第一話
都の外れは少し埃っぽい。
しかし、どうしようもなく懐かしく、離れがたい匂いがする。
李玄晏がそう感じたのは、石畳の整った皇城を離れ、細い路地を一刻(15分)ほど歩いた頃だった。
陽を浴びて乾いた布、汚れた猫、暴れまわる鶏、道端の大鍋で煮える薬草────それらが混沌と混ざり合い、路地全体がぬるく湿った空気に包まれていた。
玄晏は一度立ち止まり、手の中の紙片を確認する。
────陶無咎。
采薇小路の突き当たり。表札はなく、洗濯物が年中干しっぱなしのぼろ家。
それだけしか書いていない。
皇帝から直々に告げられた内容を、後で思い出して書き留めたものだ。
『この男と組め』
最後にそう言って、皇帝はそれ以上何も説明しなかった。
『いかなる人物でございますか』と問うても、『行けばわかる』と笑うばかりで。
果たして見つけられるものか、と半ば案じていた玄晏だが、小路の突き当たりには、思い描いた通りの今にも傾きそうな平屋があった。
門の向こうを覗き見ると、縁側に人がいる。
薄汚れた赤い上衣を腹の上に被せ、仰向けに寝ていた。
半分ほど解けた黒髪が、床板に散らばっている。
門から一歩入ったところで、玄晏は思わず足を止めた。
男か女か判別できなかった。
垂らした黒髪に、放り出されたしなやかな手足。
体を覆う赤い衣は女物である。刺繍の柄や袖の形からして、明らかに。
そばへ近づいてみても、その鼻筋や細い顎の線が整っていることしかわからなかった。
「失礼。ここは陶無咎どのの宅……か?」
恐る恐る声をかけると、薄く目が開いた。
切れ長の涼しげな瞳が玄晏を一瞥し、また閉じる。
「……そうだが」
かすれた低い声と、喉元でうごめく小骨。
たしかに男だった。
「李玄晏と申す。ある方の命でまいった」
しばらく沈黙があったのち、無咎は目を閉じたままたずねる。
「皇城司が、わざわざここまで何の用だ」
「なっ……」
玄晏は言葉に詰まった。
まだ身分は明かしていない。
皇城司とは皇帝直属の特務機関であり、その存在は市井の民に知られていない。
その身分を見抜いたということは────命を出した「ある方」が天子(皇帝)であることも、すでにお見通しなのだろう。
素直な驚きとともに、玄晏の背筋にひやりとしたものが走った。
「とある宗教団体の調査を命じられた。貴殿の力を借りたい」
「断る」
「……」
まるであらかじめ用意していたかのように、無咎は玄晏の申し出を一言で切り捨てた。
───皇帝の命と知りながらこの態度、か……。
込み上げる鬱屈を飲み込み、玄晏は言葉を続けた。
「恩賞は弾むそうだ。この家の穴を塞ぐどころか、まるごと建て替えられるほどの」
「要らない」
「なぜだ」
玄晏には理解できなかった。
彼の素性は知らぬが、生活が困窮しているのは見れば分かる。
定職に就いていないのか、こうして日中から時間を持て余しているほどだ。
そんな男が一攫千金の機会をみすみす手放すとは、一体どういう了見なのか。
玄晏とてここで引き返すわけにはいかない。
ひとまず話の向きを変えることにした。
「……気にならないか?なぜ陛下が、たかが民間の教団を、秘密裏に調べようとされているのか」
すると無咎は寝そべったまま、わずらわしそうに片目だけ開けた。
その面立ちは、繊細な美しさをたたえながらもどこか愛らしく、少年のような危うさを残している。
「どうせその教団とやらに、入信している者がいるのだろう。陛下に近しい人間で」
それだけ言って、続ける。
「政敵であれば、陛下も堂々と大がかりな調査と取り締まりをするはず。こうして内々に動くということは────側近か、後宮の妃か、そのあたりが絡んでいるのだろう」
「……」
図星だった。
玄晏は答えられぬまま、ごくりと唾を飲み込む。
無咎はようやく体を起こした。
縁側に腰かけて赤い上着に袖を通し、軽く片脚を組む。
その所作がひどく様になっているのは、玄晏には少し腹立たしかった。
「信心深いのはたいていが女だ。妃嬪が怪しいな。今の後宮で特に寵愛を受けるのは、確か────」
無咎が次の言葉をつむぐより早く、玄晏は袂から細長い桐箱を取り出した。
「……何だ」
「前払いだそうだ」
蓋を開けると、現れたのは白い扇。
皇帝から直々に預かったものだが、使い込まれた古い扇が何の意味を持つのか、玄晏にもわからない。
「……」
しかし扇を前にした無咎は、表情を一変させた。
ゆっくりとこちらを見上げる眼差しは鋭く、どこか恨めしげだ。
同時にそれは、無意識にこちらの征服欲をそそるような、どこか蠱惑的な表情でもあった。
玄晏は圧倒され、言葉を失う。
ややあって、無咎はぶっきらぼうな仕草で箱の中の扇を奪い取ると、ひとつため息をついて言った。
「その教団はどこにある?」
玄晏は内心で安堵しながら、居住まいを正した。
「都の東にある霊山。そこの中腹に施設がある。名を白音堂といって、御神体に祈りを捧げれば冥界にいる縁者と話ができるらしい。さらに修行を積めばどこにいても死者と通じ合えるなどと謳っているそうだ」
「死者と、話が……」
「いかにも怪しい話だが、本当に声が聞こえたという者が続出して、ここ半年ほどで信者が急速に増えた。多額の献金によって教団は一気に大きくなり、全財産を寄進する者まで出ていると聞く」
「ほう」
無咎は特に驚いた様子もなく、扇を手の中でもてあそんだ。
彼の老成した所作を見るに、今年二十になった玄晏より年上だろう。
皇帝の命で動くのも、おそらく初めてではないのだろう。
そういう意味でも敬語を使うべきだろうかと玄晏は迷ったが、結局そのままにした。
「貴族や高官の間にも信者が広まり、ついには貴妃の母君である司馬氏までが入信している。死者の声が聞こえるというのが真実か否か、実態を調べよとのご命令だ」
貴妃は、いま皇帝から最も寵愛を受けている女だ。
あやしげな宗教に傾倒した母を心配した貴妃が、皇帝に泣きついたことで事が露呈した。
「それで、あんたは本当に聞こえると思うか?死者の声が」
無咎の問いに玄晏は首を横に振った。
「いかさまだろう」
「もし本物だったら?」
「そのように陛下へご報告申し上げるだけだ」
あっけらかんとした答えに、無咎はしばらく黙った。
それから扇を静かに開いて、その裏側に表情を隠す。
「本当に死者の声が聞こえるなら……さぞ都合が悪かろうな」
「……?」
それが誰に向けた言葉なのかわからなかった。
「ところで」
扇で顔を隠したまま、無咎が続ける。
「あんたはずいぶん若く見えるが、なぜ陛下に選ばれた。それほど優秀なのか」
玄晏は少し黙った。
数ある皇城司の中でも、ただの一兵卒にすぎない。
そんな自分が、なぜ皇帝陛下みずから名指しされ、この奇妙な任務を仰せつかったのか。
思い当たる節はひとつだけあるが、口にはしたくない。
「……いや」
それは───『犬に似ている』、というものだ。
母譲りの丸く大きな目と、生来の真面目さや純粋さから、同期には「大型犬」とよくからかわれていた。
それをどこから聞きつけたのか、ある日突然、皇帝に単独で呼びつけられた。
皇城司として皇帝の命を受けることは日常茶飯事だが、ご尊顔を直接拝するのはその時が初めてだった。
玄晏が恐る恐る顔を上げるなり、皇帝は満足そうに笑ってこう言ったのだ。
『あの人嫌いの野良猫も、この大型犬ならば心を開くかもしれん』
「……なぜ選ばれたのか、私にもわからない」
うつむきながらそう答えると、無咎は扇をゆっくりと下ろし、玄晏を見た。
品定めするような、真剣な眼差し。
しかしそれはすぐに外れる。
「そうか」
それだけ言って無咎は扇を閉じ、赤い衣を脱いだ。
話は終わりだという様子だった。
「明日の朝、迎えにくる」
玄晏は一礼して、踵を返す。
路地へ戻りながら、ふと振り返ると、無咎はまた縁側で横になっていた。
赤い衣を胸元に引き寄せ、背中を小さく丸める姿は、まるで猫のようだった。




