第八話 函調査その1【挿絵】
運河に面した扉や窓がすべて開け放たれ、爽やかな風が海天楼を吹き抜ける。
昨夜、広間を満たしていた妖光や甘い香気はない。
朝の白い陽光は、広間に沈む珊瑚や貝たちが、しょせんは張りぼてであることを残酷に照らし出していた。
鯪珠に呼ばれ、一階広間までやってきた玄晏らを待ち受けていたのは、「梁親方」と呼ばれる大男だった。
梁は筋肉と脂肪をたくわえた立派な体躯で、耳下から口回りにかけてが固そうな髭で覆われている。
そして腰からは竹尺や麻縄、小さな木槌などを下げていた。
昨夜、函の近くでふたりを追い払った男で間違いないだろう。
「また来たのか」
そう吐き捨てられ、やはり昨夜顔を見られていたのかと玄晏は焦ったが、真意は違ったようだ。
「これで四度目だぞ。あんたらはどこの店の回しもんだ?」と、梁はふたりの男をぎろりと見やる。
都一の繁盛店である海天楼を探ろうとしているのは、どうやら政府だけではなかったようだ。
他の妓楼からの間者がこれまで何度も客に扮して訪れては、「函を見せてくれ」とせがんできた。
作業員たちは、そういう輩にうんざりしているのだ。
無咎は「我々はただの商人です。仕事の邪魔はしませんよ」と、すかさず潔白を示す。
梁らがいかに職分を重んじ、なぜ函の管理にこれほど神経質になっているか分かったが、こちらも命がけの任務である。
険悪な空気の男たちの間に、身を整えた鯪珠が入った。
「まあいいじゃない、べつに減るものでもないし、好きに見せて差し上げれば。それにこの人たち、どう見ても同業者じゃないわ。夜の匂いがしないもの」
親方の吟味するような視線を受けた玄晏は、思わず息をつめたが、昨夜初めて花街へ足を踏み入れた青年に、取りつくろう必要はなかった。
梁が不満げな眼差しのまま、そばにいた作業員に合図する。
函を覆い隠していた暗幕が取り払われた。
「さっさとしろ。あと半時辰(1時間)で清掃に入る」
目の前に現れた函は、たしかに水がすっかり抜かれ、昨夜ゆれていた細長い海藻たちが、魂を失ったように萎えている。
それから、作業用の長い梯子が函の側面に立て掛けられた。
作業員に続いて、玄晏と無咎は梯子をのぼる。
鯪珠と梁は、それを下で見守っていた。
「なるほど。足場はこのようになっていたのか」
天面にたどり着くと、玄晏は息を呑む。
昨夜玳瑁が言っていたとおり、函の天面は長い木材が格子状に組まれていた。
使われる木材は太く頑丈そうだが、鯪珠のように二階からここへ着地するには、驚くべき体幹と訓練が必要だろう。
そして客席側中央だけは、格子のすき間が他より広くもうけてある。
昨夜鯪珠が飛び込んだ場所であるが、清掃の際にも人や道具の出入りは、皆そこを使うようだ。
足場の上で無咎がしゃがんで、函の中を覗き込みながら問う。
「水はいつも、どのくらいの高さまで入っている?」
足場に立つ作業員が答えた。
「ええ、そうですねえ。だいたい函のてっぺんから七寸(21センチ)くらい下まででしょうか」
横から、玄晏が意外そうな声を上げる。
「思ったより低いのだな。客席から水面は全く見えなかったが」
無咎が、客席側に面した函の縁を叩いて答えた。
「この太い装飾枠が目隠しになってるんだ」
函の上下には、木彫り細工をほどこされた枠がある。太さはそれぞれ一尺三寸(40センチ)ほどだ。
『目隠し』という言葉に、玄晏は引っかかりを覚えた。
昨夜の光景を思いだし、それから膝を打つ。
「わかったぞ!鯪珠はこの枠の後ろに隠れて水面に顔を上げて、息を吸っ……」
と、言いかけたところで考えなおす。
「……いや違う。鯪珠の顔はほとんど水の中にあった」
むしろそれを見せつけるために、彼女はつとめて水の底の方を泳いでいたように思う。
「ああ。俺もそこは注視していたが、枠で顔が見えなくなったのは、演舞を終えて水面に上がった時だけだ」
そこへもう一つ梯子が登場し、作業員が函の中へ下ろしていく。
しかし、ふたりは足場の上を動かない。
無咎は扇の柄で、足下の木材をコンコンと叩く。
公演中、暗幕で隠されていたこの場所は、現時点で最も怪しい場所だ。
「たとえば木材に空洞があったとしたら、そこから水中へ空気を送る管を伸ばして、鯪珠へ呼吸させていた可能性がある」
なにも道具を持たない玄晏も、とりあえず自分の拳で木材を叩く。
梁に睨まれぬようさりげなく、しかし熱心にその作業を繰り返したあと「普通の木材だ」とこぼしふたりは顔を見合わせた。
そうしてからやっと梯子を降り、ついに函内部へと潜入する。
玉砂利や珊瑚の敷き詰められた底に降り立った瞬間、玄晏は「小さいな」とつぶやく。
函の高さは七尺(2.2メートル)。
背丈が六尺(190センチ)近い玄晏は、頭頂部がガラス面を超え上の装飾枠に隠れる。
昨夜鯪珠がこの中を悠々と泳ぎ回っているように見えたのは、彼女が五尺(150センチ)に及ばぬほど小柄だからだろう。
いっぽうで五尺四寸(170センチ)ほどの無咎はすぐに頭上を見上げ、火折子(携帯用火種)で足場の裏面を照らした。
やはり、木材に不自然な継ぎ目や空気穴のようなものはなかった。
「底はつまずきやすいですよ。お気をつけて」
若い作業員は足場の上からそう言うと、調査の邪魔にならぬよう、函の外へ降りていく。
無咎は火折子をしまうと、拍子抜けしたように言う。
「てっきりそばで見張られるのかと思ったが、ずいぶん協力的だな」
玄晏はガラス面を指差した。
「見張られているのには違いない。あまり派手な行動は慎んでくれ」
ガラスの向こうでは、梁親方と鯪珠が並んでこちらを監視している。
とくに親方の眼差しは、一寸の隙も見せられぬほど厳しい。




