表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
問無抄 ~のら猫と忠犬の虚実録~  作者: ぐるた眠
第二章 海天楼~人魚の舞う妓楼~【挿絵付】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

35/37

第十八話 人魚の秘密その3

「……苦しく見えるかもしれませんが、実はそうでもないんですよ」


 それでもなお、無咎(むきゅう)は不思議なほど余裕の所作で立ち、窓際へ移動する。


「今日、玻璃の函の水が入れ換えられたことは、誰の目にも明らかなんですから」


「……どういうこと?朝夕で、水の違いがあったとでも?」


 違いなど、あるはずがない。

 今日の玻璃の函は完璧だった。


 給水量も、水位もいつもと同じ。

 不自然な濁りや泡立ちもなく、岩などの配置もいつもと何ら変わりなかった。


 無咎(むきゅう)は答えず、ただ窓の外を指さす。


 鯪珠(りんじゅ)は仕方なくといった調子で立ち上がって、窓辺に並ぶ。


「この景色、何かがおかしいと思いませんか?」


「え?」


 鯪珠(りんじゅ)は目を凝らす。

 三階の窓からみえる景色は、夕日に照らされる花街と、そばに流れる巨大な運河が広がるだけだ。


 川沿いにはぽつぽつと赤い灯籠がともりはじめ、夜の花街の幕開けを予感させる。


 店裏の船着き場では二、三人の作業員が、小舟から荷物を下ろしていた。


「あるはずのものがないんです。昨日から、そこに停まっているはずのものが」


 その瞬間、鯪珠(りんじゅ)ははっと息をのむ。


 そして、おそるおそるといった様子で視線を遠くから、眼下へと落とした。


「船……」


「そのとおりです」


 無咎(むきゅう)は快活な返事とともに扇をひらき、自分をあおいだ。


「今朝、ここには揚水のための大きな水船が停まっていました。そして親方が言うには、船は毎月4日に、二公演分の水を積んでここへやってくる。5日の給水を終えてからは、二回目……つまり20日の給水を終えるまで、ずっとここに停泊し続けていると」


 今日は6月5日。

 およそ十三万斤(80トン)の水を積んだ巨大な水船が、昨日この海天楼へやって来たばかりだということは、水門の通行簿や店の荷受帳を確認すれば明らかだ。


「今朝の給水を終えた時点で、船にはまだ水が半分残っていました。実際、私が昼にこの部屋から船を見下ろしたときも、船上に八つあった水槽のうち、四つに水が入っていた。だからあそこには、まだ水船がいなければおかしいんです」


 さらに言えば、無咎(むきゅう)鯪珠(りんじゅ)とともに料理屋へ向かうため、小舟に乗ったときも、停泊する水船のそばを通っている。


 その際、二階へ水を揚げる竜骨車がまだ掛かっていたことも、記憶に新しい。


「その船が今なくなっているということは、今日の昼から今までのどこかで、一公演分の水が使い果たされたとしか考えられません」


 やがて船着き場では荷降ろしが終わり、眼下には一(そう)の船もなくなった。

 茜色に染まった水面が、むなしく揺らいでいるばかりだ。


 無咎(むきゅう)は扇を閉じると、屈託のない声音で、とどめの一手を打つ。


「教えてください。昼にはあったはずの六万五千斤(40トン)もの水が、たった三時辰(6時間)のうちに、いったいどこへ消えたのか」


「……」


 ───カチン、


 水色の袖から、一粒の真珠がこぼれ落ち、足元を転がった。


 無咎(むきゅう)はそれに気づくと、膝を折る。


「我々が、初めて顔をあわせた時のことを覚えていますか?先月、玳瑁(たいまい)どのの部屋で───」


 固まる鯪珠(りんじゅ)の横で、白い珠をそっと拾い上げる無咎(むきゅう)


「あなたは話の折に水船について触れたとき、一瞬窓の外を見ようとした。思い返せばあのとき、我々にこの船着き場を見せようとしていたのではありませんか?しかし、あの日は5月の21日。昨日まで停まっていた水船が、すでに発った後だと気づいてやめたのでしょう」


 毎月4日から20日まで、店の裏には巨大な水船が停まっている。

 それはこの店の人間なら誰もが当たり前に認識しているはずだ。


「……」


 しばらく呆然とした顔で運河を見下ろしていた鯪珠(りんじゅ)は、薄い唇を震わせた。


「まさか、親方が……そこまで話してたなんて……」


「水船の段取りは、函の仕掛けとは無関係ですからね。だから、誰も口止めしていなかったのでしょう」


鯪珠(りんじゅ)の正体と函の仕掛けは、絶対に口外してはならない。”


 その(おきて)はたしかにこの海天楼に存在する。

 しかし、そこで働く人々を強く縛りつけてはいなかったようだ。


 古参妓女の玳瑁も、函の管理者である梁親方も、秘密に直接関わらないことであれば、包み隠さず、むしろ喜んで話した。


 その正直さこそが最上の目眩(めくら)ましとなり、部外者たちをことごとく(あざむ)いてきたにちがいない。


「隠す必要のないことは、なるべく堂々と、表に出したほうが怪しまれない。そう、旦那さまに教えられていたから───」


 顔を上げ、燃える空を見る鯪珠(りんじゅ)

 紅く染まる横顔には、悔しさがにじみながら、どこか憑き物が落ちたような安堵があった。


「あなたの言うとおりよ。昼にわたくしがあなたたちを連れ出したあと、店では函の水をすべて運河に捨てて、仕掛けを設置してから、もう一度水を入れ直した。あなたの落水は想定外だったけれど、昼餉(ひるげ)に誘うことは、最初から決めていたわ」


 たとえ無咎(むきゅう)の落下事故がなくとも、鯪珠(りんじゅ)が「話したいことがある」と誘えば、ふたりは喜んで同行しただろう。


「函の仕掛けも、あなたの推理どおり。背後には鏡を使った待機部屋があって、演舞中、わたくしたちは何度も交代していた」


「実際に交代がおこなわれていたのは、大きな岩の後ろですね」


「ええ。直接鏡の後ろで交代すると、体が消えたように見えてしまうから。交代の時間になったら隣の岩裏へ移動していたの」


「お二人の連携は見事です。今日わたしは、すべて見破った状態で公演を見ていましたが、何度入れ替わったのか正確には分からなかった」


「入れ替わる瞬間は、この演舞の命綱だもの、何百回も特訓したわ。息を合わせるのも大事だけれど、岩裏ではわざと不規則な動きをして、目を誤魔化すのが秘訣よ」


 鯪珠(りんじゅ)は吹っ切れた様子で、手の内を明かしていく。


「もう一人の人魚は、左腰にほくろのある女性ですか?」


 そう指摘されると、鯪珠(りんじゅ)は目を見開いた。


「……なぜ、それを?」


 無咎(むきゅう)は、軽く思い出し笑いをしながら語る。


「夜更けに、回廊であなたを見かけました。あなたは裸で、欄干に腰かけていた。しかし普通の……特にあなたのような完璧主義の女性ならば、そんな真似はまずしない。それに───今日の公演中、子供に手をふる無邪気な顔。あれは何というか……あなたらしくなかった」


 店の者らが裸の鯪珠(りんじゅ)を素通りしていたのは、皆が“もう一人の鯪珠(りんじゅ)”の存在と、彼女の特性を知っているからにすぎない。


「昼に聞いた昔話も気になりました。幼い頃のあなたは、誰かと海で素潜りを競って遊んでいたそうですね。しかし『友がいなくて、話すのは苦手』とも語っていた。ということは、幼い頃の遊び相手は友ではない。そして、その“誰か”はとても無口なのでしょう」


 ふたりが話していると、部屋の外で物音がする。

 扉を開けると、髪や衣を濡らした玄晏(げんあん)が立っていた。


「揚水部屋の、受水桶の中にいた」


 そう息を切らせる彼の背後にいたのは、鯪珠(りんじゅ)と瓜二つの顔をした女だ。


 そっくりなのは顔だけではない。

 その小さな背丈も、肉のつき方も、耳の形さえ同じだった。


 しかし、その身にまとう気配はまるで違う。


 化粧はしておらず、髪はずぶ濡れ。衣の合わせ目が逆で、帯の位置もおかしい。

 黒目が絶えずキョロキョロと動いており、彼女が“普通”でないことは一目瞭然だ。


 おそらく裸のまま水遊びをしていたところを、玄晏(げんあん)に捕まり無理矢理着せられたのだろう。


 またもや女体を目撃してしまった玄晏(げんあん)と、彼女がどのような攻防戦を繰り広げたのか、想像に難くない。


 玄晏は今日の公演後に、無咎(むきゅう)からすべての推理を聞かされていたが、「鯪珠(りんじゅ)は二人いる」という事実が、いまだ信じられないようだ。


 二人の顔を交互に見ながら、戸惑いを隠さない。


「すまない。手荒な真似をしたつもりはないのだが、こちらの女人は何を問うても、頑なに答えようとしないのだ」


“もう一人の鯪珠(りんじゅ)”は口をへの字に曲げ、今にも泣きそうに顔を歪める。


「ごめんなさいね。でもあまり責めないでちょうだい。その子は口が聞けないの。頭の中も、子供のまま止まってる。でも……泳ぎだけは誰よりも得意なのよ」


 鯪珠(りんじゅ)は手招きして、もう一人の鯪珠(りんじゅ)を呼び寄せると、慣れた手付きで彼女の衣を直しはじめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ