第十五話 人魚の笑顔
酉时の初め(17時)。
まだ外は明るく、海天楼の賑やかさも、いつもとは趣が異なっていた。
広間にいるのは、玻璃の函を前に語らう老夫婦や、美しい内装に目を輝かせる若い娘たち。
時おり、はしゃぐ子供の声も聞こえた。
妓女たちは配膳や酌にまわるだけで、客席にはつかない。
一度自宅へ戻り着替えをすませた玄晏と無咎が、再び店をおとずれると、席はすでに用意されていた。
最前列の右端。卓の上に置かれていたのは鯪珠の木札だ。
席につくと、特別開放日限定の涼水「人魚の涙」が運ばれてきた。
珠母貝(アコヤ貝)の形をした白磁の碗。
中は、夏空のように澄んだ青い果実水で満たされており、底には丸い圓子(白玉団子)が二つ沈んでいる。
飲み口は甘く、レモンの酸味が爽やかだ。
玄晏はひどく緊張していたが、それは先月の浮ついた心持ちとはまるで違う。
いっぽうの無咎は、すべてを悟ったように落ち着いていた。
彼がすでに謎を解いたことは、その横顔を見ればわかるが、玄晏はまだ何も聞かされていない。
ただ確実なのは、今日、この玻璃の函には何の仕掛けも施されないまま水が投入されたこと。
そして満水となった函に玄晏自身も入ったが、何も見つからなかった。
そんな玻璃の函でおこなわれる今日の公演は、果たしてどうなるのだろうか。
もしや、追い詰められた鯪珠が思いあまって───そんな最悪の展開さえ、頭をよぎる。
やがて照明が落とされ、艶やかな演奏が客席を神秘の海底へと変える。
前回と同じく鯪珠が二階の回廊に立った。
小さな体に背負った凄惨な過去など微塵も感じさせない、堂々とした立ち姿だ。
彼女を見上げながら、玄晏はひとり言のように問う。
「他人を欺くことは罪悪……そう信じてきた。だが、そうしなければ生きられない者もいる。彼女らを追いつめることは、果たして正義と言えるだろうか」
客席は拍手や口笛に沸く。
娘の黄色い歓声が混じるのは、今日ならではだろう。
「白音堂の件からずっと、胸に引っ掛かっていた。罪を暴き、悪を裁いたはずが、まるで───子どもたちが作り上げた小さな箱庭を、上から踏み潰したような気分だった」
「……」
しばらく無言だった無咎は「人魚の涙」の入った碗を置き、ようやく口をひらいたが、「俺たち」と言いかけて主語を改めた。
「あんたたちが従うのは国だろう。国ってのは人を入れる器であって、善も悪もない。皇帝は天子と呼ばれるが、神や仏じゃないんだ」
函の上に立っていた鯪珠がいつもの手順で入水し、作業員によって天面へ暗幕がかけられる。
函は密室になった。
聞き覚えのある音楽が流れる。
特別開放日といえど、演目内容は前回と変わらないらしいが、玄晏は気づく余裕がない。
「だが……今日の鯪珠は懇願しているように見えた。もうやめてほしい、これ以上奪わないでほしいと」
彼女が手にしているのは、不当に稼いだ巨万の富などではない。
苦難と努力の末に掴んだ、ささやかな幸せだ。
それを証明するように、玄晏は懐から小さな真珠を取りだした。
「私は、悪意のない者を苦しめたくない。それに……かつて伯文兄さんに教えられたのだ。皇城司は国のためにある、そして国は民のためにあると。『もし目の前で苦しむ民がいたら、たとえ任務の最中でも、手を差しのべろ』と」
「……」
函を見ていた無咎の視線が、ふっと玄晏に向けられた。
心の奥を見透かすような眼差し。
しだいに冷静さを取り戻した玄晏は、顔を伏せる。
「いや……すまない。謎を解いてもいない私が、善良ぶった建前だけを並べて。私はただ、知己の首を自分の手で締めるのが嫌なだけなんだ。ずるい奴だな」
鯪珠がどんな女か知らなければ、真珠を受け取らなければ、玄晏とて彼女を迷いなく断罪できただろう。
───この葛藤は正義感ではなく、ただの独善だ……。
ひとりで自己卑下に陥る玄晏。
無咎はそんな彼を、いつものようにからかうのでも、慰めるのでもなく、ただ
「あんたは、眩しいな」
とつぶやき、再び函を眺める。
背面から照明が伸び、青い水中を照らす。
檻の中の人魚はきらめく泡をまとっていた。
「なぜそこまでして虚構を暴くのか。偽りで得た幸せは、しょせんは偽りだからだ。真実から目をそらすのは、状況によっては賢い手段だが、続けていては本物を得る機会を永遠に失う」
それは説き伏せるのではなく、まるで自分自身に言い聞かせるような響きをもっていた。
その時───
「あっ!」
客席から、婦人の声が上がった。
すぐに周囲の客も、異変に気付きはじめる。
いつの間にか、三つ四つほどの小さな男児が、客席を飛びだし前方へ駆け出していたのだ。
おぼつかない足取りながらも、迷いのない速さの子どもは、楽床を越えて、ついに玻璃の函の前へたどり着いた。
そしてガラスに手をついて石台座によじ登る。
函の中を嬉しそうに覗き込むと、鯪珠に向かって大きく手をふった。
「にんぎょさん!にんぎょさん!」
必死に自分を主張し、はしゃぐ男児。
楽床にいた楽師たちは戸惑いながらも、演奏の手を止められずにいた。
函の中では鯪珠が男児に気づくと、岩陰から魚のように飛び出した。
目はほとんど見えないはずだが、ガラス越しの小さな人影くらいはわかるのだろう。
ガラスの前まで来ると、彼女自身も子どもに手をふってこたえる。
まるで旧友でも見つけたような、無邪気な笑顔で。
意外な反応に、玄晏は息を呑んだ。
「鯪珠も、あんな顔で笑うのだな」
それと同時に、彼女の笑顔は「今夜の公演は大丈夫」だという安心感も与えた。
やがて、子の母親らしき女が慌てた様子で前方まで駆けてきた。
それに気づいた男児は、逃げるようにして函の右脇へ走り、裏側へ回るものの、すぐに捕まったようだ。
左側から出てきた頃にはもう母に抱きかかえられていた。
母は函の左脇で申し訳なさそうに、客席と鯪珠へ向かって頭を下げた後、客席へ戻る。
鯪珠は名残惜しそうに男児へ手をふり続け、それから岩陰へ向かって泳いだ。
「あんな乱入を許すとは、親方は何をやってるんだ?」と、無咎。
「たしかに、こんな時はすぐ飛んできそうなものだが……」
函に近づくものがあれば、誰であろうと許さないのが函の番人たる親方だ。
玄晏が広間を見回すと、函の右側、柱の横にもうけられた簡易席に梁の巨体を見つけた。
彼は椅子にかけたまま、背中を柱にあずけて目を閉じている。
頭を前後に揺らし、どうやら居眠りをしているようだ。
気づけば他の作業員たちも、皆ぐったりしている。
「今朝は早くから働きづめで、皆疲れているようだな」
「ああ。……そうだな」
無咎は梁をじっと見つめ、また函へと視線を移す。
鯪珠は尾ひれをなびかせながら、生き生きと泳いでいる。
その後、つつがなく演舞は終了した。
子どもの乱入という事件はあったものの、観客たちは二刻の間、人魚の魅せる幻夢に酔い続けた。
函の暗幕は取り払われ、いま鯪珠はずぶ濡れで天面に立っている。
結局、あの函には何が仕掛けられていたのか。
玄晏には最後までわからなかった。
二本足で立つ人魚の眼差しは、無事やりきったという安心感に満ちながらも、どこか終幕を見通すように冷めていた。




