第二話 来夢の里【挿絵】
翌朝、玄晏が采薇小路の平屋へ迎えに行くと、無咎はまだ粗末な寝台の上で丸くなっていた。
彼を叩き起こし、持参した衣を放り投げる。
くすんだ緑の袍。そして使い込まれた風合いの焦茶色の長上着だ。
「これを着るのか?」
「ああ。我々は身分を隠して教団へ潜入する。私は商家の子息、貴殿はその付き添いの使用人という設定だ」
普段は皇城司の官服として地味な藍色の袍を着ている玄晏だが、今日は水色の広袖をまとい、髪は金細工の冠で結い上げている。
いかにもインチキ宗教の餌食になりそうな、金持ちのどら息子といった風貌である。
そんな玄晏の姿をまじまじと眺め、無咎は喉の奥で笑う。
「は、俺はあんたの小間使いってわけか」
そして、しぶしぶ用意された衣に袖を通す。
「いかがかな……坊っちゃん?」
着替えを終え、髪を半分高い位置で結った無咎が、白い扇で肩を叩きながらたずねた。
「悪くない、が……」
「うん?」
「いや、なんでもない」
顔の輪郭があらわになり、衣をきっちり着込んだその姿は、普段よりもずっと幼く見える。
薄汚れた浪人風情はどこへやら、まるで奉公に出たばかりの少年のようだ。
玄晏は視線を逸らし、先に戸口へ向かった。
*
都の東門を抜け、二人は山道へ入る。
その山は古くから霊験あらたかな土地として知られ、足を踏み入れる者はめったにいない。
「もっと足元を見てくれ」と、玄晏は無咎の背中へ向かって呼び掛けた。
「うるさいなあ」
ふだん出歩かないせいなのか、無咎はよくつまずく男だった。
自分の家の戸口、街道の真ん中、山に入ってからはすでに二度も転んでいる。
特に足が悪い様子もなく、ただ注意散漫で、足元を見ていないのだ。
はじめは先を歩いていた玄晏だが、無咎があまりにも転ぶので、仕方なくこうして背後から見守ることにした。
ゆく道は最初は何もないのどかな野山だったが、登るにつれて、彼らの視界を白い蝶がひらひらとかすめるようになった。
「教団の象徴は白蝶だと言ったな」と無咎。
「そうだ。白い蝶が死者の魂を運ぶという言い伝えから来ているとか」
白音堂が信仰するのは、白冥大士という神で、あの世にいる者と下界の人間を繋ぐ。
その際は白蝶に姿を変え、故人の魂を運んで来るのだという。
木漏れ日の中を舞う白蝶は美しいが、どこか現実離れしていた。
ゆるやかな山道の途中で、下山してくる女とすれ違う。
三十代くらいの女は、手巾で目元を押さえており、時おり肩を震わせていた。
玄晏は思わず足をとめ、声をかける。
「ご婦人、もしや白音堂へ参られたのか」
「ええ」
「では、あなたも死者と話を?」
女性は口元を押さえ、ひとつ鼻をすすってから答えた。
「……はい。そのつもりで参ったのですが……夫の声は聞こえませんでしたの」
「え。それは……」
思いもよらぬ答えに、玄晏は言葉を失った。
何と返していいかわからぬうちに、女性は静かに一礼して、足早にその場を去ってしまう。
「聞こえないことも、あるのだろうか」
小さくなっていく彼女の背中を眺めながら、玄晏は無咎に問う。
巷にあふれる白音堂の噂は「聞こえた」「話せた」ばかりで、このような失敗例は初耳だ。
眉をひそめる玄晏に対し、無咎は特に驚く様子もない。
「あのご婦人には何かが足らなかったんだろうさ。信仰心か、もしくは……」
無咎は右手の親指と人差し指で銭のかたちを作り、少しおどけて見せた。
冗談の通じない玄晏は、さらに首をかしげる。
「しかし妙だな。夫の声が聞こえなかったというのに、なぜあんな……」
彼女は確かに泣いていた。
けれど涙で濡れた瞳はきらきらと輝き、その足取りはどこか力強かった。
まるで長い間探し求めていたものを、ようやく見つけてきたように。
無咎は、女性の背中を遠目に追いながら静かに言う。
「死者の声なんか、聞こえない方がいいだろう」
「声を聞くため、わざわざこんな山道を登ったというのに?一体どういうことだ」
首をかしげる玄晏を横目に、無咎は答えず、帯から扇を取り出す。
ひらいた扇で自分をあおぎながら、白音堂めざして歩き出した。
*
山道を登る途中で突然視界が開け、ふたりの眼前に小さな集落が現れる。
民家が数十棟、整然と並んでおり、その奥には広大な畑が広がっている。
鶏が庭を歩き回り、牛や山羊が杭につながれていた。
どこかの軒先から、飯を炊く匂いがただよってくる。
しかしその集落は、普通の村とは明らかに趣がことなっていた。
整然と並ぶ家々の中心にそびえ立つのは、まるで真っ黒な笠を被ったような、巨大な円錐形の建物。
二重になった黒い瓦屋根は、鈍い光を跳ね返しながら、頂点の黄金の宝珠を天へと押し上げている。
他とは明らかに一線を画すその異質な佇まいは、そこが里の心臓部であり、死者の「声」が降りてくる聖域であることを誇示していた。
「来夢の里といって、ここ一帯がすべて白音堂の所有地だ。教団関係者や熱心な信者らが合わせて百人ほど、ここで共同生活を送っている」
歩きながら玄晏が説明すると、無咎がそれを補足するように続けた。
「生活はほぼ自給自足で、衣食住は保証されているので金銭は必要ない。その代わり、入信の際にあらかじめ全財産を教団へ差し出す必要がある、と」
玄晏は思わず足を止めた。
「その通りだ。やけに詳しいな」
「この手の団体によくある手法だからな」
無咎は特に感慨もなさそうに、集落を見渡しながら答えた。
教団の教えによれば、本堂の御神体に祈れば、誰でも死者と話ができる。
ただしその時間はごくわずかだ。
正式に信者となり修行を積めば話せる時間は長くなり、最終的には御神体の力を借りずとも、いつどこでも死者と通じ合えるようになるのだという。
ここで暮らす者たちは、皆その境地を目指しているのだろう。
里で暮らす者たちの顔は、一様におだやかだった。
目を伏せ、静かに畑を耕す老人。
白蝶の紋様を布に縫い付ける若い女。
子供たちは楽しそうに、蝶を追いかけている。
その光景を眺めながら、無咎はひどく冷めた声を漏らした。
「弱者を騙し続けるには、まず逃げ道を奪い、生活まるごと囲い込むのが一番。……なあ、何かに似ていると思わないか?」
「……何だろうか」
「分からないならいい」
それだけ言って、先へ歩き出す。
その背中に何を読み取ればいいのか、玄晏にはわからなかった。




