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問無抄 ~のら猫と忠犬の虚実録~  作者: ぐるた眠
第一章 白音堂~死者と会話できる堂~

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第五話 御声聞き

「御声聞き」の順番が、ついに玄晏(げんあん)へまわってきた。


無咎(むきゅう)どの。私はどうしたらいい」


 声を聞くのは玄晏(げんあん)のみ。

 使用人の無咎(むきゅう)はあくまでも付き添いという立場なので、後方の席で見守るだけだ。


 緊張した面持ちで立ちつくす玄晏(げんあん)に、無咎(むきゅう)はこう助言する。


「変にかまえる必要はないさ。なるべく他の信者と同じように体験してくれ。正体がばれて儀式が中止になっては元も子もないからな。ただ……」


 無咎(むきゅう)は目を伏せ、玄晏(げんあん)へ向かって指先をくいくいと動かした。


 玄晏(げんあん)が腰をかがめると、無咎(むきゅう)は彼の耳元へ唇を寄せ、そっと(ささや)く。


「もし死者の声が聞こえたら、少しの間耳をふさげ。それでも声が聞こえるか確かめるんだ」


 玄晏はかたくうなずく。


「あとは、そうだな……なるべく息をするな」


「な───殺す気か!」


 玄晏(げんあん)は小声を張ると、くるりと背を向け、御神体の前へずかずかと歩き出した。


玄晏(げんあん)さまですね。どうぞ、跪拝台へ」


 白装束の幹部にうながされた玄晏(げんあん)は、固くうなずいて跪拝台へ降り、床に両膝をついた。

 体格の良い彼には少々狭いようで、肩が窮屈そうに収まっている。


「さあて、次の故人さまをお呼びするとしようかの」


 背筋が伸び、若返った印象の教祖の白樺がよく通る声で言い、二本の線香へ静かに火を点けた。


 そのうち一本は白樺の足元の香炉へ、もう一本を幹部の女が仰々しい所作で受け取り、玄晏(げんあん)のもとへ運ぶ。


 白い煙ゆらめく線香が、玄晏(げんあん)の目の前の香炉へと差し込まれた。


 白樺が片手で引磬(いんきん)を持ち、もう片方の手に持った金属の細い棒で、(ふち)を一打する。


 チーン──────……


 鋭く、清らかな音が、静まり返った本堂の屋根に反響し、ふりそそぐ。


 玄晏(げんあん)は両手を床に置き、頭を低くしている。


 心の中で何を念じているのか、そういうふりをしているだけなのか。


 後方からその背を見つめる無咎(むきゅう)には、何も読みとれない。


 本堂を包んでいた金属音が完全に消え、真空のような静寂に包まれた瞬間────白樺がゆっくりと目を開いた。


 同時に、玄晏(げんあん)の肩がぴくりと動く。


 上半身の筋肉が強張り、背筋を伸ばしながら、ゆっくりと顔を上げる。


 無咎(むきゅう)には何も聞こえない。

 後方のかすかな水音と、堂内の静寂だけがある。


 それなのに、玄晏(げんあん)は何かに向かって口を開いた。


「……はくぶん、(にい)さ、か」


 声がかすれていた。


 返答は聞こえない。

 しかし玄晏(げんあん)は確かに、何かを聞いているようだった。


「まさか。本当に……兄さんが?」


 驚きと、にわかには信じられない戸惑いが入り混じった声だった。


「兄さんは俺を……俺のことを……」


 玄晏(げんあん)の声が途切れた。相手の話に耳を傾けている。


「ごめん。伯文(はくぶん)兄さん。本当に……」


 いつもとは口調が違う。

 物堅さが抜け、まるで家族か、旧知の相手を前にしているようだった。


 ────あいつの耳に、いったい何が聞こえてるんだ?


 その狼狽ぶりは、無咎(むきゅう)の想像を超えていた。


「……っ」


 無咎(むきゅう)が思わず椅子から立ち上がると、堂内にざわめきが起こる。


 彼は気にせず、ただまっすぐ跪拝台を見据え、床板の上を一歩、また一歩と歩き出した。


「ちょっと、あなた……」


 脇にいた教団幹部が、彼を止めようと踏み出す。


 しかし壇上の白樺が、静かに首を横に振った。

 好きにさせてやれ、という合図だろう。


「おい、玄晏(げんあん)……?」


 呼びかけながら近づく。

 ここで彼の名を呼ぶのは初めてだった。


 それと同時に無咎(むきゅう)がどれだけ耳を澄ませても、死者の声はいっこうに届かない。


 ついに彼は、跪く玄晏(げんあん)のすぐ背後に立った。


 香炉から立ち昇る煙が顔をかすめる。無咎(むきゅう)は思いきって深く吸い込んだ。


 油っぽい匂いが少々鼻につくが、体には何の変化もなく、声もしない。


 ただ、すぐ目の前にいる玄晏(げんあん)だけが、まるで全身を幻に包まれているように、無音の空間でひとり言葉をつむいでいる。


「おい玄晏。いったい何が聞こえるんだ」


「兄さん……」


「え?」


「本当に、いるんだ。兄さんが……」


 玄晏(げんあん)は前を向いたまま、肩を震わせて言った。


「……」


 無咎(むきゅう)は言葉を失う。


 これは演技ではない。

 彼の大根役者ぶりは先ほど目の当たりにしたばかりだ。


 彼は確かに、無咎(むきゅう)には聞こえない「何か」をとらえている。


 ───いったい、どういうことだ……?


 無咎は丸い天井を見上げた。何か仕掛けらしきものは見当たらない。


 周囲に(さえぎ)るものなど何一つ無い、この広い空間の中で、玄晏(げんあん)にだけ聞こえる声があるというのか?


 無咎(むきゅう)は扇を取り出し、考え込むようにして自分の頭を軽く叩いた。


「きゃあっ!」


 その時、背後で大きな物音と短い悲鳴が響く。


 無咎(むきゅう)がふり返ると、後方の席で誰かが椅子から転げ落ちていた。


「大丈夫ですか」


「ああ、すまない。少しぼうっとしていた」


 床板に尻をつき、何とか上体を起こしたのは、先ほど待合室で無咎(むきゅう)らに声をかけてきた中年男だった。


 目元をこすり、声がかすれている。

 どうやら居眠りでもしていたようだ。


 椅子の脚はやや高く(しつら)えてあるので、丸々と太ったあの男なら、体を揺らした拍子にバランスを崩してもおかしくはない。


「……」


 無咎(むきゅう)は考え込むようにして、尻餅をつく男と、床に転がった椅子を交互に眺めた。


「兄さん……? 兄さんっ!」


 後方に気をとられているすきに、跪拝台では玄晏(げんあん)が焦った声で叫びはじめる。


「どうした」


「声が……聞こえなくなったんだ。兄さん、どこへ……」


 ひざまずいたまま、まるで親とはぐれた子どものように故人を呼ぶ玄晏(げんあん)


 壇上の教祖白樺が、低い声で言った。


玄晏(げんあん)どの。時間切れじゃ。故人さまはお帰りになられた」


「ああ、そうか……」


 名残惜しそうな声を漏らしながら、玄晏(げんあん)はゆっくりとうなだれる。


 そんな彼を、白樺は慈悲深い眼差しで見下ろした。


「わしも最後にな、ちいとばかり言葉を交わさせてもろうたよ。久方ぶりにお前さんの声が聞けたと言って、たいそう喜んでおいでじゃった。……たしか、伯文(はくぶん)どのとおっしゃったかのう。まるで菩薩のように、何ともお優しい御仁(ごじん)じゃった。『お前を許す』『もう気にするな』と、何度も言うておられたな」


「ああ。そうだ。兄さんは……」


 玄晏(げんあん)は、ふたたび床に額をつけてすすり泣いた。


「……」


 その様子を見て無咎(むきゅう)は静かに歩き出し、玄晏(げんあん)の正面へとまわり込んだ。


 跪拝台の(ふち)に腰を下ろし、左腕を伸ばして玄晏(げんあん)の肩を強くゆする。


「しっかりしろ。玄晏(げんあん)


 そしてもう片方の手を香炉の中へ差し入れる。

 乱暴に突っ込んだにもかかわらず、香炉は倒れるどころか、揺れもしなかった。


 無咎(むきゅう)は灰と燃え残りの線香を、指先で慎重につまみ上げる。



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