第十八話 人魚の秘密その3
「……苦しく見えるかもしれませんが、実はそうでもないんですよ」
それでもなお、無咎は不思議なほど余裕の所作で立ち、窓際へ移動する。
「今日、玻璃の函の水が入れ換えられたことは、誰の目にも明らかなんですから」
「……どういうこと?朝夕で、水の違いがあったとでも?」
違いなど、あるはずがない。
今日の玻璃の函は完璧だった。
給水量も、水位もいつもと同じ。
不自然な濁りや泡立ちもなく、岩などの配置もいつもと何ら変わりなかった。
無咎は答えず、ただ窓の外を指さす。
鯪珠は仕方なくといった調子で立ち上がって、窓辺に並ぶ。
「この景色、何かがおかしいと思いませんか?」
「え?」
鯪珠は目を凝らす。
三階の窓からみえる景色は、夕日に照らされる花街と、そばに流れる巨大な運河が広がるだけだ。
川沿いにはぽつぽつと赤い灯籠がともりはじめ、夜の花街の幕開けを予感させる。
店裏の船着き場では二、三人の作業員が、小舟から荷物を下ろしていた。
「あるはずのものがないんです。昨日から、そこに停まっているはずのものが」
その瞬間、鯪珠ははっと息をのむ。
そして、おそるおそるといった様子で視線を遠くから、眼下へと落とした。
「船……」
「そのとおりです」
無咎は快活な返事とともに扇をひらき、自分をあおいだ。
「今朝、ここには揚水のための大きな水船が停まっていました。そして親方が言うには、船は毎月4日に、二公演分の水を積んでここへやってくる。5日の給水を終えてからは、二回目……つまり20日の給水を終えるまで、ずっとここに停泊し続けていると」
今日は6月5日。
およそ十三万斤(80トン)の水を積んだ巨大な水船が、昨日この海天楼へやって来たばかりだということは、水門の通行簿や店の荷受帳を確認すれば明らかだ。
「今朝の給水を終えた時点で、船にはまだ水が半分残っていました。実際、私が昼にこの部屋から船を見下ろしたときも、船上に八つあった水槽のうち、四つに水が入っていた。だからあそこには、まだ水船がいなければおかしいんです」
さらに言えば、無咎が鯪珠とともに料理屋へ向かうため、小舟に乗ったときも、停泊する水船のそばを通っている。
その際、二階へ水を揚げる竜骨車がまだ掛かっていたことも、記憶に新しい。
「その船が今なくなっているということは、今日の昼から今までのどこかで、一公演分の水が使い果たされたとしか考えられません」
やがて船着き場では荷降ろしが終わり、眼下には一艘の船もなくなった。
茜色に染まった水面が、むなしく揺らいでいるばかりだ。
無咎は扇を閉じると、屈託のない声音で、とどめの一手を打つ。
「教えてください。昼にはあったはずの六万五千斤(40トン)もの水が、たった三時辰(6時間)のうちに、いったいどこへ消えたのか」
「……」
───カチン、
水色の袖から、一粒の真珠がこぼれ落ち、足元を転がった。
無咎はそれに気づくと、膝を折る。
「我々が、初めて顔をあわせた時のことを覚えていますか?先月、玳瑁どのの部屋で───」
固まる鯪珠の横で、白い珠をそっと拾い上げる無咎。
「あなたは話の折に水船について触れたとき、一瞬窓の外を見ようとした。思い返せばあのとき、我々にこの船着き場を見せようとしていたのではありませんか?しかし、あの日は5月の21日。昨日まで停まっていた水船が、すでに発った後だと気づいてやめたのでしょう」
毎月4日から20日まで、店の裏には巨大な水船が停まっている。
それはこの店の人間なら誰もが当たり前に認識しているはずだ。
「……」
しばらく呆然とした顔で運河を見下ろしていた鯪珠は、薄い唇を震わせた。
「まさか、親方が……そこまで話してたなんて……」
「水船の段取りは、函の仕掛けとは無関係ですからね。だから、誰も口止めしていなかったのでしょう」
“鯪珠の正体と函の仕掛けは、絶対に口外してはならない。”
その掟はたしかにこの海天楼に存在する。
しかし、そこで働く人々を強く縛りつけてはいなかったようだ。
古参妓女の玳瑁も、函の管理者である梁親方も、秘密に直接関わらないことであれば、包み隠さず、むしろ喜んで話した。
その正直さこそが最上の目眩ましとなり、部外者たちをことごとく欺いてきたにちがいない。
「隠す必要のないことは、なるべく堂々と、表に出したほうが怪しまれない。そう、旦那さまに教えられていたから───」
顔を上げ、燃える空を見る鯪珠。
紅く染まる横顔には、悔しさがにじみながら、どこか憑き物が落ちたような安堵があった。
「あなたの言うとおりよ。昼にわたくしがあなたたちを連れ出したあと、店では函の水をすべて運河に捨てて、仕掛けを設置してから、もう一度水を入れ直した。あなたの落水は想定外だったけれど、昼餉に誘うことは、最初から決めていたわ」
たとえ無咎の落下事故がなくとも、鯪珠が「話したいことがある」と誘えば、ふたりは喜んで同行しただろう。
「函の仕掛けも、あなたの推理どおり。背後には鏡を使った待機部屋があって、演舞中、わたくしたちは何度も交代していた」
「実際に交代がおこなわれていたのは、大きな岩の後ろですね」
「ええ。直接鏡の後ろで交代すると、体が消えたように見えてしまうから。交代の時間になったら隣の岩裏へ移動していたの」
「お二人の連携は見事です。今日わたしは、すべて見破った状態で公演を見ていましたが、何度入れ替わったのか正確には分からなかった」
「入れ替わる瞬間は、この演舞の命綱だもの、何百回も特訓したわ。息を合わせるのも大事だけれど、岩裏ではわざと不規則な動きをして、目を誤魔化すのが秘訣よ」
鯪珠は吹っ切れた様子で、手の内を明かしていく。
「もう一人の人魚は、左腰にほくろのある女性ですか?」
そう指摘されると、鯪珠は目を見開いた。
「……なぜ、それを?」
無咎は、軽く思い出し笑いをしながら語る。
「夜更けに、回廊であなたを見かけました。あなたは裸で、欄干に腰かけていた。しかし普通の……特にあなたのような完璧主義の女性ならば、そんな真似はまずしない。それに───今日の公演中、子供に手をふる無邪気な顔。あれは何というか……あなたらしくなかった」
店の者らが裸の鯪珠を素通りしていたのは、皆が“もう一人の鯪珠”の存在と、彼女の特性を知っているからにすぎない。
「昼に聞いた昔話も気になりました。幼い頃のあなたは、誰かと海で素潜りを競って遊んでいたそうですね。しかし『友がいなくて、話すのは苦手』とも語っていた。ということは、幼い頃の遊び相手は友ではない。そして、その“誰か”はとても無口なのでしょう」
ふたりが話していると、部屋の外で物音がする。
扉を開けると、髪や衣を濡らした玄晏が立っていた。
「揚水部屋の、受水桶の中にいた」
そう息を切らせる彼の背後にいたのは、鯪珠と瓜二つの顔をした女だ。
そっくりなのは顔だけではない。
その小さな背丈も、肉のつき方も、耳の形さえ同じだった。
しかし、その身にまとう気配はまるで違う。
化粧はしておらず、髪はずぶ濡れ。衣の合わせ目が逆で、帯の位置もおかしい。
黒目が絶えずキョロキョロと動いており、彼女が“普通”でないことは一目瞭然だ。
おそらく裸のまま水遊びをしていたところを、玄晏に捕まり無理矢理着せられたのだろう。
またもや女体を目撃してしまった玄晏と、彼女がどのような攻防戦を繰り広げたのか、想像に難くない。
玄晏は今日の公演後に、無咎からすべての推理を聞かされていたが、「鯪珠は二人いる」という事実が、いまだ信じられないようだ。
二人の顔を交互に見ながら、戸惑いを隠さない。
「すまない。手荒な真似をしたつもりはないのだが、こちらの女人は何を問うても、頑なに答えようとしないのだ」
“もう一人の鯪珠”は口をへの字に曲げ、今にも泣きそうに顔を歪める。
「ごめんなさいね。でもあまり責めないでちょうだい。その子は口が聞けないの。頭の中も、子供のまま止まってる。でも……泳ぎだけは誰よりも得意なのよ」
鯪珠は手招きして、もう一人の鯪珠を呼び寄せると、慣れた手付きで彼女の衣を直しはじめた。




