第十九話 本物の人魚【挿絵】
双子の姉妹、阿海と阿天は、都から三千里離れた忘沙浦の漁村で、蜑民の夫婦のもとに生まれた。
姉の阿海は、耳は聞こえるものの、知恵遅れで言葉を発することができず、いつも妹の阿天が世話をしていた。
ただ、阿海は素潜りの天才だった。
熟練の採珠人でも海中で百五十を数えるのが限界なのに、八歳の彼女は二百を数えても浮上しなかった。
「素潜り対決で、阿海に勝てたことは一度もなかったわね」
ふたりが十歳のころに父が倒れ、母は「阿海を代わりに」と真珠採取をさせようと試みたが、うまくはいかなかった。
阿海が得意なのは、ただ海の底で魚と戯れることだけ。
上質な真珠を選び採取することは、知恵遅れを含めずとも、まだ幼い彼女には難しかったのだ。
そのうち家族四人の生活は困窮し、仕方なく妹の阿天が都へ売られることとなった。
しかし────
「阿海がついてきてしまったの。他の娘たちと一緒に船で港町へ向かっていたら、海を泳いで追いかけてきた」
ふたりは生まれてこのかた、一度も離れたことがなかったのだ。
『───阿海、戻って!あんたなら、きっと漁や採珠を覚えて、父さん母さんを支えていける。あんたは、海でしか生きられないの!』
船上の阿天は必死で説得したが、それでも姉は、妹と離れることを拒んだ。
そうしてふたりは、ともに都の花街へたどり着いたのだ。
しかし、口のきけない姉という大荷物を抱えた少女を雇う店など、簡単に見つかるはずがない。
妹だけなら、と手を上げてくれた店もあったが、阿天は阿海と一緒に暮らすことにこだわった。
『あたしがふたり分稼ぎます』と頼み込んで置いてもらったのが、運河沿いに建つ「酔月楼」。のちの海天楼である。
酔月楼は阿天を「沫児」という名の妓女として働かせ、阿海は裏方にまわした。
双子の姉がいることは、客には話すなと阿天に釘を刺していた。
しかし、雇ってみれば案の定、姉は雑用すらできない。
妹も、良くも悪くもすべてが人並みで、ふたり分稼げる日が来るとは到底思えなかった。
「店を追い出されそうになったのは、わたくしではなく阿海よ。店の言い分はもっともだわ。でも、どうしても離れたくなかった」
追い詰められた末に阿天が活路を見出したのは、素潜りを生かした曲芸。
水桶に顔をつける時間は、姉には敵わないが、都の客を驚かせるには十分だった。
そんなある日、阿天は客の前でつい本音をこぼしてしまう。
『阿海なら、もっとできるのに……』
その相手が、のちに彼女の金主となる男だ。
金と時間をもて余したこの貴人は、薄幸ながらに支え合う少女たちの物語にいたく感激したそうで
『海底を模したこの玻璃の函なら、阿海の特技を活かせる。幼い頃のように二人で支え合って、一人の人魚を演じるんだ』
それから瞬く間に、玻璃の函の製作と、店の改装が始まった。
「酔月楼」は「海天楼」に。
そして「沫児」は「鯪珠」へと生まれ変わった。
店の看板を背負った姉妹は、人魚になるべく特訓を重ねた。
水へ飛び込むのも、水から上がるのも妹の阿天。
阿海が人前に出るのは、水中での交代時のみだ。
どこを泳ぐか、どこへ行ってはいけないか。交代の息の合わせ方。すべて、音楽に合わせて阿海は必死に覚えた。
そうするうちに、阿海の潜水能力がさらに極まる。
阿天は何とか百拍まで耐えられるいっぽうで、阿海は三百を数えるまで、顔色ひとつ変えず踊れるようになった。
実は水中での二刻間の、三分の二は阿海が担当している。
水中で踊ることは、海底での採珠よりもずっと阿海の性に合っていたようだ。
それにこの人魚の舞が、姉妹が一緒に生きられる唯一の手段だということを、阿海なりに分かっていたのかもしれない。
都から遠く離れた海に住む、阿海という名の少女は、限りなく人魚に近い存在だった。
声を失った彼女はやがて陸へ上がり、妹と「玻璃の函」の力を借りて、ついに本物の人魚となったのだ。
「『鯪珠』という名の人魚が本当にいるのなら、それはわたくしではなく姉のことよ」
そう、阿天は締めくくる。
話を聞き終えた無咎は、ふと周囲を見まわした。
「ここは二人の部屋だったんですね。内装が豪勢なわりにあまり広くないのが不思議でしたが、どこかにお姉さんの住む隠し部屋があったとしたら、納得できる」
続いて玄晏が、背後をふり返って繋げた。
「それに、あの扉は────……」
鯪珠の部屋の扉には、二人の人魚が向かい合う絵が描かれている。
それが何を意味しているのか、真実を知った今なら一目瞭然だ。
「ええ。わたくしたちは、二人で一人。どちらが欠けても生きてゆけないから」
*
その翌朝、玄晏らは特別にもう一度玻璃の函を見せてもらった。
公演後、「本当に水が抜かれただけ」の函を用意してもらったのだ。
「これは、でかいな……」
ふたりの声が重なった。
箱の中に立てられた二枚の底板。縦は六尺(1.9メートル)横は九尺(2.8メートル)もある。
そして、それぞれに貼られた鏡は縦一尺八寸(56センチ)横一尺五寸(47.5センチ)。これが二十枚ほど隙間なく並べられていた。
「鏡を拭いて、乾かすところまではやった。あとは錫粉で磨いてから油を塗って、布を貼り付けてから床へ寝かせるんだ」
梁親方の話を聞いていると、その念の入れようはまるで食材の仕込みだ。
函の天面を見上げると、巨大な底板を動かすための滑車がすでに設置されている。
ふたりは函の中へ入る。
二枚の底板はちょうど先端が直角(90度)になるよう並べられ、背後には三角形の空間ができていた。
裏に回って空間へ入る。
広さは三十平方尺(3平方メートル)くらいで、立てられた底板の内側には、滑車の吊り金具にかけるための金属輪が飛び出していた。
「底板の表面に、こんな金属輪があったのか。調査の時は気づかなかった」と玄晏。
「ふだんは上から木枠を被せてる。そうすると、底板の砂利止めと見分けがつかねえだろう?」
ガラスの向こうで、梁が腕を組んで得意気に笑う。
鯪珠が敗北した原因が、自分のおしゃべりだということには、どうやら気づいていないようだ。
そのうち、玄晏ともすっかり顔なじみとなった妓女の玳瑁も広間へ降りてきた。
「あんたたち、鯪珠の正体を見破ったんだって?すごいじゃないか」
いつもの調子で明るく笑っていた彼女だったが
「それで、さ……」
と、声を落とし、伏し目がちに手のひらを差し出す。
そこには銀粒が五個載っていた。
「女将と主人に言われたんだよ。『もらった金銭はすべて返して、何とか見逃してもらえるよう頼んでこい』って」
玄晏が皇城司だと知るやいなや、店側は大慌てで「人魚の舞はもう辞めるから、取り潰しだけは勘弁してほしい」と泣きすがった。
今は彼に渡すための賄賂をかき集めているらしい。
玳瑁は、ばつが悪そうに続けた。
「信じてもらえないかもしれないけどさ、悪い店じゃあないんだよ。きちんと売り上げも報告して、税も納めてるし。それに阿海のことも……アタシはあの二人、けっこう好きなんだ。幸せになってほしいよ」
「ああ。それは十分に分かっている」
深くうなずいた玄晏は、そっと彼女の手を押し返す。
海天楼が、いかさまを働いていたことは事実だ。
しかしその虚構は、誰かを貶めたり傷つけたりするものではない。
そして何より、この偽りの函の中に、悪人はひとりも存在しなかった。
「さて、いったいどう報告しようか……」
玄晏が頭をひねると、隣から冷めた声が飛んできた。
「そのまま伝えろ。つつみ隠さず、すべてな」




