第十三話 飛込
水深は六尺三寸(2メートル)。両足はあっという間に底へ到達する。
まず無咎を襲ったのは、肌を刺すような水の冷たさだった。
しかし、震え上がっている暇はない。
無咎は人魚ではなく、水中では数十を数える間しかもたないのだ。
目を開ける。認識できるのは泡と色と、物の輪郭だけ。
視界は当てにならない。
まずは後方の大岩まで移動し、念のため裏に何もないことを手探りで確認。
それから底を蹴って、前方のガラス面へ移動した。
隅で片膝を折って、底へ手を伸ばす。両手を使って砂利を大きくかき分けた。
あらわれたのは灰青色の底板。
顔を近づけると、袖の石に引かれて肩が沈み、代わりに両脚が背後へ浮き上がる。
底板の端が黒いのは、漆が塗られているからだ。
黒漆のつややかな感触を指でたどると、ある部分で隙間に爪が入り込む。
────ここか……。
ただの予想が、形をもって現れた。
しかし、さすがに息が苦しくなってくる。
一度浮上するか?
いや、もう少しいける。次はこの板の周辺の、砂利止めを探ろう。
そう思ったとき───頭上が少し陰ったのに気づく。
次に、ドンと重い音とともに水面が裂けた。
大粒の白い泡が、水底からわき出たように広がる。
───何だ!?
無咎の体は重い水圧によって、壁際へと押しやられた。
上から何かが落ちてきたのだ。
それは無咎よりも巨大で重い───人間だ。
───この服は……玄晏……?
玄晏らしき人間は、底に到達すると水中で膝を曲げて姿勢を低くし、周囲を見回している。
逆立った髪がゆらめき、全身が獣のように殺気立っている。
無咎に気づくと、玄晏は立ったまま力強く底を蹴り、水をかき分けながら近づいてくる。
───おい、何であんたまで落ちてるんだ?
伝える術もなく、大きな手がまっすぐ伸び、無咎の帯を鷲掴んだ。
背を巨大な力で圧されるように、無咎の体は引き寄せられ、あっという間に小脇に抱えられてしまった。
無咎は身をよじるも、締め付けは一切の抵抗をゆるさない。
冷えた体に触れた脇腹が、燃えるように熱かった。
仕方なく、無咎は玄晏とともに浮上した。
水面から顔を出すと、無咎はすぐに大口を開けて息を吸う。水を飲んだせいで咳も込み上げてくる。
ゲホゲホ、はあはあと肩を上下させながら、頭上の木枠を掴んで体を支えた。
目の前の玄晏も同じように浮いていた。
濡れた髪が頬に貼り付き、顎から滴を落としている。
無咎は頭上を見上げる。
騒ぎを聞きつけた妓女や下男たちが、回廊からこちらを見下ろしていた。
「あんたまさか……二階から飛び込んだのか?」
演舞の際、鯪珠は回廊からいったん函の上に降り、そこからゆっくりと入水した。
しかし玄晏はその手順を踏まず、二階の欄干から直接、入水用の格子穴めがけて飛び込んだのだ。
その拍子に木枠で擦ったのだろう。玄晏の絹衣は肩の部分が破れていた。
あまりの豪快さに、無咎は乾いた笑いを漏らす。
「はは。さすがの身体能力だな……」
しかし、玄晏は、苦悶の表情をくずさない。
「無咎どの。俺は……あんたのことを、何も知らない」
肩で大きく息をしながら、水面を見つめ、いつもと違う口調で言った。
「もの知りで勘が鋭く、ときに無鉄砲で、よく転ぶことくらいは知ってる。だが、水に落ちたとき、泳げるかどうかわからない」
その声は、苦しげで重い。
「陛下に言われた。陶無咎は気まぐれな猫だ。だから縛らず口も出さず、好きに泳がせろと。それに俺の能力はあんたの足元にも及ばず、相棒と呼ばれる資格もない。でも……」
玄晏は顔を上げた。
大きな目が赤く充血し、瞳は怯えるようにゆれている。
「でも、こういうことは、もうやめてくれ。もう、二度と……」
弱々しく震える声に、彼がかつて、相棒を目の前で失ったことを無咎は思い出した。
「……悪かった。あんたには、ひと言告げておくべきだったな」
無咎とて言い訳は山ほどあるが、今かけるべき言葉は一つもなかった。
「───ちょっとあんたたち!大丈夫かい?早く上がんなよ!」
二階から叫ぶ玳瑁の大声が広間に響き渡り、ようやくふたりは水から上がる。
濡れた衣服の重さで難儀する無咎の腕を、玄晏は無言で引っ張り上げた。
広間へ降りると、周囲の床を大量の水が濡らしていた。
玄晏の飛び込みによるものだろうが、無咎が謝罪する。
「申し訳ありません。皆さんのお手を煩わせたうえに、大事な水を無駄にしてしまった。公演に支障はありませんか?」
鯪珠が近づいて、心配そうに言った。
「かまわないわ。さほど水は減っていないし、足りなければあとで補充しておくから」
そして受水桶のある揚水部屋を見上げる。
「それよりふたりとも、早く着替えた方がいいわ。わたくしの部屋にいらっしゃい」
案内された鯪珠の部屋は、三階の最奥にあった。
朱塗りの扉は豪勢な観音開きで、上部は透かし格子、下部は人魚が両扉に描かれ、大きな真珠を抱いていた。
特別な部屋であることがひと目でわかる。
中もさぞ広大かと思いきや、扉の向こうの空間は玳瑁の部屋の二、三割増しほどか。
それでも内装は赤や金を基調として、真珠をおしげもなく飾る。さながら海の女王の御所だ。
窓からは裏手の運河が見わたせ、先ほどの水船の様子もうかがえた。
無咎らは濡れた衣服を下女に預け、用意された衣類に袖をとおす。
鯪珠の部屋に入るという幸運に恵まれたものの、玄晏は終始かたい表情で口を閉ざしており、部屋に流れる空気は重い。
「体が冷えたでしょう?生姜湯よ」
水の冷たさを知っている鯪珠ならではの気遣いだった。
無咎は碗を受け取ると、本音で恐縮する。
「すみません。6月であれだけ冷たいのだから、冬場はさぞこたえるでしょう」
「そうね。冬は酒で無理やり体を温めてから入ることもあるわ。……でも、冬の海よりはマシよ」
「冬の、海……?」
その意味を無咎が問おうとしたとき
───ぐ、ぐぐぎゅるる~
静かな部屋に、腹の音が二重に響き渡る。
自分の空腹よりも、朝食を食べそこねた相棒のことを無咎は思った。
すると、かちりと目が合う。
「……」
互いに言葉は交わさず、ただじんわりと空気がほどけていくのが分かった。
そばに立っていた鯪珠が「もうすぐ昼ね」とつぶやく。
「これから馴染みの料理屋へ行くのだけど、よければあなたたちもどう?そこなら、ゆっくり話せそうだわ」




