第十二話 落下【挿絵】
6月5日。
無咎らは辰時二刻(朝7時半)ごろ海天楼へ到着した。
早くから大勢の作業員が広間に集まり、函を囲んでいる。
彼らの中心にいるのは、先月、ふたりと乱闘騒ぎになりかけた梁親方だ。
「申時(15時)には開店だ!いつもと同じ気で、もたもたするんじゃねぇぞ!」
すでに太い革管が二階から伸び、函の天面から内部へ垂らされていた。
玄晏がガラス面、無咎が天面から函内部をざっと確認し終えると、すぐに給水が開始した。
革管の蛇腹が膨らみ、そこを唸るように流れ落ちた水が、底に激しく打ち付けられ白い泡を立てている。
「おい。あんたたち」
梁親方が声をかけてきた。
「水が貯まるまで五刻(75分)はある。ずっとそこに突っ立ってるつもりか?」
梁はそう言ってくるりと背を向けると、腰の道具をじゃらじゃらと鳴らしながらどこかへ歩いていく。
どうやら、彼らをどこかへ案内したいらしい。
少し疑念を抱きつつ、函の上にいた無咎が一人でいくことにした。
「気をつけろよ」と不安げな眼差しの玄晏を広間に残し、無咎は梁を追う。
やがてたどり着いたのは、海天楼の裏手だった。
「見てみろ。これがうちの要だ!」
豪華絢爛な三層楼。
そばを流れる運河には、大きな水船(清水を積んだ漕船)が停泊している。
船には全部で八つの水槽があり、立て掛けられた二基の巨大な竜骨車では、数人の男たちが踏み台を使って滑車を回している。
「これは、大変な作業ですね……」
無咎が感嘆をもらすと、梁は腕をくんで誇らしげに言った。
「函があるのは一階だが、そこへ給水するには一度、高い位置へ水を揚げなきゃならねえ。この作業がいちばん骨が折れるんだ」
竜骨車へ近づくと、ガラガラという木の軋み、バシャバシャという水音、そして男たちの荒い呼吸が聞こえる。
彼らの動きに合わせて木製の車軸が回転し、樋の中に連なった無数の四角い木板によって、水が坂をのぼり、二階の受水桶へ運ばれていく。
その様子を眺めながら、無咎は梁へ問う。
「たしか、この船は昨日からここに停泊しているとか。昨日のうちに水を二階へ貯めておけばよいのでは?」
そうすれば、こんなに朝早くから急いで滑車を回す必要もないのに。
という無咎の素朴な疑問を、梁はハッと笑い飛ばす。
「んなことしてみろ。二階の床が抜けて店はめちゃくちゃだ。玻璃の函に使う水は六万五千斤(約40トン)もあるが、上の受水桶に入るのはその一割にも満たん。こうして当日の朝に必死こいて回すしかねえんだ」
つまり二階の受水桶は基本的に、水を船から函へ移すための中継点にすぎないようだ。
「なるほど。難しいものですねぇ」
無咎は目を丸めて大きくうなずきながら、『無知なふりをするのも疲れるな』と内心つぶやいた。
梁は横暴な悪人ではなく、ほんとうにただの職人バカのようだ。
誰よりも函を愛し、自慢したくてたまらないのだろう。
「ところであの船には、何公演分の水が積まれているのですか?」
平底の水船は、一見すると低く浅く見えるが、実は中に積んだ水の重みで船体の半分以上が川に沈んでいるにすぎない。
「二公演分だ。船は毎月4日にここへ着いて、5日に一回目の給水をする。それから二回目の給水を終えたらようやくここを離れて、上流の停泊所へ向かう。それでまた次の公演前に、ここへ水を運んでくるのさ」
二回目の公演は20日。
つまりあの水船は、毎月4日から20日までここに停泊し続けているのだろう。
往来の激しい運河に、あの大きな水船を停め続けられるのは、この海天楼の並々ならぬ権勢の証にほかならない。
その後、無咎は親方とともに二階へ上がり、受水桶のある揚水部屋を見学した。
まるで酒造りの大桶のように巨大な受水桶。
その下部からは、直径五寸(15センチ)ほどの黒い革管が回廊へと伸びている。
「函の一割にも満たないそうですが、それでもけっこう貯まりそうですね」
「まあな。公演前に水が足りなかった時は、ここから補充しなきゃならん」
そして公演後、この桶に余った水は掃除などの雑務に使われるという。
「なるほど。たった二刻の公演のために、裏では実に多くの機構が動いている。それでも一切の無駄や混乱が生じないのは、こうしてしっかりと秩序立てているからなのですね」
「そのとおりだ!」と親方は豪快に笑う。
言葉の半分も理解できなかったが、褒められている気配だけは察した。という反応だった。
そうして、部屋の中でさんざん自慢話を聞かされたあと、無咎は広間へ戻る。
函の前では、玄晏が仁王立ちしていた。
両腕を組み、作業員ひとりひとりへ目を光らせる姿は、まるでさっきの親方だ。
「例のものは調べられたか?」
玄晏はふりかえると、少し肩を落とした。
「ああ。公演中にかけられる暗幕はふつうの布だったし、天面の格子はどうやっても外せるような構造ではなかった」
「何もないことを確認したかっただけだ。小さな可能性を一つずつ潰していくことで、最後に残った一つが真実になる」
だがその真実を、無咎はまだこの目で確認できていない。
「───給水おわりい!」
函の天面で革管を抱えていた若い作業員が叫ぶ。
ふたりはガラス越しに函の中を確認した。
「入れたばかりだと見にくいな」と無咎。
水中には細かい泡、渦の名残があり、水流の揺れに合わせて海藻がゆらゆらと踊っている。
「ああ。そうだ……」
───ぎゅる、ぎゅるぎゅる……
返事よりも大きな音が、玄晏の腹から発せられた。
「……」
顔を赤らめる玄晏に、無咎は笑った。
「まだ先は長い。何か食ってこい」
「すぐ戻る」と言って駆け出す玄晏。
だがその足はなぜか、外に繋がる出口ではなく、二階へ続く階段のほうへ向かっている。
「じつは先刻、玳瑁どのに会ったのだ。朝食を買いに出るついでに我々の分も買ってくると言ってくれた。貴殿もあとで部屋に来るといい」
一つ飛ばしで颯爽と階段をのぼる玄晏を横目に、無咎はふんと鼻をならした。
───ずいぶんと好かれたものだな。
たくましい体躯に、丸目のはっきりとした顔立ち、そして素直で純朴な性格。
いかにも年上に可愛がられる忠犬だ。
くすぶる胸の内を抱えながら、無咎は梯子をのぼって天面へと移動した。
足場に立ち、水中を見下ろす。
水面はまだ波打っており、白い泡が漂っているものの、彼が想定する「仕掛け」がどこにも存在しないことを確認するには十分だった。
しゃがみこんで、函の縁と水面を観察する。
竹尺で水の高さを測ると、以前作業員が言ったように、函のてっぺんから七寸(約21センチ)ほど下だ。
「……」
水位だけではない。入れられた水の量も、いつもとほぼ同じだと推測できる。
なぜなら作業員は給水中、函の水位を気にしていなかった。
給水完了の基準は函側ではない。
おそらく「外の水船が半分空になった時点」で、竜骨車を止める。
それが最も効率的な、給水完了の合図なのだろう。
では、やはり───
無咎は覚悟を決めた。
呼吸を落ち着かせ、左右の懐に手を入れる。
あるのは、先ほど裏手で拾った大きな石。
いつも羽織っている赤い大袖衫と、白い扇は家に置いてきた。
「うわあっ!」
いきなり大声で叫ぶと、ぐらりと大きく体を揺らす無咎。
バランスをとるため、前方に左足をつこうと踏み出すが、そこに足場はない。
───バッシャン!!
調査に熱中するあまり、足を踏み外して落下───そんなうっかり者をよそおい、水中へ潜った。




