第十七話 人魚の秘密その2
「あなたの最大の妙手は、調査中、わたしの目の前で底板を剥がさせたことでした」
二枚の鏡から手を離した無咎は、身をのり出す。
「あなたが“偶然、剥がれた底板に気づいた” おかげで、我々は函の下を見ることができた。そこに巨大な鏡板を隠せるほどの空間はなかったし、剥がした底板は表も裏も普通の、防水加工をされただけの木板でした」
実際彼らが見たのは、巨大な函のほんの一部にすぎなかった。
しかし人は、一斑を見て全豹を知る───一部を全てだと思い込んでしまう。
鯪珠はその心理の隙をついて、わざと「何もない部分」へ彼らを誘導したのだ。
「あなたの策略にまんまとひっかかったわたしですが、その時ひとつの違和感に気づきました。底板が、函の外枠に対して斜めに置かれていたんです。全ては見えませんでしたが、おそらくほとんどの底板が、函に対して平行でも垂直でもなく、斜めの不自然な並びをしている」
そこで無咎は、新たに二つの推論を導き出した。
一つは、仕掛けはやはり函の底───しかも今回剥がした部分から離れた場所にあること。
そしてもう一つは、その仕掛けが、鯪珠という女によって巧妙に隠されていることだ。
過去に、何人もの間者がこの仕掛けの看破に失敗していることからも、正攻法では敵わないと確信した。
「だから今朝の調査では、あえて給水前には底板を調べませんでした。もし『底板を見たい』と素直に申し出ていれば、何かしらの方法で妨害されていたでしょう。だから給水後に、誰もが予期せぬ方法で調べることに」
「やっぱり、わざと水に落ちたのね」
鯪珠は呆れたようにため息をつく。
そして腰をすえるように、高卓の椅子に座り、無咎と正面から向き合った。
「水中で確認した底板は、隙間がないよう板同士がすべて黒漆で接着されていました。でも、客席側のある場所では、継ぎ目に隙間があったのです。漆は確かに塗られているのに、隣の板とくっついていない。それは、あたかも“くっついているように見せる”ための偽装工作だ。その板こそが、裏が鏡になっている可動板。起こすだけで、そのまま三角の隠し部屋が造れるはずです」
ここでもう一度、卓の上で伏せた青銅鏡が起こされた。
「人間をすっぽりと隠すほどの巨大板は相当な重さ。引き起こすだけでも滑車などの機械を要するでしょうが、外から運び込むよりはるかに現実的でしょう」
鯪珠は卓の上のV字鏡を冷めた目でちらりと見ると、
「……それだけ?」
と、言って無咎を鋭く見上げた。
そして自ら鏡に手を伸ばす。
「あなたが、わざわざ水に落ちてまで確かめたのは、底板の“隙間”だけだというの?その裏面に鏡があるかどうかは、分かっていないじゃない。それに、仮にあなたの推測どおりだったとしても、給水後に鏡板が寝たままなら、隠し部屋は存在しなかったということ」
ふたりの視線の先には、鯪珠によって伏せられた二枚の鏡。
「そうですね」
「その隠し部屋のない函で、わたくしは今日、公演をやり遂げたわ」
「いいえ。公演時に隠し部屋はありました。底板が起こされたのは、我々が調べたあとだからです」
───何を言っているの?なぜ分からないの?
とでも言うように、鯪珠は口もとをゆがめた。
「あなたも知っているでしょう?水の中は目もほとんど見えないし、体の自由もきかない。それに水は重いわ。たとえ機械を使っても、給水後に大きな底板を起こすなんて不可能よ」
推理の決定的な穴をつかれた無咎。
しかし彼は、ひるむどころか「待ってました」と言わんばかりに、明るい声を上げた。
「そのとおり!一度水を入れてしまえば、底板は起こせない───つまり隠し部屋は絶対に造れない。その固定観念を、あなたは利用したんだ」
無咎は袂から白い扇を取り出し、卓の端を小気味よく叩いた。
「底板の件に続いて、あなたの提案は実に巧妙でした。『空の函に水を溜めるところから見せる』。この条件ならすべてを監視できるからです。空の函、給水中の函、満水の函。たとえわたしの推理にほころびがあったとしても、目を離さず見張っておけば、どこかで必ず、何らかの仕掛が施されるはず」
今朝の調査は、彼らにとってこれ以上ない好条件だった。
喉を潤すための村醸(田舎の地酒)を頼んだところに、極上の羊羔酒を差し出されたようなものである。
「けれど、函が満水になっても仕掛けは設置されなかった。普通はこう思うでしょう。今日の公演は失敗、もしくは中止だと。しかし不思議なことに、公演は成功した」
無咎の頬は紅潮し、瞳に光がともる。
その熱狂をはらんだ面持ちは、かつて彼が披露した「函に惹かれる商人」の演技とは比べ物にならなかった。
「夢にも思わないでしょうね。昼間、あなたが我々を外へ連れ出した間に、函の水がすべて抜かれ、底板を起こしてからもう一度給水されていたなんて……!」
それは、耳を疑うほど大胆な仮説だった。
しかし鯪珠は微動だにせず沈黙を貫く。
「給水にかかる時間は五刻(75分)、長くても六刻(90分)ほどだ。排水はおそらく四刻(60分)ほど。底板を起こすのは骨が折れるが、滑車を使えば三刻(45分)で十分でしょう。つまり一時辰と六刻(3時間半)もあれば、水を入れ換えられる」
今日、無咎らが料理屋へ向かうため海天楼を離れたのは午時(11時)過ぎだった。
その後、海天楼が開き客を入れたのは申時(15時)。
生まれた時間の空白は、計算上、不可能ではない。
「特に過酷だったのは、船の上で踏み台を漕ぎ続けるあの竜骨車でしょうね。朝にいた数人だけでは体力がもたない。だから、ふだんは指揮をとるだけの梁親方も、二回目の給水作業ではみずから汗を流していたんでしょう。厳格な函の番人である親方が、先ほどの公演中に居眠りしていたのは、そのためだ」
無咎がこれまで集めた小さな情報と、論理の積み重ねは、壮大な仮説を構築していた。
「ふふ……。面白く聞いていたけれど、しょせんはすべて憶測ね」
黙って耳を傾けていた鯪珠は、ふっと微笑んだ。
苦しまぎれではない。彼女は微塵も動じていなかった。
「無咎さん。あなたはさっきから『あるはず』『でしょう』としか言っていない。すべて想像の域を出ていないのよ。何度も言うけれど、あなたは肝心の大きな鏡板を、一度も目にしていないのでしょう?それに、たったの二時辰(4時間)で水をすべて入れ換えただなんて、簡単に言わないでちょうだい。一度の公演のために、どれだけの人間が動くと思っているの?」
「……」
無咎は目を丸くし、言い返さない。
実はこの局面において、無咎は圧倒的に不利だった。
なぜなら彼は「もう函は見ない」と鯪珠に約束してしまったから。
「今から函を見せてくれ」「底板を全て剥がしてくれ」────その決定的な切り札は封じられている。
まるで窮屈な水槽に閉じ込められた人間のような盤面で、無咎は偽りの人魚へ挑んでいるのだ。
「底板の隙間なんて、砂利で擦れて漆が剥げただけにすぎないわ。確かなのは、わたくしが昼にあなたがたと出掛けたことと、親方が居眠りしていたことくらいよ。憶測だけでそこまで話を組み立てられるのは素晴らしいけれど、それをあたかも真実のように言いきるのは見苦しいわ」
鯪珠は強く言い放つ。
その目には今の無咎が、ただ泥船にしがみつき、必死にもがいているだけの男に見えるのだろう。




