第七話 司馬夫人
玄晏が瞼をあけると、そこには無機質な天井が広がっていた。
家具の色目や形が統一され、壁には蝶の紋様が描かれている。
───ああ、今は潜入調査中だったか……。
しばし布団の上でまどろみ、さっきまで見ていた夢を思い出した。
───伯文兄さん……。
姿の見えぬ「御声聞き」とは反対に、夢に出てきた伯文は、いつもの快活な笑顔を見せるだけで、声を聞かせてくれなかった。
───怒っているだろうか。偽物を信じてしまった俺を……。
今思えば、亡き師兄と言葉を交わした昨日の「御声聞き」もまた、白蝶の見せる夢に過ぎなかったのかもしれない。
玄晏が重い体を起こすと、そばの鏡台では、一昨日出会ったばかりの奇妙な男・無咎が髪を結っていた。
春の陽光が、繊細な顎の骨格や、小ぶりな鼻を白く照らし出している。
無咎はこちらに気づくと、あどけない顔で言った。
「朝餉の時間はとっくに過ぎてる。あんたの分も貰ってきてやったぞ」
彼が指し示した卓の上には───鍋にたっぷりの粥、山積みの饅頭に、みずみずしい野菜や山菜を使った料理の数々。
ざっと見ても五人前はありそうだった。
「……貴殿はそんなに大食いなのか?」
唖然として問うと、無咎はあきれ顔で焦茶色の長上着に袖を通す。
「俺は食堂で食った。あんたもさっさと食わないと置いていくぞ」
「いったいどこへ?」
「調査に決まっているだろう」
昨夜の気まずい空気など、まるでなかったような口ぶりだ。
玄晏は少しだけ胸の軽くなった心地がして、寝台から立ち上がる。
急ぎ朝餉を平らげているうちに、夢の残り香は消えていた。
*
「無咎どの。本堂はあっちだぞ」
円錐形の巨大な二重屋根を指差して呼びかけると、先を行く無咎は足を止めてふり返った。
「今すぐ本堂を調べたいのは山々だが、追い出されるのが関の山だ。教団側も、俺たちがただの商家ではないと勘付いているだろうしな」
昨日のやり取りで、二人が「主人と使用人」という設定を演じきれていなかったのは明白だ。
「では、どうするんだ」
「協力者に会いに行く」
「協力者?」
再び歩きだす背中を追うと、いつの間にか足を踏み入れていたのは、本堂と反対方向にある、信者たちの居住区であった。
建物の一棟一棟が清潔な白木造りで、まるで定規で測ったように同じ形をしている。
軒先や戸口、風にゆれる旗にいたるまで、いたるところに白蝶の紋様が刻まれており、その統制された美しさは、薄寒いものを感じさせた。
無咎はある屋敷の前で足を止め、門をくぐる。
「こんにちは。こちらは司馬夫人のお宅でしょうか?」
いつもより一段高くまろみを帯びた声を響かせると、奥から現れたのは、白装束に大ぶりな数珠を着け、灰色の髪を品よく整えた初老の婦人だった。
「ええ。わたくしがそうよ」
無咎は姿勢を正し、胸の前で拱手する。
そして、いかにも好青年といったさわやかな笑顔を披露した。
「陶無咎と申します。こちらの李玄晏とともに都で商いをしておりましたが、縁あって来夢の里でお世話になることになりました。以前は宮中の妃嬪の皆さまにもご贔屓いただきまして、こちらに貴妃さまの母君がいると耳にし、ぜひご挨拶をと」
すると司馬夫人は目を丸くし「まあまあ」と、高官の妻とは思えないほど親しげな反応を見せた。
「ここにいる者たちは皆家族ですから、どうか身分は忘れて。わたくしのことも母だと思ってちょうだい」
夫人はあっさりとふたりを屋敷へ招き入れ、無咎と身の上話に興じる。
「夫人はいつからこの里へ?」
「三月ほど前よ」
茶をすすりながら、夫人はこれまでの経緯を語り始めた。
十五で都の高官へ嫁ぎ二男二女に恵まれ、娘は貴妃として皇帝の子を生んだ司馬夫人。
女なら誰もが夢見るような、幸せな人生だったとふり返る。
ただひとつ、早くに亡くした息子のことだけが、昔から悔いであったと。
「そんな時に、『死者の声が聞ける』という白音堂の噂を耳にして、ためしに一度訪れてみようと思ったのよ」
話を聞くかぎり、夫人の亡き息子というのは貴妃の兄にあたるようだが、よほど若いうちに亡くしたのだろう。
その存在は、玄晏も初耳であった。
「はじめは入信するつもりなんてなかったわ。ただ、本当にあの子に会えるなら……声を聞いてみたかった。だけど、一度聞いてしまったら、もう……」
夫人は一瞬、感極まったように言葉に詰まった。
「ここにはあの子がいるの。これまで、いくら帰ってきてほしいと祈っても、一目会うことすら叶わなかった息子が。それなのに今、また……。こんなところに息子をひとり置き去りにして、離れられる母なんているかしら」
「……」
反論できず、表情を曇らせる二人。
しかし、夫人は穏やかに続けた。
「ここの暮らしも、慣れれば良いものよ」
この村では皆が平等である。
貧富の差も、身分も、損得感情すら発生しない。
都の喧騒を離れて、余生はここで静かに過ごすつもりなのだと、夫人は静かに語った。
無咎が問う。
「夫人は『御声聞き』を何度も経験されているそうですが、ふだんご子息とはどのようなお話を?」
「他愛もない話です。最近ようやく暖かくなったとか、風邪をひいていないかとか。近ごろのあの子は、わたくしの体を心配してばかりね」
「……」
何かが引っ掛かったように黙り込む無咎。
代わって、今度は玄晏が口を開いた。
「私も、母と顔を合わせても『元気か』くらいしか話せないと思います。男が母親と話すことなんて、そうそう思いつきませんからね」
「ええそうね。仕方のないことです。息子とは別れて久しいし、私は今やこんなおばあちゃんですから」
白い布で覆われた無機質な部屋に、ほがらかな笑い声が響いたところで、無咎が本題を切り出す。
「実はこれから、本堂を見学したいと思っているのですが、よければご一緒しませんか」
「ええ。もちろんよ。案内するわ」
無咎があらかじめ予想していたとおり、司馬夫人は信者の中でも特に優遇されているらしい。
夫人が本部へおもむき本堂への見学を申し出ると、幹部も二つ返事で快諾し、見張りをつける様子もなかった。
その後三人が本堂を目指していると、石段の途中に、真新しい白装束をまとった男がひとり、所在なげにたたずんでいた。
「あれ。あなたは、たしか……」
その丸々と太った体に、玄晏は見覚えがあった。
名を思い出そうと記憶をたどるよりも早く、前を行く無咎が声をかける。
「陳どのですね、昨日はどうも」
昨日、「御声聞き」の待合室で彼らに声をかけてきた男だった。
「ああ。ど、どうも……」
こちらに気づいた陳は、肉のついた顔を決まり悪そうにゆがめた。
「どうしたのですか、その格好は」
「ええっと。実は……少しの間ですが、ここでお世話になろうかと」
「え?」
玄晏は思わず声を上げ、無咎と顔を見合わせた。
昨日の陳は、入信の意思など微塵もなく、むしろ信者たちを蔑んでいた。
『聞くことを聞いたら、こんな所は用なしだ』とすら豪語していたのに。
そんな男が、今日になって教団の象徴である白装束に身を包んでいるとは、どういう風の吹き回しか。
「亡くなった父君とは、お話しできたのですか?」
無咎の問いに、陳は視線を泳がせながら、曖昧にうなずいた。
「ええ、まあ……。実は、いざ親父の声を聞いたら、もう少し話したくなってしまいましてね。生前は不義理ばかりしていたものだから、今ここで孝を尽くすのも悪くない、と思いなおしたんです」
頭を掻きながら浮かべたその笑みは、やはり空虚であった。
その後丁寧に一礼してその場を去っていく背中を眺めながら、無咎は司馬夫人へたずねた。
「夫人。一度この里に入った者が、途中で抜けることは可能なのでしょうか。入信時には手持ちの全財産を教団に預けるという話でしたが」
「ええ、もちろん可能よ」
夫人は慈しむようなほほえみで答えた。
「実際に里を出て、故郷へ帰られた方も何人か存じています。たしかその時は、納めた額の半分が返金されたようよ」
先ほどの陳が「少しの間」と言って入信を告げたのは、途中で脱会するつもりだからだろうか。
納得してうなずく玄晏の横で、無咎は正反対の反応を見せた。
「……陳どのはこの里から、永遠に出られないかもしれないな」
そう呟いて、取り出した扇の先でこめかみを叩く。
彼の視線の先には、巨大な円錐形の二重屋根が、すべてを飲み込まんばかりに静まり返っていた。




