の踊り場で俺は深く息を吐いた。窓ガラスの中の男は、何の感情も浮かべていなかった。


「矢野さん 申し送りお願いします」


下のフロアから声がした。日勤の主任、倉橋の声だった。


俺は階段を降りた。


──


倉橋哲也は四十二歳の主任だった。痩せた頬と細い目。声は低く、語尾を伸ばさず切る癖がある。彼の手元のタブレットには昨夜の記録がすでに開かれていた。タッチペンを左手に持ち、画面を素早くスクロールする。仕事の速い男だった。仕事の速さでいえば、おそらくこの施設で一番速い。


「では夜勤からの申し送りをお願いします」


俺は立ったまま読み上げた。


「Aユニット三号室 佐藤ヨネ様。二十三時十八分にコール。トイレ誘導。排尿あり。皮膚状態異常なし。同二十四時十二分 再コール 不穏。声かけにて入眠。Bユニット八号室 鈴木カネ様。深夜二時四十分 転倒事故。ベッドサイドにて発見。打撲なし。バイタル安定。家族連絡済み。当直医確認済み。Cユニット十二号室 田中フミ子様」


俺は一拍置いた。


「夜間徘徊三回。離床センサー作動。声かけにて居室誘導。覚醒状態 軽度混乱あり。本日朝も継続。以上です」


倉橋はタブレットを操作した。


「田中さんの徘徊 三日連続ですね」


「はい」


「家族には報告した?」


「夜中なので まだ」


「日中にこちらから連絡入れます」


「お願いします」


倉橋は短く頷いた。それから少し顔を上げた。


「矢野さん ちょっと残って」


俺は他の夜勤者が解散するのを待った。沢田が俺に短く目配せをしてエレベーターに乗り込んだ。沢田の目配せには、何か慰めるような色があった。慰められる理由が俺には分からなかった。


二人になった事務室で、倉橋は椅子を回して俺の方を向いた。事務室の壁にはシフト表と感染対策ポスターが画鋲で留められていた。窓の外では雪が降り続けていた。


「矢野さん 新人の若林さんから話がありました」


「相談されました。さっき」


「彼女は辞めたいそうです」


「三日で慣れます」


「彼女はもう半年です」


俺は黙った。半年。そんなに経っていたのか。半年前、若林が初出勤した日、俺は彼女に何を言ったか思い出そうとした。思い出せなかった。


「矢野さんの班 今年三人目です。新人が辞めるの」


「俺のせいですか」


「あなたのせいだ とは言いません。ただ 班の数字も落ちている」


数字。倉橋がいう数字とは、入浴実施率、食事摂取率、転倒件数、苦情件数といったKPIのことだった。介護の質を、彼はそれらの指標で測ろうとしていた。施設経営の論理としては正しい。介護報酬は出来高制であり、稼働率と業務効率が経営を直撃する。だが俺は知っている。数字は嘘をつかないが、数字だけ見ていると別の嘘が見えなくなる。


「事故率は下がってますよ」


「事故が起きないのは利用者があなたを警戒して動かなくなるからかもしれない と私は考えています」


俺は倉橋の細い目を見た。彼の言葉には冷たい論理があった。論理は正しい。だが正しさが正解とは限らない。少なくとも介護現場では。


「警戒 ですか」


「あなたの班の利用者 笑顔の頻度が他の班より少ない。介護記録の表情記述を見ればわかります」


俺は何も答えなかった。


倉橋はタブレットを閉じた。


「私は矢野さんを評価しています。技術は文句ない。でも 最近のあなたを見ていると 心配になる。母親を亡くしてから三年でしょう。そろそろ──」


「主任」


俺は彼の言葉を止めた。


「業務に関することなら聞きます。プライベートのことは結構です」


倉橋は数秒、俺を見つめた。それから小さく息を吐いた。


「分かりました」


俺は事務室を出た。背中に倉橋の視線が刺さっていた。彼は俺を見下ろしているのか。それとも俺の心配をしているのか。どちらでもよかった。俺はもう、誰の視線にも応えるつもりはなかった。


更衣室で白衣を脱いで、シャワーも浴びずに私服に着替えた。靴下が湿っている。一晩中歩き回った汗が乾ききっていない。鏡の中の俺は、やはり何の表情も浮かべていなかった。


駐車場に降りた。空には灰色の雲が低く垂れていた。雪が降りそうだった。すでに駐車場の白線は雪で薄くなっていた。


車のキーを差し込んでエンジンをかけた。ヒーターから埃の匂いがする。ラジオから天気予報が流れた。


──寒気が南下しています。今夜は積雪の可能性があります。


俺はラジオを消した。


──家に帰っても、母さんの段ボールがある。


帰りたくなかった。帰る場所が、俺にはなかった。


ただ俺はアクセルを踏んだ。中古の軽自動車は冷たい朝の道路に滑り出した。フロントガラスに最初の雪が一片ついた。それは溶けてすぐに見えなくなった。


その日が、俺の最後の出勤日になるとは、まだ知らなかった。

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