第十四話 真珠の涙
午時(11時)の鐘を耳にしながら、ふたりは鯪珠とともに店裏へ回った。
少し離れた船溜まりには、船遊びに興じるための華やかな遊覧船や、運搬用の小型船などが停まっている。
竜骨車のかかった大きな水船を横目に、三人は屋根付きの地味な小舟に乗り込み、運河をすすむ。
河辺をながめる鯪珠の横顔は、そこが混沌とした昼の運河でも、爽やかな風吹く海辺であるかのように涼しげだった。
やがて到着したのは、水路を二、三筋隔てた料理屋だ。
水辺の個室があり、営業は昼のみ。
花街でも高級な女だけが忍びで通うような、上品な店だった。
「以前、素性を語るつもりはないと言ったけれど、気が変わったの。食べながらで結構よ、今日はわたくしの昔話を聞いてくれるかしら」
円卓が料理に埋めつくされた頃、鯪珠がようやく口を開いた。
「ぜひ、聞かせてください」
どこか覚悟を決めたような鯪珠に、無咎も真摯さをもってうなずく。
その隣で玄晏はさっそく箸と茶碗を手にした。
鯪珠という女がどこで生まれ、どう育ったのか────。
人魚の正体を知るためには、あの巨大な函と同様に、重要な意味を持っている。
「わたくしは海で生まれたの」
「海で?」と聞き返したのは玄晏だ。
「蜑と呼ばれる民をご存知かしら」
玄晏は首をかしげたが、無咎には覚えがある。
「ああ。南方の漁村の民で、家を持たず船の上で生活するとか」
「ええそう。わたくしは海に浮かぶ船で産声を上げて、走るよりも先に泳ぎを覚えた。子どもの頃の遊びといったら素潜りね。どちらが長く潜れるか、よく競ったものよ」
昔から泳ぎに長けていたというのは、その生い立ちが関係しているのだろう。
「故郷は真珠の産地でね。朝廷に献上する真珠の採取が生業だった」
「へえ。それはすごい」
六月黄(旬前の若い蟹)を殻ごとバリバリ食べていた玄晏が、思わず感嘆の声を上げた。
鯪珠は細い眉尻を下げ、困ったようにほほえむ。
「でも、しょせんは最下層の賤民。暮らしは貧しかったわ。幼い頃は自覚がなかったけれど、ほとんど奴隷のようなものよ」
真珠の採取作業は、想像以上に過酷をきわめる。
採珠人は体に重い石と命綱を縛りつけ、一気に深い海底まで沈む。
苦しくなっても、自分の意思では浮き上がれない。
船上の人間が時を見はからって、綱を引き上げるのだ。
高い潜水技術を要するとともに、命を削るような苦役であった。
「毎年、父の仲間が何人も溺死するか、重い障害を負っていた。冬は海中で凍死する人もいたし、鮫に体の半分を食われてしまった採珠人もいたわ。父は運よく生き延びたけれど、無理がたたって、わたくしが十歳の頃には身体がほとんど動かなくなった。それで生活が立ちゆかなくなって、わたくしが十二歳になった頃、都へ売られることになった。値段は真珠の半額だったわ」
「……」
花街に、幸福な女などいない。
悲惨な過去はつきものだとわかっていても、無咎と玄晏は重い気持ちで静かに聞き入った。
鯪珠は、白米の入った青磁の茶碗を持ち上げて続ける。
「米を初めて食べた時は、あまりに美味しくて驚いたものよ。それが今では絹の衣を着せてもらって、風呂にも入れて、陸を自由に歩けるなんて夢のようだわ」
鯪珠にとって、故郷から遠く離れた妓楼での暮らしは、けして苦役ではなかったらしい。
「でも、最初からうまくいっていたわけじゃないの。わたくしは美人ではないし、玳瑁姐さんのような愛嬌もない。船上暮らしで友もほとんどいなかったから、人と話すのは苦手。お客がつかなくて、店への借金は膨らむばかり。このままだと店を追い出されかねない、というところまできた時に、唯一の特技、素潜りのことを思い出したの」
やがて鯪珠が客席で始めたのは「水を張った桶に顔をつけて、どれだけ続くか見せる」という捨て身の曲芸だった。
「そうやって、少しずつ小銭を稼いだわ。特に、酔ったお客とどちらが長く息を止められるか対決するのが、いちばん儲かったわね。もちろん他の女たちには下品だと睨まれて、いじめられたりしたけれど、別に気にならなかった」
器量は悪いが芸達者な女。
鯪珠にそんな評判がついた頃、運命の出会いがあった。
「旦那さまは静かで高貴な雰囲気の方だったけれど、わたくしの芸を面白がってくれて、何度も席に呼ばれたわ。深い仲になった頃に素性を話したら『お前が真珠のように美しく、輝ける場所をつくってやろう』と言われたの」
巨大水槽を使った人魚の舞は、すべてその『旦那さま』と呼ばれる上客の案だった。
「店の名もね、もとは『海天楼』ではなかったのよ。人魚の舞に合わせて内装を一新させたついでに改名した。函に使う水の運搬もすべて旦那さまの手回しよ。わたくしのために、ただの運河沿いの妓楼を、美しい海へ生まれ変わらせてくれたの」
明かされた海天楼の秘密。
玻璃の函だけでなく、あの海天楼という店そのものが、鯪珠のために造られた巨大な函であったのだ。
「だからわたくしは、その場所にふさわしい“人魚”になるため必死に努力したわ。踊りを磨き、身体を鍛え、毎日水に潜って己の限界値を引き上げた。今のわたくしなら、どの採珠人よりも長く潜る自信がある」
鯪珠はおもむろに腕を前に伸ばし、手のひらを無咎たちに見せる。
それから、指の腹で自分の目元をひと撫でして、再び手のひらを上に返す。
一粒の小さな真珠が、細い指に挟まれていた。
鯪珠にまつわるもう一つの噂、『真珠の涙』である。
鯪珠はその手でもう一度顔を撫でる。すると真珠は二粒に増えていた。
「差し上げるわ」
そのまま腕を伸ばし、無咎と玄晏の手のひらに一粒ずつのせる。
「ただの戯法よ。ふだんは褥の上でしか披露しないのだけれど、今日は特別に」
ふたりは手のひらで光る真珠を見つめ、ぽかんと口を開けた。
*
中天をすぎた陽が、わずかに西へ傾きはじめたころ。
鯪珠は、料理屋の船着き場から一人で小舟に乗り込んだ。
「昼餉にしては、長居してしまったわね」
桟橋で彼女を見送る無咎が言う。
「早く戻らないと、開店に間に合わないのでは?」
「大丈夫よ。わたくしは『人魚の舞』に間に合えばいいから」
船と桟橋を繋ぐ麻縄が水夫によって外されたとき、玄晏が耐えかねたように一歩踏み出た。
その手には一粒の真珠が握りしめられている。
「鯪珠どの。貴女は……どうしてこんなに良くしてくださるのか?お察しのとおり、我々の正体は商人ではない。それどころか、あなたの───」
船内で腰をおろす鯪珠は、柔らかな眼差しで玄晏を見上げ、その隣の無咎へ視線を移すと、悲しげにほほえんだ。
「だって、今日が最後かもしれないでしょう?」
無咎は何も答えなかった。
やがて鯪珠を乗せた小舟はゆっくりと動き出し、水面を滑るようにして運河の奥へとすすむ。
楼閣建ち並ぶ花街の巨大な影へ、小舟は吸い込まれていった。




