第十話 函調査その3
「最後は床下だ。どこまで見られるかが問題だ、が……っと、」
床に足をとられ、前へつんのめった無咎。
その肩を、玄晏がとっさに支えた。
函の底は、砂利止めのための低い木枠が飛び出しており、玄晏も何度か転びそうになった。
「まずは排水口を覗こう」
底の排水口は、直径二寸(6センチ)ほどのものが四つ。
無咎はその一つの網を外して針金を差し入れた。
棒はすぐ下の浅い桝に当たる。
排水口の内部を火で照らしてみたが、細い水路が伸びているだけだった。
「何もなさそうだな」
玄晏が半ば諦め気味にこぼすが、無咎の表情はまだ探求心に満ちている。
「いやまだだ。もう一度、函の外へ出るぞ」
次に無咎が目をつけたのは、函の下に敷かれた巨大な石台座。
石台座の側面には、排水溝に溜まった海藻などのゴミを取り除くための小窓がある。
玄晏がその小窓を開けたが、見えたのは砂と藻の溜まった浅い受け桝と、運河へ向かう狭い排水溝だけだった。
「無咎どの。なぜそこまで床下にこだわる?」
玄晏は思わず疑問を投げた。
たしかに、床下はどの角度からも死角になる。
だが、水で満たされた函の底は、巨大な水圧に押され、自由がきかない。
「貴殿がどんな仕掛けを探しているかは分からない。だがたとえば、空気を吸うための管や袋を隠すなら、岩の方が楽ではないか?」
率直な疑問をぶつける玄晏に、無咎は函の上部を指差しながら言った。
「その可能性は消えた。今、俺が想定する仕掛けは、岩に隠せるほど小さくない。おそらく上からの搬入も不可能だ」
函の上をふさぐ格子枠。
飛び込み用の大きな穴は横三尺(90センチ)、奥行四尺(120センチ)近くあった。
その穴さえ通れないほどの仕掛けが、この函の中に?
「しかし……」
「そろそろ終わったかしら?」
退屈そうな鯪珠の声が、会話を遮断した。
彼女が体よく追い払おうとしていることは明らかだが、無咎はまだ函の中を見つめている。
そしてあろうことか、さらに厚かましい要求を突きつけた。
「あの。函の下の防水層も確認したいのですが、ためしに底板を剥がしてもらえませんか?」
「……え?」
予想だにしなかった要求に、戸惑う鯪珠の背後から、梁親方の怒号が飛んできた。
「なに言ってんだ!あそこはただの床じゃねえ!大量の水を受け止める底板が、そう簡単に剥がせるわけねえだろう!」
底板は一寸のすき間もないよう漆で固めてある。
もし無理やり剥がせば板自体が割れてしまい、修復がいかに骨が折れるかは素人でも想像できる。
「あんたたち、やっぱり函を壊してうちを潰すつもりだな!?」
親方は怒りの形相を浮かべ、ずかずかと大きな歩幅でこちらへ歩み寄る。
「これ以上は作業の邪魔だ!さっさと出ていけ!」
これまで溜まっていた鬱憤が爆発したように、無咎の襟元をつかむ。
無咎の袖から、閉じた白い扇が床へこぼれ落ちた。
当人は涼しい顔をしていたが、胸元が大きく開き、つま先がわずかに床から浮いている。
「おいやめろ!!」
とっさに駆けよった玄晏が、梁の手を無咎から引き剥がす。
無咎の両足は床に着地した。
「無理強いしたわけでもないのに、なぜ暴力を受けねばならん!それに、約束の時刻は過ぎていないぞ!」
暴力というほどでもなかったが、なぜか玄晏は腹の底から怒りがわき、冷静でいられない。
いっそ皇城司の佩玉を目の前に突きつけ、この野蛮な大男を捕らえてしまおうかとさえ思った。
「何だと!客だと思って下手に出てりゃあ図に乗りやがって!くそガキども!」
梁は腰から下げる数多の道具から、木槌に手をかけた。
皇帝の命のもと都を守るのが皇城司だが、相手がもし凶器を振り回すつもりなら、玄晏も容赦はしない。
自ら拳を握り、相手に殴りかかろうと身構えたとき
「ねえ親方。待ってちょうだい」
そばで見ていた鯪珠が、梁の背中に手を置いた。
思わず木槌から手を離す梁。
続けて鯪珠は、函のほうを指さして言った。
「さっきから気になっていたのだけれど……ほら、正面奥の、少し右寄りのところ。玉砂利が盛り上がって見えるでしょう?もしかして底板が浮いているのかも」
「ああ!?あ……たしかに……ちょいと様子が違うな」
ガラスの向こうへ視線をやったとたん、冷静な職人の顔へ戻り、目をこらす梁。
玄晏らも同様に確認したが、砂利に隠れてよくわからなかった。
日頃から函を見慣れている鯪珠らにしか気づけない、微細な異変なのだろう。
「早く見た方がいいわ。それに、もし剥がれていたのなら、下を見せてあげてもいいんじゃないかしら」
すぐに確認すべく、梯子をのぼりはじめた梁だが、なぜか無咎も勝手に彼のあとをついていく。
何て懲りない奴だと呆れながら、玄晏も後を追おうと思ったが、さすがに男三人で入るには狭すぎるため、ガラス越しに見守る。
「ここだな」
梁が太い指で砂利をかき分けると、青灰色の底板が現れる。
たしかに小さな板が一枚だけ、壁に向かって斜めに浮き上がっており、上から押すとブカブカと跳ねた。
「これは……板が割れちまってる。一度剥がして、新しいのと交換したほうがいい」
梁の手によって底板が剥がされる。
縦一尺(30センチ)横二尺(60センチ)、厚みは四寸(13センチ)くらい。
しっかりと厚みはあるが、横に大きく亀裂が入っている。
端には接着用の黒い漆が塗られ、裏面はさらなる防水のため、全面が漆で塗り固められていた。
「見るなら勝手にしろ。ただし、絶対に傷つけるなよ」
剥がした床板を、まるで赤子でも抱くように持った梁は、そう言い残しただけでさっさと梯子をのぼる。
もはや無咎のことなど眼中になく、一刻も早く函の修繕に入りたいようだ。
「……とんだ職人バカだな」
玄晏がつぶやくと、ガラスの向こうの無咎も同じような口の動きをしていた。
そして、すぐに気を取り直し床にしゃがみこむ。
玄晏は梁と入れ替わるようにして函へ降り立った。
剥がされた底板の下には、麻布を貼り込めた黒い防水層が見えた。
そこは漆と石灰を練り合わせて固めたものらしく、継ぎ目もなく叩いてもびくともしない。
無咎は、底板と防水層の間のわずかなすき間を覗きこみ、針金を差し込んだ。
「どうだ?何かあるか?」と玄晏。
しばらくして顔を上げた無咎の頬は、黒く汚れていた。
「床下の隙間は均一で、かなり狭い。何かを隠すのは不可能だな」
「そうか……」
これで、最後の希望が消えた。
それでも、無咎の瞳はまだ鈍い光を宿している。
その見下ろす先には、板を剥がされぽっかりと空いた四角い空間があった。




