第七話 初対面
翌朝。寝台で眠る玄晏を起こしたのは、玳瑁の明るい掠れ声だった。
「おはよう、おふたりさん」
玳瑁は髪を簪一本でまとめ、渋い黄緑の褙子を羽織っていた。
「どう。昨晩は楽しめたかい?」
どうやらふたりのため、屋台で朝食を買ってきたらしい。
炒餅を手にした玳瑁は、なぜか含みのある笑顔を浮かべていた。
「はあ……」
玄晏は眠気眼をこすりながら、まだ温かい餅を受けとる。
そんな彼の肩を、玳瑁は指でつついた。
「ふふ。たまにいるんだよねえ。こういう場所を隠れ蓑にして、“桃を分けあう”男がさ」
「……桃?何のことだ?」
餅を手にしたまま玄晏は首をかしげる。
その脇で無咎は何もいわず、いつものくたびれた赤い衣に袖をとおしていた。
「そうだ。昨夜はずいぶんと沢山もらっちまったから───」
玳瑁は背後をふりかえり、扉の方に視線をやる。
そこには、髪を一つ結びで垂らした、小柄な女が立っていた。
「鯪珠と話したかったんだろう?特別に連れてきてあげたよ」
予想だにしなかった、主役の登場に玄晏は唖然とする。
鯪珠はふたりの前へ歩み出ると軽く膝を折り、化粧けのない顔で言った。
「お初にお目にかかります。見苦しい姿で申し訳ありません」
白い寝間着に、少し皺の入った水色の褙子を羽織っている。
おそらく、寝ていたところを玳瑁に叩き起こされたのだろう。
その質素で飾り気のないたたずまいが、かえってなまめかしくも見える。
顔を上げると同時に、横髪をそっと耳にかける仕草など、男ならば目を奪われずにいられない。
「とんでもない。お疲れのところご足労いただきまして、感謝いたします」
しかし無咎は、いつものうさんくさい笑顔を披露した。
鯪珠はそんな無咎と、寝台で惚けている玄晏の顔を交互に見て
「あなたがたは、たしか昨日───」と、思い出したように言いかける。
玄晏の脳裏には、昨晩目撃してしまった裸体が浮かび、背に冷や汗が流れる。
「───昨日、玳瑁姐さんと一緒に、前の席にいらした方ね」
ほっと胸を撫で下ろす玄晏。
幸いなことに、回廊での彼女はこちらに気づいていなかったようだ。
無咎は自分と玄晏の名を告げると、興味深げに追及する。
「その通りです。まさか、水の中から我々の顔が見えていたのですか?」
鯪珠は固い面持ちのまま、口元だけゆるめた。
「さすがに水中からは見えないわ。だけど水に入る前に、函の上に立つでしょう?その時よ」
人魚の舞は人気公演ゆえ、良席には自然と同じような顔ぶれがそろう。
だが昨夜は、見慣れない若者がふたり、古参の玳瑁をともなって最前を陣取っていた。
その光景が彼女の記憶に刻まれたようだ。
「それで、何かしら。わたくしに話したいことがあるようだけれど」
無咎は単刀直入に「玻璃の函を見せてくれませんか」と切り出した。
そして、その理由を問われる前に、興奮ぎみに言葉を繋げた。
「あの函の美しさに、心を奪われてしまいました。うちにもあの半分でかまいませんから、同じものが欲しいのです!大量の水を抑え込む頑丈な木箱、そして何よりあの透明な玻璃……西域のものと聞きましたが、いったいどのような経路で手に入れたのでしょう?」
あの巨大な函を、あろうことか個人的に所有しようともくろむ、破天荒な大金持ち。
それが今回の彼らの設定であるようだ。
金が物を言う妓楼への潜入方法としては悪くない。
しかし、無咎のようなくたびれた身なりでは、すぐに化けの皮が剥がれるのでは?と玄晏に不安がよぎる。
案の定、鯪珠は疑わしげな表情で、まずは仲間である玳瑁へ視線を送る。
ところが、軽くうなずいただけで鯪珠はすぐに無咎へ向き直った。
「あまり詳しくないの。あの函は設計から職人の手配まで、すべて旦那さまが取りしきっていたから」
思いのほか、怪しまれてはいないらしい。
妓楼には、身分を隠すためあえて粗末な格好をして通う貴人も少なくない。
無咎もその手の風変わりな富豪と思われたのだろうか。
「旦那さま、とは贔屓客のことですね?もしかして函にかかる費用もすべてその貴人が?」と無咎。
「ええ。どのくらいの財を投じたのかと、わたくしも聞いてみたけれど。『お前でも一生稼げない額だ』とあしらわれてしまったわ」
たったひとりの妓女のため、巨額の資金や技術力を投じた金主。
そのきな臭い存在に、玄晏は思わず口を挟む。
「その客は───いったい誰だ!?」
鯪珠は玄晏の方を向くと、困ったように眉尻を下げた。
「お客の素性について、詮索も口外もできないわ。現にわたくしは、あなたがたの正体も探らないでしょう?」
鯪珠は、目の前の怪しげな男たちを完全に信じているわけではない。
ただ花街の女として、口を閉ざしているだけなのだ。
二の句が継げない玄晏に代わって、無咎が軽く頭を下げる。
「失礼。無粋でしたね」
妓楼は秘密の遊戯場。
男は素性を隠し、女はそれを探らず、たとえ知っても漏らさない。
「気にしないで。けれど、わたくしもこれだけは聞かせてちょうだい。あなたたち、玻璃の函を手に入れてどうするつもり?まさか、うちと同じことをするわけではないでしょう?」
鯪珠の疑心を、無咎はハハハと笑い飛ばした。
「うちはただの商家です。それでも特別な客人を招き、大口の取引をすることがある。その商談の場にあの函を置き、箔をつけたいのです。人魚を飼えたら一番なのですがね。うちは鯉でも入れて、鑑賞できればと」
その低姿勢でありながら微妙に鼻につく口ぶりは、成り上がりの豪商人そのもの。
どうしてこの男は、役者でもないのにこれほど巧妙に他人を演じられるのか。と玄晏は不思議に思う。
「生き物を飼うのはおすすめしないわ。水がすぐに汚れてしまうもの。頻繁に水交換ができればいいけれど、魚が泳いでいれば、それも難しいでしょう」
無咎は「ああ、言われてみればそうですね」と眉をひそめる。
しかしその眼光はするどく前を向いていた。
「水といえば、函に入れられていた水は澄んでとても綺麗でした。あれは運河のものではないでしょう?」
店のそばを流れる運河の水は、底が見えないほど濁りきった黄褐色。
泥や木くずが浮くだけでなく、生活排水までまざっており、たとえろ過したところで、人が入れるほど綺麗にはならない。
「ええ。川の上流水を漕船で……届けてもらっているわ」
鯪珠は一瞬、開け放たれた窓の方を気にしたが、あえて外を見ることはしなかった。
「なるほど。あの水は運河に乗ってここまで運ばれ、使い終わったらそのまま運河へ捨てられる。大がかりだが効率的な仕組みですね」
鯪珠は、ええそんなものね、とそっけなくうなずく。
「そういう裏方の話はわたくしよりも、親方に聞くといいわ」
彼女が親方と呼ぶのは、海天楼の雇い人のひとりで、函の管理をになう男らしい。
人魚の舞公演に関わる数多の作業員を束ね、監督する責任者だという。
「ああすみません。演者のあなたには関係のない話ばかりで」
無咎が管轄外の話題をふり続けていたのには理由がある。
『単純に函そのものに興味があるふりをすればいい』
その印象を、強く植えつけるためである。
そうして地盤を固めたあと、いかにも「ついで」という具合で彼は核心に触れた。
「最後にひとつ。答えたくなければ結構です。あれほど長く息を止めるというあなたの能力。あれは生まれつきなのでしょうか」
「……」
鯪珠は表情こそ変えなかったが、しばし沈黙した。
それまで饒舌に答えていた手前、ここで黙れば、やましさを抱えていると自白するようなものである。
やがて彼女は観念したように息を吐いた。
「もともと泳ぎが得意で、人より長く息を止められたのは事実。でも、今ここで出自を語るつもりはないわ。わたくしたちは素性ではなく一夜の夢を売っているの。ただ、言えるのは───あの函のおかげで、わたくしは本物の人魚になれたということよ」
落ち着いた声に、自信に満ちた眼差し。
虚言を吐いているようには見えなかったが、真意は読めない。
無咎は軽く拍手した。
「あなたを『本物の人魚』たらしめた函───ますます興味がわいてきました」
対する鯪珠も焦ることなく、淡々とした態度を貫いた。
「そんなにあの函が気になるのなら、どうぞ好きにご覧になって。今日は清掃が入るでしょうけれど、親方にはわたくしから話を通しておくから」




