第十一話 底知れぬ女
調査を終え梯子を降りたふたりを、鯪珠がひとり待ちかまえていた。
「これで満足したかしら、“ただの商人”さん?」
無咎は「はい」とも「いいえ」とも言わない。ただ、拱手し礼をのべた。
「貴重なお時間をいただき、本当にありがとうございました」
そして顔を上げた瞬間、商人の仮面が剥がれ落ちる。
「ところで人魚の舞は、毎月5日と20日に行われるそうですね。次の公演は十四日後、6月の5日だ」
鯪珠も彼の変化を察知したのか。
涼やかな瞳がわずかに見開かれた。
「……ええ。その日はちょうど、特別開放日ね。また観にきてくださるの?」
「もちろんです。それで……重ね重ねの無礼を承知で申します。その日、もう一度この函を見せてくれませんか」
「……どうして?今、あんなに隅々まで見ていたじゃない」
「やはり水の入った状態を、間近で見たいと思いまして。公演中の客席からは、函と距離がありますし、天面は暗幕で隠されてしまう。たとえば水を入れた函を上から覗くと、いったいどのような景色が映るのでしょう?」
「……」
鯪珠は言葉を失った。
もしも無咎の予想通り、公演中の函に巨大な仕掛けがあるのだとしたら、その設置は間違いなく給水前に行われる。
そして一度函を満水にしてしまえば、一時的に取り外したり、隠したりすることは容易ではない。
逆に、仕掛けなしに水を入れてしまえば、後からそれを設置すること自体が難しく、その日の公演は失敗する。
「あなた……ほんとうに変わったかたね。これまでたくさんの人が函を探ろうとしたけれど、あなたほどしつこい人は初めてだわ」
しぼり出すような声の鯪珠。
人魚の秘密と、公演の成功───どちらを守るべきか。
身を切るような選択を、無咎は目の前の女へ容赦なく迫っているのだ。
「公演の前でも、後でもかまいません。それで私からのお願いは、最後にします。もう二度と無理は申しませんし、この店にも近づきません」
無理なお願いと前置きするにしても、あまりにも大胆で、不躾だ。
もちろん、断る権利は大いにある。
しかし次に鯪珠から発せられた言葉は、彼らの度肝を抜くようなものだった。
「仕方ないわね……。じゃあ6月5日の朝にいらしてちょうだい」
「朝、ですか?」
「ええ。どうせなら最初から、つまり空の函に水を溜めるところから、見学してはどうかしら」
鯪珠の提案はこうだ。
まず、今日と同じく空の状態の函を確認する。
それから、無咎の目の前で給水をおこなう。
函に水が溜まっていくさま、そして水で満たされた函、その全てを、好きな場所から、何刻でも見てもらってかまわないという。
「特別開放日の公演は、ふだん花街に来ない方たちにも見てもらえるよう、夕刻開演なの。そのぶん開店も早いから、函は朝から準備する。外の船から水を二階へ揚げて、そこから革管を使って給水するのだけど、けっこう見応えがあるのよ」
この窮地に鯪珠はひるむどころか、顔に余裕の笑みさえ浮かべている。
「それは……願ってもないことです」
無咎は固く拱手し、また深々と頭を下げた。
差し出されたのは、彼らにとって申し分のない好条件である。
それと同時に、偽りの人魚からの挑戦状でもあった。
彼女の底知れぬ自信は、いったいどこから出てくるのだろうか。
*
海天楼を出ると、昼の光と、運河からの泥臭い風がふたりの顔を撫でる。
通りに並ぶ楼閣の上階には、赤や紫の衣、巨大な絹布団が干し連ねられ、両わきの屋台では、気怠げな女たちが集まって汁物をすすっている。
「私は思うのだが……鯪珠は何も知らないのではないか?」
玄晏は歩きながら本音をこぼす。
「あの女からは、何かを隠そうとする気配が、微塵も感じられない。逆に親方のほうはあんなに函へ執着して、仕掛けを隠そうと必死だ」
昼夜を問わず函に目を光らせ、暴こうとする者へ殴りかからんばかりの警戒ぶりは、いささか度を超している。
隣を歩く無咎は、開いた扇を額にかざし、眩しそうに目を細めた。
「函の管理者である以上、親方はすべて知っているだろうな。だがあの反応は職人気質なだけだ。あれだけ大がかりな上に、はかり知れん値打ちの代物を任されてる。維持するだけでも骨が折れるし、部外者にいじくり回されたら誰だって怒るだろう」
さんざんいじくり回した挙げ句、親方の逆鱗に触れた張本人とは思えない言いぐさだった。
「ただ……いかさまの首謀者が何も知らないというのも、ない話じゃない」
たとえば白音堂のようなインチキ宗教の中には、騙す側の教祖が何も知らされていなかった事例も少なくないという。
「教祖は、自分に本当に神力があると思い込んでいるが、実はすべて裏で幹部が操っていた例だ。教祖自身は嘘をついていないから、信者への信憑性も増す」
「なるほど。あえて首謀者が無知なほうが、騙しやすいこともあるのだな」
「ああ。あの白音堂がすごいのは、教祖を含めた幹部のほとんどが手練れの役者で、その必要すらなかったことだ」
ただ、今回の件は例外だと無咎は釘を刺す。
「鯪珠は新興宗教の教祖みたく、ただ座ってるわけじゃない。自ら仕掛けを使って呼吸しなければならないし、失敗すれば命に関わる。無知なまま『人魚の舞』は成立しない」
「では、鯪珠も嘘を……?」
玄晏の頭をよぎったのは、鯪珠が唯一自身について言及した時の凛とした、崇高な光を宿した眼差しだった。
『あの函のおかげで、わたくしは本物の人魚になれたということよ』
嘘をついているようには見えなかったが、あれは単に「函の仕掛け」のことを言っていたのか?
その一方で、彼女はその内に深く暗い秘密を抱えているようだ。
でなければ、真夜中にたった一人、裸で深淵を見つめるような真似はしないだろう。
無咎は扇を閉じ、すれ違う女たちを横目に言った。
「妓女は役者じゃない。だが、それに近い人種なのは間違いない」




