第五話 御声聞き
「御声聞き」の順番が、ついに玄晏へまわってきた。
「無咎どの。私はどうしたらいい」
声を聞くのは玄晏のみ。
使用人の無咎はあくまでも付き添いという立場なので、後方の席で見守るだけだ。
緊張した面持ちで立ちつくす玄晏に、無咎はこう助言する。
「変にかまえる必要はないさ。なるべく他の信者と同じように体験してくれ。正体がばれて儀式が中止になっては元も子もないからな。ただ……」
無咎は目を伏せ、玄晏へ向かって指先をくいくいと動かした。
玄晏が腰をかがめると、無咎は彼の耳元へ唇を寄せ、そっと囁く。
「もし死者の声が聞こえたら、少しの間耳をふさげ。それでも声が聞こえるか確かめるんだ」
玄晏はかたくうなずく。
「あとは、そうだな……なるべく息をするな」
「な───殺す気か!」
玄晏は小声を張ると、くるりと背を向け、御神体の前へずかずかと歩き出した。
「玄晏さまですね。どうぞ、跪拝台へ」
白装束の幹部にうながされた玄晏は、固くうなずいて跪拝台へ降り、床に両膝をついた。
体格の良い彼には少々狭いようで、肩が窮屈そうに収まっている。
「さあて、次の故人さまをお呼びするとしようかの」
背筋が伸び、若返った印象の教祖の白樺がよく通る声で言い、二本の線香へ静かに火を点けた。
そのうち一本は白樺の足元の香炉へ、もう一本を幹部の女が仰々しい所作で受け取り、玄晏のもとへ運ぶ。
白い煙ゆらめく線香が、玄晏の目の前の香炉へと差し込まれた。
白樺が片手で引磬を持ち、もう片方の手に持った金属の細い棒で、縁を一打する。
チーン──────……
鋭く、清らかな音が、静まり返った本堂の屋根に反響し、ふりそそぐ。
玄晏は両手を床に置き、頭を低くしている。
心の中で何を念じているのか、そういうふりをしているだけなのか。
後方からその背を見つめる無咎には、何も読みとれない。
本堂を包んでいた金属音が完全に消え、真空のような静寂に包まれた瞬間────白樺がゆっくりと目を開いた。
同時に、玄晏の肩がぴくりと動く。
上半身の筋肉が強張り、背筋を伸ばしながら、ゆっくりと顔を上げる。
無咎には何も聞こえない。
後方のかすかな水音と、堂内の静寂だけがある。
それなのに、玄晏は何かに向かって口を開いた。
「……はくぶん、兄さ、か」
声がかすれていた。
返答は聞こえない。
しかし玄晏は確かに、何かを聞いているようだった。
「まさか。本当に……兄さんが?」
驚きと、にわかには信じられない戸惑いが入り混じった声だった。
「兄さんは俺を……俺のことを……」
玄晏の声が途切れた。相手の話に耳を傾けている。
「ごめん。伯文兄さん。本当に……」
いつもとは口調が違う。
物堅さが抜け、まるで家族か、旧知の相手を前にしているようだった。
────あいつの耳に、いったい何が聞こえてるんだ?
その狼狽ぶりは、無咎の想像を超えていた。
「……っ」
無咎が思わず椅子から立ち上がると、堂内にざわめきが起こる。
彼は気にせず、ただまっすぐ跪拝台を見据え、床板の上を一歩、また一歩と歩き出した。
「ちょっと、あなた……」
脇にいた教団幹部が、彼を止めようと踏み出す。
しかし壇上の白樺が、静かに首を横に振った。
好きにさせてやれ、という合図だろう。
「おい、玄晏……?」
呼びかけながら近づく。
ここで彼の名を呼ぶのは初めてだった。
それと同時に無咎がどれだけ耳を澄ませても、死者の声はいっこうに届かない。
ついに彼は、跪く玄晏のすぐ背後に立った。
香炉から立ち昇る煙が顔をかすめる。無咎は思いきって深く吸い込んだ。
油っぽい匂いが少々鼻につくが、体には何の変化もなく、声もしない。
ただ、すぐ目の前にいる玄晏だけが、まるで全身を幻に包まれているように、無音の空間でひとり言葉をつむいでいる。
「おい玄晏。いったい何が聞こえるんだ」
「兄さん……」
「え?」
「本当に、いるんだ。兄さんが……」
玄晏は前を向いたまま、肩を震わせて言った。
「……」
無咎は言葉を失う。
これは演技ではない。
彼の大根役者ぶりは先ほど目の当たりにしたばかりだ。
彼は確かに、無咎には聞こえない「何か」をとらえている。
───いったい、どういうことだ……?
無咎は丸い天井を見上げた。何か仕掛けらしきものは見当たらない。
周囲に遮るものなど何一つ無い、この広い空間の中で、玄晏にだけ聞こえる声があるというのか?
無咎は扇を取り出し、考え込むようにして自分の頭を軽く叩いた。
「きゃあっ!」
その時、背後で大きな物音と短い悲鳴が響く。
無咎がふり返ると、後方の席で誰かが椅子から転げ落ちていた。
「大丈夫ですか」
「ああ、すまない。少しぼうっとしていた」
床板に尻をつき、何とか上体を起こしたのは、先ほど待合室で無咎らに声をかけてきた中年男だった。
目元をこすり、声がかすれている。
どうやら居眠りでもしていたようだ。
椅子の脚はやや高く設えてあるので、丸々と太ったあの男なら、体を揺らした拍子にバランスを崩してもおかしくはない。
「……」
無咎は考え込むようにして、尻餅をつく男と、床に転がった椅子を交互に眺めた。
「兄さん……? 兄さんっ!」
後方に気をとられているすきに、跪拝台では玄晏が焦った声で叫びはじめる。
「どうした」
「声が……聞こえなくなったんだ。兄さん、どこへ……」
跪いたまま、まるで親とはぐれた子どものように故人を呼ぶ玄晏。
壇上の教祖白樺が、低い声で言った。
「玄晏どの。時間切れじゃ。故人さまはお帰りになられた」
「ああ、そうか……」
名残惜しそうな声を漏らしながら、玄晏はゆっくりとうなだれる。
そんな彼を、白樺は慈悲深い眼差しで見下ろした。
「わしも最後にな、ちいとばかり言葉を交わさせてもろうたよ。久方ぶりにお前さんの声が聞けたと言って、たいそう喜んでおいでじゃった。……たしか、伯文どのとおっしゃったかのう。まるで菩薩のように、何ともお優しい御仁じゃった。『お前を許す』『もう気にするな』と、何度も言うておられたな」
「ああ。そうだ。兄さんは……」
玄晏は、ふたたび床に額をつけてすすり泣いた。
「……」
その様子を見て無咎は静かに歩き出し、玄晏の正面へとまわり込んだ。
跪拝台の縁に腰を下ろし、左腕を伸ばして玄晏の肩を強くゆする。
「しっかりしろ。玄晏」
そしてもう片方の手を香炉の中へ差し入れる。
乱暴に突っ込んだにもかかわらず、香炉は倒れるどころか、揺れもしなかった。
無咎は灰と燃え残りの線香を、指先で慎重につまみ上げる。




