第七話
調査のためふたたび足を踏み入れた本堂は、極彩色の壁画に囲まれながらも、冷たい静寂に包まれていた。
玄晏は無咎とともに、壇上の御神体、教祖の座す台座、そして空間の中央にある跪拝台を順に調べた。
だが、死者の声を響かせるための細工は、何一つとして見当たらない。
無咎は跪拝台の縁に腰を下ろし、指先で顎をさすりながら呟いた。
「死者の声は一方的ではなく、ここにいる信者と会話が成立していた。ということは声の主が本堂のどこかに隠れ、そこから故人のふりをして話している。と考えるのが自然だろう」
玄晏は胸の前で太い腕を組み、一昨日できたばかりの相棒を見下ろした。
「しかし、声は私にしか聞こえなかったのだぞ」
「ああ。その仕組みを見つけねばならんのだが……」
どこか自信なげに応じる無咎の横顔からは、いつもの飄々とした余裕が消え失せている。
「無咎どの。どうした?」
「……いや。昨日の教祖の反応が少し引っ掛かっていてな」
教祖白樺が鎮座していた台座を見上げながら、無咎は吐露する。
「あんたが故人と話している最中、俺は席から立ち上がって、勝手にここまで移動したんだ。仮にどこかに声の主が潜んでいるのだとしたら、教団は死に物狂いで阻止するだろう?だが、教祖は俺を好きにさせた」
彼が言うには、その時の白樺は、顔に余裕の笑みさえ浮かべていたという。
「残る場所はやはり、ここだな」
無咎は懐から一本の鋼の針金を取り出すと、床板の細い隙間へ迷いなく滑り込ませた。
針金はスルスルと吸い込まれていったが、やがて「カチッ」と硬質な音を返して止まる。
「下の石にぶつかったようだな」
玄晏がそう言うと、無咎は無言で眉間に皺をよせ、何度も床下をつついた。
「無咎どの?」
「いや……。確かに床下に隙間はある。拳二つ分くらいだな。鼠や猫なら隠れられるだろうが、人間はとても入れない」
無咎は針金を抜き、付着したわずかな塵を指で払った。
そして小さくため息をつく。
「跪拝台に跪く信者と会話ができて、なおかつ誰にも見つからない場所といえば、床下しかないと思ったんだがな」
ひとまず調査を中断し、玄晏は無咎とともに後方の座席へと移動した。
黒い木製の椅子に腰を下ろすと、無咎が何気なく言う。
「そういえばこの椅子、妙に高いと思わないか」
「そうか?」
「……あんたに聞いた俺が馬鹿だった」
六尺(180センチ)を優に超える玄晏を見上げ、無咎は軽く舌打ちする。
───言われてみれば、少々高い気もする……。
現に小柄な司馬夫人は、座ると足がわずかに床から浮いてしまっている。
女性や子供など腰を下ろすのにもひと苦労だろう。
「そういえば、昨日椅子から転落した信者がいたらしいな」
玄晏は、昨夜食堂で小耳に挟んだ話を思い出した。
その転落事故があった時、彼は「御声聞き」の最中であったため、背後で何がおきたか全く知らないのだ。
「ああ。さっき下で会った陳氏が、居眠りをしていてな。怪我はなかったようだが、もっと脚の低い椅子にしておけば、ああいう事故もなくなるものを」
陳氏は自分の父親から「何か」を聞き出すことしか頭になかった男だ。
他人の参拝中に居眠りをし、あの丸々とした体で床に転がるさまは、玄晏にも容易に想像できた。
しかしそんな彼が、今日になっていきなり信者へと変貌していた。
その心中は、全くもってはかりかねる。
無咎は思い出したように続ける。
「ちょうどその時だな。あんたが『兄さんの声が聞こえない』と言って、子供みたいに喚きだしたのは」
からかうような口ぶりに、玄晏は慌てて反論した。
「ただ驚いただけだ。あの時はまだ話の途中で、急に兄さんの声が止んだ」
「急に……?」
無咎はそうつぶやくと、糸が切れたように静止した。
かと思えば袂から扇をとり出し、こめかみに添えると、そのまま目を閉じ思考の海に沈んでいく。
玄晏には、その深刻な反応が今ひとつ理解できなかった。
「どうした。『御声聞き』には制限時間のようなものがあるのだろう?線香が燃え尽きるまでという」
改めてそれを考慮すれば、声が急に途切れたことを特段おかしいとは思わない。
「おい。無咎どの……?」
「……」
それでも反応しない無咎に、玄晏はあきらめて話題を変えた。
「聞こえないといえば、ここだと水音がやけに響くな。さっきまでは全くしなかったが」
出入口の外にある手洗い場。
そこから流れ続ける水の音が、静寂の中かすかに響く。
「『御声聞き』の場だからな。水の音は前方には届かないよう工夫されているのだろ……」
無咎が言いかけて、はっと目を見開いた。
「水の、音……?」
独り言のように呟いたと思えば、急に立ち上がってひとり出口へ向かった。
「おい、どこへ行くんだ」
玄晏が彼を追いかけて本堂を出ると、無咎は水音の出所である手洗い場の前に立っていた。
「御声聞きに、雑音は大きな妨げになる。それなのに、なぜこんな場所へわざわざ水を引っ張ってきたんだ?」
「それは、手を清めるためだとか何とか……」
玄晏はそう答えるが、彼自身の頭にもぬぐえない違和感が生じた。
手を清めるだけならば、大きな甕にでも水を張っておけばいい話だ。
わざわざ山から管をひいてまで湧き水を使う必要があるのだろうか。
無咎は、ただ竹管から絶えず流れ落ちる水を凝視する。
そして今度は堂内へ戻り、中央の跪拝台へと一直線に走り出した。
「おい、走るとまた────」
案の定無咎はつまずき、そのまま床へ滑りこむように転んでしまった。
「大丈夫?無咎さん……」
思わず立ち上がって駆け寄る司馬夫人に対し、無咎は床に伏せたまま、人差し指で前方を指し示した。
「……夫人。この香炉はいつもこの場所に?」
跪拝台の前に備え付けられた、青銅の香炉である。
「え……ええ。線香が燃え尽きるまでの様子が、跪拝台から最もよく見える場所に置いてあるようですよ」
「やはり。そうですか……」
這いつくばったまま顔だけを上げた無咎は、鼻を押さえながら香炉をまじまじと眺める。
「いったいどうしたんだ。あの線香には何も問題なかったのだろう?」
香炉から立ち込める線香の煙には、幻聴作用を引き起こすようなものは無かったと、無咎自身がすでに確かめている。
「ああ。線香にはな」
そう言うと無咎は、伏せたまま這うようにして跪拝台へ降り、床に膝をつける。
そして顔を上げ、精巧な白蝶の文様が彫り込まれた香炉の表面を、食い入るように見つめた。




