第五話
すべての御声聞きが終了し、ふたりが本堂を出た頃には、空はすでに茜色に染まりかけていた。
来夢の里には、客人や入信希望者向けの宿舎がいくつもあるようで、ふたりも里に宿泊することとなった。
食堂で皆と夕食を終え、部屋へ戻った無咎はさっそく寝台に体をあずけ、天井を見ながら扇を手すさびに開いた。
「……まだ落ち込んでいるのか」
玄晏は食事中もだんまりで、今も部屋の隅に腰を下ろし、膝を抱えたまま黙っている。
「……違う。己を恥じているのだ。人前であんな醜態を晒すとは思わなかった」
────その割に、飯は三人分食っていたようだが……。
と、無咎は心の中でつぶやく。
もともと大食いなのか、それとも泣いて腹が減ったのか。どちらにせよ、回復は早そうだ。
無咎は扇を置き、寝台で体を起こした。
「それで、いったい誰の声を聞いた。なぜあんなに取り乱した」
問いかけに、玄晏は下を向いたまま、膝を抱える腕にぎゅっと力を込める。
「伯文兄さんは……かつて私の指南役だった」
「皇城司の仲間か」
「ああ。師兄と呼ぶべきか。五つ上で、私がひとり立ちしたあとも、よく二人で任務にあたっていた」
玄晏は過去の景色をなぞるように、ぽつりぽつりと語り始める。
「その日も我々は、謀反の疑いのかかっていた地方将軍の駐屯地へ潜入していた。申告以上の武器を所有していないか調査していたのだ。武器庫は問題なかった。だが念のためと調査した食料庫で、硫黄や硝石……火薬の材料が大量に積まれているのを見つけた。しかも、その硫黄が鮮やかな黄色で……」
「東国からの輸入品か」
思わず無咎が口を挟む。
「質の良い硫黄なら、辺境の将軍が隠し持つには勿体ない高級品だな」
「ああ。おそらく都の兵部からの横流しだ。そう判断した私は、証拠を持ってすぐに仲間の元へ向かおうとした。しかし────」
握られた玄晏の拳が、みしりと音を立てた。
「『秘密の食料庫』には、相応数の見張りがいた。私はそんなことにも気づかず、ひとりで飛び出した。そのせいで、気づいた時には大勢の敵に取り囲まれてしまったのだ。その時兄さんはまだ、食料庫の中にいた」
そこで玄晏は一度、口をつぐんだ。
膝の上の拳が、じわりと白くなるほど握りしめられている。
まるで今もなお戦場にいるように、その目は遠くを見ていた。
「囲まれた私は必死に剣を抜こうとしたが、多勢に無勢だ。敵の放った矢が肩をかすめ、たじろいだ隙に、誰かが火の点いた松明を食料庫の中へ投げ込んだ」
声が、苦い記憶の熱に焼かれたように震える。
「丸ごと証拠隠滅をはかったのだろう。火薬に引火して倉庫は大破し、兄さんの遺体は、性別すら判別できないほどだった。俺が早とちりしたせいで……」
「それで、あんたはどうなった」
玄晏は震える瞳で無咎を見た。
「爆発の混乱に乗じて逃げ延び、その後は皇城司の増援に助けられた。証拠となった硫黄のおかげで将軍の謀反は未然に防がれ、横流しをしていた兵部侍郎も処刑された」
「ああ。あれか……」
国防省の副大臣格である兵部侍郎が反逆罪により処刑された件は、都の外れに住む無咎の耳にも届いていた。
ただその詳細は明かされず、真相は謎のままだったが。
「であれば、兄貴分も無駄死にではなかったようだな」
何の後ろ盾もない玄晏が、皇帝の謁見にまで至るほど昇進したのは、その時の手柄が後押ししたからだろう。
しかし当人はこの出来事を、まるで処刑台を前にした罪人のような顔で語る。
「私は功績よりはるかに重い罪を犯した。兄さんには日頃から『ひとりで突っ走るな』と注意されていたのに。あの場で死ぬべきは、どう考えても私だったのに……」
無咎は黙っていた。
皇城司とはそういうものだ。
誰もがいつか、今日か明日にでも犬死にするつもりで任務に臨み、いざという時は、仲間を捨てる覚悟が問われる。
しかし、それを今の無咎が説いても、何の意味もなさないだろう。
「それで、本堂で聞いた声は、確かにその兄貴のものだったのか」
ひとまず本題へ入ると、玄晏は鼻をすすり、咳払いをしてから答える。
「はじめは遠く、くぐもっていてよくわからなかった。話をするうちに、だんだんと兄さんの声に近づいていったような気がする」
声は終始はっきりとは聞こえず、何か反響するような雑音が混じっていたという。
「それで、なぜ本人だと思ったんだ」
「私のせいで、あんな悲惨な目に遭ったのだぞ。どんな聖人君主だって、恨み言のひとつくらい言うだろう。もし裏で他人が演じているとしたら尚さらだ。だが、あの声は……」
玄晏は目を閉じ、本堂での会話を手繰り寄せるように言った。
「『お前と共にあったことを、微塵も後悔していない』『幸せな人生だった』と言い切った。私にはわかる。あの状況で、そんな馬鹿げたことを言うのは兄さんだけだ」
「……それだけで信じたのか?」
その言葉が癇に障ったのか、玄晏は声を荒らげた。
「貴殿も知っているだろう!声は私にしか聞こえなかったんだ!」
勢いよく立ち上がり、寝台上の無咎を見下ろす。
「それに、私は……伝え書きに伯文兄さんの名前は書いていない。架空の女の名を書き、『亡くなった母に、自分は良い息子だったか聞きたい』と教団に伝えた。でたらめの情報を流したんだ。だから、兄さんのことは誰も、何も知らない。それでも兄さんは現れた」
無咎は、玄晏の顔を静かに見上げた。
熱に潤んだ大きな目が、蝋燭の灯りを受けて揺らめいている。
待合室で白樺から聞かされた話が、無咎の頭に浮かんだ。
────無意識に昔の恋人を呼んでしまった未亡人。
目の前の青年もまた、伝え書きとは異なる相手を、心の底で求めるまま、無意識的に引き寄せたというのか。
玄晏は続けた。
「正直なところ、最初からこの調査で兄さんの声を聞きたいなどとは思っていなかった。あの出来事は長い間、心の奥にしまって忘れようとしていたからな。でも待合室で……教祖の声を聞いた時、ふと、兄さんのことが頭をよぎったのだ」
『────あなたが今、最も会いたいのは誰ですか。会いたくても、もう二度と会えない、たった一人の……』
教祖白樺の、低くよく通る声が無咎の耳に蘇る。
あの声が玄晏の心に介入し、閉じ込められていた記憶を呼び覚ましたというのか。
玄晏は落ち着きを取り戻し、声を沈めた。
「……わかっている。兄さんの声は偽物だ。こんな所に入信したいとも思わない。だが、死者の声にすがってしまう者たちの気持ちは、今ならわかる」
「……」
部屋の外で、虫が鳴いている。
山の夜は都よりずっと静かで、沈黙がやけに大きく聞こえた。
「本堂で声を聞いた時、私は……兄さんが生きていた頃よりもずっと、本音で話すことができた。もう会えないとわかっているからだろうか。己の弱さや醜さを全部晒して、ようやく本当の自分で、兄さんに向き合えた気がした」
夕食の場で見た光景が、無咎の頭をよぎった。
手を合わせ、静かに故人への祈りを捧げる信者たち。
亡き我が子の分の椀を、隣に並べて置く老いた女。
「……そうか」
無咎はそれだけ言うと、もう何も聞かなかった。
再び寝台に横になり、布団を胸元に引き寄せ目を閉じる。
「……」
玄晏がこちらへ歩み寄り、何か言おうとしている気配を感じたが、気づかないふりをした。
*
翌朝、先に目覚めたのは無咎だった。
彼は寝台に腰を下ろすと、懐から取り出した小さな紙包みをひらいた。
中にあるのは、昨日、教団の目を盗んで香炉からつまみ出した灰と線香の欠片だ。
無咎はそれを指先でもてあそび、窓から差し込む朝の光にかざして、じっと目を凝らした。
────「死者の声」を解く鍵は、二つ。
まずは『なぜ、信者自身しか知り得ぬ声が聞こえるのか』
「夫の声が聞きたい」と伝えた未亡人は、別の男の声を聞いた。
そして「母の声が聞きたい」と伝えた玄晏は、師兄と話を交わした。
これについては、すでに無咎にはある程度の予想がついている。
しかし、それ以上に不可解な物理の謎。
『なぜその声が、ひとりにしか届かないのか』
厳密に言えば、教祖である白樺にも聞こえていると言うが、教団の話が真実とは限らないし、真実でもそれ自体は大した問題ではないだろう。
もっとも奇妙なのは「御声聞き」の最中、跪拝台のすぐ後ろに立っていた無咎には、いっさい声が聞こえなかったということだ。
第三者には届かぬ声。
この怪奇現象こそが、「白冥大士」なる怪しげな神の力に真実味を与え、教団の根幹を支えている。
……そんな「声」を出すことが、果たして可能なのだろうか?
無咎が最初に疑ったのは、跪拝台の前の香炉からただよう煙による幻聴作用だった。
しかし、持ち帰った線香や灰に含まれているのは一般的な沈香や生薬のみだ。
人の五感を狂わせ、幻聴を誘発するような『迷魂薬』の類は、この灰の中には存在しない 。
さらに、見落としてはならない点。
白音堂では故人と『会話』ができる、ということである。
声の主もまた、こちらの声が届く範囲にいるということだ。
無咎は目を細め、指先の灰をふっと息で吹き飛ばした。
微粒子が、光の筋の中で不規則に舞っている。
その奥で、まだ泥のように眠っている玄晏を、冷ややかに一瞥した。
「もう一度、あの本堂を調べる必要があるな」




