第二話
翌朝、玄晏が采薇小路の平屋へ迎えに行くと、無咎はまだ粗末な寝台の上で丸くなっていた。
「無咎どの。起きてくれ」
「ん……早いな。もう来たのか」
のそりと起き上がった無咎は、両手を大きく上げて伸びをした。
顔も洗わず赤い上着を羽織り、昨日玄晏が渡した扇を、あたかも愛用品のように帯へ差し入れる。
「その赤い衣は置いていけ」
「なんだと」
無咎は解せぬといった顔で、若き青年を見上げた。
「今日は身分を隠して教団へ潜入する。私は商家の子息、貴殿はその付き添いの使用人という設定だ」
普段は地味な藍色の細身の袍を着ている玄晏だが、今日は水色の広袖をまとい、髪は金細工の冠で結い上げている。
袖口と裾には金糸の刺繍が入り、腰には宝飾の飾り玉がいくつも下がっていた。
いかにもインチキ宗教の餌食になりそうな、金持ちのどら息子といった風貌である。
そんな玄晏の姿をまじまじと眺めたあと、無咎はクッと喉の奥で笑う。
「俺はあんたの小間使いってわけか」
玄晏はかまわず、持参した衣を寝台へ放り投げる。
深い森の静寂を思わせる、くすんだの濃い緑の袍。そして使い込まれた風合いの焦茶色の長上着だ。
「主人よりも目立つ使用人などいない。かといってみすぼらしくては主人の体裁にかかわる。貴殿もそれに着替え、身なりを整えてくれ」
無咎は唇をとがらせてからしぶしぶ服を脱ぎ、用意された衣に袖を通す。
あらわになった彼の肩や二の腕は思いのほか、しなやかな筋肉でおおわれていた。
年中眠りこけているわけではなく、それなりに鍛練は積んでいるようだ。
「いかがかな……坊っちゃん?」
着替えを終え、髪を半分高い位置で結った無咎が、白い扇で肩を叩きながらたずねた。
「悪くない、が……」
「うん?」
「いや、なんでもない」
顔の輪郭があらわになり、衣をきっちり着込んだその姿は、普段よりもずっと幼く見える。
薄汚れた浪人風情はどこへやら、まるで奉公に出たばかりの少年のようだ。
玄晏は視線を逸らし、先に戸口へ向かった。
*
都の東門を抜け、二人は山道へ入る。
その山は古くから霊験あらたかな土地として知られていたこともあり、足を踏み入れる者はめったにいない。
「もっと足元を見ろ」と、玄晏は無咎の背中へ向かって呼び掛けた。
「うるさいなあ」
ふだん出歩かないせいなのか、無咎はよくつまずく男だった。
自分の家の戸口、街道の真ん中、山に入ってからはすでに二度も転んでいる。
特に足が悪い様子もなく、ただ注意散漫で、足元を見ていないのだ。
はじめは先を歩いていた玄晏だが、無咎があまりにも転ぶので、仕方なくこうして彼の背後から見守ることにした。
最初は何もないのどかな野山だったが、登るにつれて、彼らの視界を白い蝶がひらひらとかすめるようになった。
無咎が問う。
「教団の象徴は白蝶だと言ったな」
「ああ。白い蝶が死者の魂を運ぶという言い伝えから来ているのだろう」
木漏れ日の中を舞う白蝶は美しいが、どこか現実離れしていた。
ゆるやかな山道の途中で、下山してくる女とすれ違う。
30代くらいの女は、手巾で目元を押さえており、時おり肩を震わせていた。
玄晏は思わず足をとめ、声をかける。
「ご婦人、もしや白音堂へ参られたのか」
「ええ」
「では、あなたも死者と話を?」
女性は口元を押さえ、ひとつ鼻をすすってから答えた。
「……はい。そのつもりで参ったのですが……夫の声は聞こえませんでしたの」
「え。それは……」
思いもよらぬ答えに、玄晏は言葉を失った。
何と返していいかわからぬうちに、女性は静かに一礼して、足早にその場を去ってしまう。
「……聞こえないこともあるのか」
小さくなっていく彼女の背中を眺めながら、玄晏は無咎と顔を見合わせた。
巷にあふれる白音堂の噂は「聞こえた」「話せた」ばかりで、「聞こえなかった」という話は初耳だった。
眉をひそめる玄晏に対し、無咎は特に驚く様子もない。
「あのご婦人には何かが足らなかったのだろう。信仰心か、もしくは……」
無咎は右手の親指と人差し指で銭のかたちを作り、少しおどけて見せた。
冗談の通じない玄晏は、さらに首をかしげる。
「しかし妙だ。夫の声が聞こえなかったというのに、なぜあれほど嬉しそうなのだ」
彼女は確かに泣いていた。
けれど涙で濡れた瞳はきらきらと輝き、その足取りはどこか力強かった。
まるで長い間探し求めていたものを、ようやく見つけてきたように。
無咎は、女性の背中を遠目に見ながら静かに言う。
「死者の声など、聞こえぬ方が良いこともあるのだろう」
「声を聞くため、わざわざこんな山道を登ったというのに?どういうことだ」
頭を抱える玄晏を横目に、無咎は答えず、ただ帯から扇を取り出す。
ひらいた扇で自分をあおぎながら、白音堂めざして歩き出した。
*
山道を登る途中で突然視界が開け、木々の合間に、小さな集落が現れる。
民家が十数棟、整然と並んでおり、その奥には広大な畑が広がっている。
鶏が庭を歩き回り、牛や山羊が杭につながれていた。
どこかの軒先から、飯を炊く匂いが漂ってくる。
しかしその集落は、普通の村とは明らかに趣がことなっていた。
整然と並ぶ家々の中心にそびえ立つのは、まるで真っ黒な笠を被ったような、巨大な円錐形の建物。
二重になった黒い瓦屋根は、鈍い光を跳ね返しながら、頂点の黄金の宝珠を天へと押し上げている。
他とは明らかに一線を画すその異質な佇まいは、そこが里の心臓部であり、死者の「声」が降りてくる聖域であることを誇示していた。
「来夢の里といって、ここ一帯がすべて白音堂の所有地だ。教団関係者や熱心な信者らが合わせて70人ほど、ここで共同生活を送っている」
歩きながら玄晏が説明すると、無咎がそれを補足するように続けた。
「生活はほぼ自給自足で、衣食住は保証されているので金銭は必要ない。その代わり、入信の際にあらかじめ全財産を教団へ差し出す必要がある」
玄晏は驚いた。
「その通りだ。やけに詳しいな」
「この手の団体によくある手法だからな」
無咎は特に感慨もなさそうに、集落を見渡しながら答えた。
教団の教えによれば、本堂の御神体に祈れば、誰でも死者と話ができる。
ただしその時間はごくわずかだ。
正式に信者となり修行を積めば話せる時間は長くなり、最終的には御神体の力を借りずとも、いつどこでも死者と通じ合えるようになるのだという。
ここで暮らす者たちは、皆その境地を目指しているのだろう。
集落に暮らす信者たちの顔は、一様に穏やかだった。
目を伏せ、静かに畑を耕す老人。
白蝶の紋様を布に縫い付ける若い女。
子供たちは楽しそうに、蝶を追いかけている。
白音堂が信仰するのは、白冥大士という神で、あの世にいる者と下界の人間を繋ぐ。その際は白蝶に姿を変え、故人の声を運んで来るのだという。
その様子を眺めながら、無咎はひどく冷めた声を漏らした。
「弱者を騙し続けるには、まず逃げ道を奪い、生活まるごと囲い込むのが一番だ。……何かに似ていると思わないか?」
「……何だ?」
「分からないならいい」
それだけ言って、先へ歩き出す。
その背中に何を読み取ればいいのか、玄晏にはわからなかった。




