第四話
先ほどふたりを待合室へ通した白装束の女がふたたびやって来て、今度は本堂へ案内するという。
若いが少し冷たい印象の女は、幹部の筆頭で「白菊」と名乗った。
ぴんと伸びた白菊の背中を注意深く観察しながら、無咎は石段を登る。
巨大な円錐形をした本堂の前までたどり着くと、入口脇には、簡素な手洗い場がしつらえられていた。
「ここで一度、手を清めてからお入りください」
白菊にうながされ、玄晏は袖をまくりながら首をかしげた。
「参拝前に手を洗うとは、めずらしい作法だ」
仏教でも道教でもない。
こういう無意味なことをさせるのは、いかにも新宗教らしい。と無咎は心の中でつぶやく。
地面から陶器製の管が垂直に立ち上がり、その上部には、細身の竹管が継ぎ足されるようにひょろりと伸びていた
伸びた竹管の先端からは、透明な水が絶え間なくこぼれ出ており、それを大きな石を彫った水鉢が受け止める。
「ずいぶん冷たいな」
ためらいなくじゃぶじゃぶと手を濡らしながら、無咎がつぶやくと、白菊は何の感情も宿らない声で答える。
「山からの湧き水を引いております」
「ほう」
冷たい山水をくみ上げているであろう陶器の支柱管を、無咎はまじまじと眺めた。
手を清めた後、ようやく足を踏み入れることが許された本堂は、極彩色の熱を帯びた巨大空間であった。
中央に鎮座するのは、仏ではなく「白冥大士」の像だ。
菩薩にも似た女人に、巨大な蝶の翅が生えたその姿は、神聖でどこか妖艶でもある。
薄く削り出された翅は青白く、命を宿したかのように幻想的な光を放っていた。
入口付近、後方の椅子には「御声聞き」の順を待つ信者たちが微動だにせず腰掛けている。
「お二人とも、こちらへおかけください。順番になりましたらお呼びいたします」
それだけ言うと、白樺は美しい歩き姿で来た道を戻り、さっさと本堂を出ていく。
二人は最後列に着き、堂内をゆっくりと見渡した。
天井や壁一面に描き込まれた四季の花々は、ここがもはや現世ではなく、冥界の入り口であることを信者たちの脳裏に深く刻み込んでいる。
そして御神体の正面、床が一段低く掘られた正方形の「跪拝台」の中には、女がすでに床に膝をついていた。
「さっき待合室にいた人だな」
玄晏が無咎へ耳打ちする。
無咎はうなずき、その人を見た。
さきほどの待合室の端でひとり、熱心に伝え書きを記していた女だった。
跪拝台の縁には大きな香炉が据えられており、線香が一本だけ刺さっている。
故人の声が聞こえるのは、線香が燃え尽きるまで。
祭壇にある沢山の線香とは別に、あれは計時器の役割を担っているのだろう。
信者たちを見守る教祖の白樺は、御神体の傍らの台座に静かに腰を下ろしている。
その微笑は隣の像と重なり、まるで白冥大士の化身がそこに座っているかのような錯覚を抱かせた。
両脇に居並ぶ幹部たちの白装束は、薄暗がりの中で不気味に浮き上がっている。
「死者の声は……聞こえない」
その違和感に、最初に気づいたのは無咎だ。
堂内にかすかに響くのは、後方入口に設置された手洗い場の水音、そして前方の跪拝台にいる女の話し声だけだ。
時折すすり泣く音すら混じるが、それに応える別の声は、どれだけ耳を澄ませても聞こえない。
「ひょっとしてあの女……死者の声が聞こえているふりをしているのではないか?」
玄晏がぽつりと言うと、無咎は即座に否定した。
「いや。あれは俺たちと同じ、今日はじめてこの里を訪れた人間だ。教団のために演技をするとは思えないが……」
もちろん、その時点から仕込みだった可能性もある。だが───
彼女は肩を震わせて泣いていた。
声を殺しながら、しかし堰を切ったように。
ああいう泣き方は、作れるものではない。
「では、あの人にだけ聞こえ、私たちに聞こえない声があるとでも……!?」
驚愕に目を見開く玄晏。
その声が少しばかり大きかったのか、隣に座っていた若い信者の男が、咎める風でもなく小声で口を挟んできた。
「その通りですよ。お声が聞こえるのは、あそこで祈る者と、白樺さまだけ。死者の声は魂へ語りかけるものですから、故人と縁のない我々には、何も聞こえなくて当然なのです」
青年の語り口はひどくおだやかで、当然の理を説くかのようだった。
「……」
親切な青年に無咎は軽く会釈をすると、今一度堂内を見渡す。
椅子にかける信者たちの背中、脇にたたずむ幹部たちの横顔。
そして、教祖白樺の慈悲深い笑み。
“自分にしか聞こえない声”
そんなものを聞かされたら、普通の人間は「人知を超えた力」を信じるほかない。
それが「死者の声」という胡散臭い話に、強烈な説得力を与えているのだろう。
「どう思う、無咎どの。本当に死者の魂が呼び出されているとでも……」
オロオロと落ち着かない玄晏の横で、無咎はじっと前を見据え、声を注意深く落とした。
「まず考えられるのは……幻聴作用だ。薬か何かで、あるはずのない声が聞こえているのかもしれない」
無咎は女の震える背中と、周囲にただよう線香の煙を、目を細めながら観察していた。
*
「御声聞き」の順番が、ついに玄晏へまわってきた。
「無咎どの。私はどうしたらいい」
今回声を聞くのは玄晏のみ。
無咎はあくまでも付き添いという立場なので、後方の席で見守るだけだ。
緊張した面持ちで立ちつくす玄晏に、無咎は落ち着いた様子でこう助言する。
「変に構える必要はない。なるべく他の信者と同じように体験してくれ。正体がばれて儀式が中止になっては元も子もないからな。ただ……」
無咎はいたずらっぽく微笑み、玄晏へ向かって指先をくいくいと動かした 。
玄晏が不思議そうな顔で腰をかがめると、無咎は彼の耳元へ唇を寄せ、そっと囁く。
「なるべく息をするな」
「殺す気か!」
言い捨てた玄晏はくるりと背を向け、御神体の方へずかずかと歩き出した。
「玄晏さまですね。どうぞ、跪拝台へ」
白装束の幹部にうながされた玄晏は、固くうなずいて跪拝台へ降り、床に両膝をついた。
体格の良い彼には少々狭いようで、肩が窮屈そうに収まっている。
「では、故人さまをお呼びいたしましょう」
教祖の白樺が、低くよく通る声で言い、2本の線香へ静かに火を点けた。
そのうち1本は白樺の足元の香炉へ、もう1本を幹部の女が仰々しい所作で受け取り、玄晏のもとへ運ぶ。
白い煙ゆらめく線香が、玄晏の目の前の香炉へと差し込まれた。
白樺が片手で引磬を持ち、もう片方の手に持った金属の細い棒で、縁を一打する。
チーン──────……
鋭く、清らかな音が、静まり返った本堂の屋根に反響し、ふりそそぐ。
玄晏は両手を床に置き、頭を低くしている。
心の中で何を念じているのか、そういうふりをしているだけなのか。
その背中を見つめる無咎には、何も読みとれない。
本堂を包んでいた金属音が完全に消え、真空のような静寂に包まれた瞬間。
白樺がゆっくりと目を開く。
────その時。
玄晏の肩が、ぴくりと動いた。
上半身の筋肉がゆっくりと強張り、背筋を伸ばしながら、ゆっくりと顔を上げる。
無咎には何も聞こえない。
堂内の静寂だけがある。
それなのに、玄晏は何かに向かって口を開いた。
「……はくぶん、兄さ、か」
声が掠れていた。返答は聞こえない。
しかし玄晏は確かに、何かを聞いているようだった。
「まさか。本当に……兄さんが?」
驚きと、にわかには信じられない戸惑いが入り混じった声だった。
「兄さんは俺を……俺のことを……」
玄晏の声が途切れた。相手が何かを話しているらしい。
「伯文兄さん。すまなかった。本当に……」
────あいつの耳に、いったい何が聞こえているんだ?
その狼狽ぶりは、無咎の想像を超えていた。
「……っ」
無咎が思わず椅子から立ち上がると、堂内にざわめきが起こる。
彼はまっすぐ跪拝台を見据え、一歩、また一歩と歩き出した。
「ちょっと、あなた」
脇にいた教団職員が、彼を止めようと踏み出す。
しかし壇上の白樺が、静かに首を横に振った。好きにさせてやれ、という合図だろう。
「おい、玄晏」
呼びかけながら近づく。
同時に無咎がどれだけ耳を澄ませても、死者の声はいっこうに届かない。
ついに彼は、跪く玄晏のすぐ背後に立った。
香炉から立ち昇る煙が顔をかすめる。無咎は鼻から深く吸い込んだ。
しかし体には何の変化もなく、声もしない。
ただ、すぐ目の前にいる玄晏だけが、まるで幻を見ているように、無音の空間でひとり言葉をつむいでいる。
「おい。いったい何が聞こえるんだ」
「兄さん……」
「え?」
「本当に、いるんだ。兄さんが……」
玄晏は前を向いたまま、肩を震わせて言った。
「……」
無咎は言葉を失った。
これは演技ではない。
彼の大根役者ぶりは先ほど目の当たりにしたばかりだ。
彼の耳は確かに、無咎には聞こえない「何か」をとらえている。
───いったい、どういうことだ……?
この極彩色の空間の中で、玄晏にだけ聞こえる声があるというのか?
無咎は扇を取り出し、考え込むようにして自分の頭を軽く叩いた。
「きゃあっ!」
その時、背後で大きな物音と短い悲鳴が響いた。
無咎が振り返ると、後方の席で信者の誰かが椅子から転げ落ちている。
「大丈夫ですか」
「ああ、すまない。少しぼうっとしていた」
床上に尻をつき、何とか上体を起こしたのは、先ほど待合室で無咎らに声をかけてきた中年男だった。
目元をこすり、声がかすれている。どうやら居眠りでもしていたようだ。
椅子の脚はやや高く設えてあるので、丸々と太ったあの男なら、体を揺らした拍子にバランスを崩してもおかしくはない。
「……」
無咎は考え込むようにして、尻餅をつく男と、床に転がった椅子を交互に眺めた。
「兄さん……? 兄さん!」
後方に気をとられているすきに、跪拝台では玄晏が焦った声で叫びはじめた。
「どうした」
「声が……聞こえなくなったんだ。兄さん、どこへ……」
跪いたまま、まるで親とはぐれた子どものように故人を呼ぶ玄晏。
壇上の白樺が、静かな声で言った。
「玄晏さま。お時間です。故人はもうお帰りになられました」
「ああ、そうか……」
名残惜しそうな声を漏らしながら、玄晏はゆっくりとうなだれる。
そんな彼を、白樺は慈悲深い眼差しで見下ろした。
「わたくしも最後、少しだけお話をさせていただきました。久しぶりにあなたの声が聞けたことを、とても喜んでおられましたよ。伯文どの……とおっしゃるのでしょうか。何とも優しい殿方でしたね。『お前を許す』『気に病むな』と、何度もおっしゃって」
「ああ。そうだ。兄さんは……」
玄晏は深くうなずき、ふたたび床に額をつけてすすり泣いた。
「……」
その様子を見て無咎は静かに歩き出し、玄晏の正面へとまわり込んだ。
跪拝台の縁に腰を下ろし、左腕を伸ばして玄晏の肩を強くゆする。
「しっかりしろ、玄晏」
そしてもう片方の手をそっと香炉の中へ差し入れ、灰と燃え残りの線香を、指先で慎重につまみ上げた。




