第十六話 人魚の秘密その1【挿絵】
海天楼の二階。
大きな受水桶のある揚水部屋は、床に厚手の麻布が敷かれ、簡易的な鏡台や衣装架けが置かれている。
そこは公演中、鯪珠の楽屋(待機部屋)になるからだ。
6月5日、酉時の半ば(18時頃)。
公演を終えた鯪珠は、すぐに揚水部屋へ入り、濡れた衣装を体から剥がす。
肌を拭き、薄い黄色の上衣、淡い黄緑の裙(スカート)をまとう。
そして最後に水色の褙子に袖をとおした。
それは彼女のお気に入りで、襟元や袖口、そして金色の波の刺繍を囲うようにして、無数の小さな真珠が縫い付けられている。
今夜は客の相手はなく、あとは自室に戻るだけである。
しかし、回廊ですれ違う人たちに、見苦しい姿を晒すわけにはいかない。
濡れた髪を珊瑚の簪でまとめ、化粧も軽くなおす。
回廊へ出て一階を見下ろすと、照明の落とされた広間を、彩られた妓女たちが忙しそうに歩き回っていた。
海天楼は開かれた劇場から、秘密の深海へ染まっていく。
三階へのぼり回廊の奥へとすすむ。
人魚が描かれた扉の前、取手に触れようとした鯪珠の手が止まった。
扉の透かし格子の中、白い薄絹越しに人影が見えた。
鯪珠は驚かない。
ただ意外だったのは、影がひとつだったことだ。
戸を開けると、くたびれた灰衣に赤い大袖衫を羽織った男が、しずかに窓の外を見ていた。
「おひとりなの?」
「男ふたりで入るのは、ご法度のようなので」
ふり返った無咎の手には「鯪珠」と彫られた木札があった。
妓女の名札は、部屋へ上がるための通行証でもある。
「また函を見せてほしい。というお願いなら、もう聞き入れられないわ。あれが最後だと約束したでしょう」
冷たい声で鯪珠は言い放つ。
居間の奥まですすむと、寝室との境にある榻(長椅子)に腰かけた。
「ええわかっています。もう見る必要はありません。そのうえで、確信したんです」
無咎はさらりと言ってのけた。
そして彼女のそばまで歩み寄り、視線を合わせるよう腰をかがめた。
「あなたは人魚ではない。人魚の血をひいた特異体質でもない、ただの人間です。だから、いくら特訓したからといって二刻も息を止めるのは不可能だ。特にあのような演舞をしながらでは、せいぜい百を数えるくらいが限界でしょう」
鯪珠はしらけた眼差しで、無咎の顔を見上げる。
物言いは老成しているが、容貌は少年のような危うさがある。
この世の何にも無関心という顔をしながら、時に命知らずな大胆さと、獣のような嗅覚でこの店を嗅ぎまわってきた。
初めて会った時から、ほんとうに不思議で、この上なく厄介な男だ。
「聞かせてちょうだい。わたくしがただの人間だというのなら、どうやって二刻もの間、水中で舞い続けたのか」
*
無咎は背筋を伸ばし、部屋をゆっくりと歩き回る。
「真相は単純です。函の中にはあなたの他にもう一人いた。二人とも泳ぎが得意だが、ただの人間。でも水中で何度も交代すれば、長時間の演舞を乗り切ることができる」
「わたくしは一人で函に入ったわ」
鯪珠が即座に返すと、無咎は足を止め、長方卓を挟んで言った。
「あなたが入水したあと、函の上に暗幕がかけられる。もう一人が入水するのはその瞬間でしょう。函の中には隠し部屋があって、交代まではそこに隠れていたはずです」
鯪珠はふっと嘲笑をこぼす。
「隠し部屋……?そんなものを、あなたはいつどこで見たのかしら」
無咎は首を横にふる。
「見ていません。あの函は周囲をどこにも接していない。函の内部にも、人が隠れられるような別空間はなかった。では、なぜ見つけられなかったか。その隠し部屋が公演日にのみ設置され、公演後すぐ撤去されてしまうからです」
「部屋を……設置?」
「ええ。部屋は大きな衝立を立てるだけで造れます。中で泳ぐあなたの背後に、背面の壁と全く同じように見える板を置けば、本物の壁との間に小さな空間ができる。そして、その中でなら水の上に顔を出して呼吸しても、観客に見られることはありません」
函の上部には太い装飾枠があるため、水面から上は死角になる。
つまり、人が浮いて顔を出すなら、首から下さえ隠せばいい。
鯪珠は眉間にしわを寄せて、首をかしげた。
「たしかに、その理屈では人の姿は隠せそうね。けれど、その“大きな板”自体に気づかれてしまいそうよ?」
「そのとおり。仮に、本物の壁と同じ青灰色の板を設置したとして、真正面の客なら騙せるでしょうが、左右の端の席にいる客は、すぐ違和感に気づくでしょうね。ですが、設置されたのがただの板ではなく、鏡であれば別です」
無咎は目の前の長方卓へ進むと、椅子に掛けて手を伸ばす。
卓の上に並べてあったのは、縦横が一尺半あまり(50センチほど)の鏡板が二枚。
「これは舞台照明に使われていた青銅鏡です。裏方から拝借しました。木枠は外しましたが」
無咎はまず二枚の鏡を卓の上で立て、鏡面がそれぞれ外側に向くよう、背中合わせにした。
次に、その二枚が上から見て八の字になるよう並べ、その先端を寄せて、直角(V字)を作った。
「隠し部屋はこのような三角形をしています。二枚の鏡板で作った角(先端部)が客席側を向くように、あなたの背後へ設置すれば、三角の空間ができる。そして客席から見える鏡面に映るのは、函内部の左右の壁面。背面と全く同じ材質の壁が映ることで、客はただ背面の壁があるように錯覚するのです」
次に無咎は、あらかじめ鏡から外してあった木枠を二つ、V字鏡の両脇を挟むように設置する。
「これが函の左右の壁だと思ってください。あなたがいる方が客席です」
そして羽織っていた赤い衣を脱ぎ、背面から木枠に被せる。
ちょうど赤い布が、V字鏡を背後からコの字に囲うような形になった。
鯪珠は立ち上がり、卓に近づいて正面から覗き込む。
「たしかに、鏡には赤い布地が映るから、見方によっては背面と同化して見えるかもしれないわね」
無咎はうなずく。
「ただし、この仕掛けは万能ではありません。成功させるには、前を泳ぐあなたの工夫も不可欠だ。この木札を、泳ぐあなたとしましょう」
次に無咎は【鯪珠】の木札を取り出し、V字鏡の先端付近で動かす。
「このように、あなたが客席側を泳げば、背後の鏡に姿が映ることはありません。しかし───」
無咎は木札を右端に寄せ、さらに鏡に近づけるように背面へ後退させる。
すると、鏡に木札が映り込み、客席からは「本物の鯪珠」と「鏡の中の鯪珠」の二つが見えてしまう。
「あなたは函の中を縦横無尽に泳ぎ回っているように見えたが、実際は『鏡に映らない場所』だけを選んで泳いでいたんです」
このような制約はあれど、この仕掛けに鏡を採用した理由───それは欺ける範囲の広さだ。
ただの板とは違い、鏡は見る者の位置に合わせて見せる(映す)面が自然に切り替わるため、左右の端の客も欺ける。
さらに錯覚を後押しするのは、客席から函までの距離、ガラスの曇りや格子枠。
これらはよい目眩ましになった。
加えて、鏡の両端を隠すように岩や海藻を配置すれば、鏡と本物の壁の境目はごまかせる。
「そもそも観客の視線は常にあなたを追っている。だから、どの席にいたとしても、背面に別の壁があるとは気づかないでしょう」
「……なるほど」
鯪珠は、自分の名が刻まれた木札を取り上げる。
「ずいぶんと大胆なことを思いつくのね。けれど、隠し部屋をつくるというなら、その鏡はものすごく大きいのでしょう?そんなに大きな鏡を二枚も。どうやって函に入れるのかしら」
水面に浮上した人間を隠すには、水深と同じ六尺三寸(2メートル)近い高さが必要だ。
実際には側面も覆い隠すため、横幅はさらに長くとらねばならない。
そんな巨大板の搬入は、天面にあるいちばん大きな格子枠からも、不可能である。
「外から運び込む必要はありません。鏡は最初から函の中にあったのですから」
「でも、中はあなたが徹底的に調べていたじゃない」
たしかに無咎は、入念な調査の末にも仕掛けを見つけられなかった。
もっとも調査の序盤では、その仕掛けの正体すら絞れていなかったが。
少なくとも、巨大な鏡板やそれを隠す空間が見当たらなかったのは事実。
失態を指摘され、無咎は薄く下唇を噛む。
「完全に見落としていました。といってもそれは、先入観による見落としです。鏡板はどこかの空間に“隠されている”と思いこんでいた。まさか“底板そのものが鏡板だった”とは考えもしませんでした」
立てていた二枚の鏡を、無咎は外側へぱたんと倒す。
鏡面は下に伏せられ、上面はざらついた、ただの金属板となった。
「もちろん、底板のすべてが鏡になっていたわけではありません。客席側の一部だけ、底板の裏側へ薄い青銅鏡を何十枚も隙間なく貼り付ける。そうすれば、表はただの木板、裏は巨大な鏡という両面仕立て(リバーシブル)の底板が完成します」
人魚の舞の要となる青銅鏡は、繊細ゆえ手入れに細心の注意を要する。
長時間水に浸けていれば、すぐに錆びてしまうからだ。
まだ客の眠る深夜に、大きな音を立ててまで函の水が抜かれていたのは、ひとえに鏡の保持のためだろう。
公演の翌朝に無咎が調べた函は、ただ水が抜かれたものではなかった。
昨夜のうちに大急ぎで鏡板を磨き、防錆をほどこした上で寝かせ、ただの底板へと戻した函だったのだ。




