第六話 長い夜
妓女にふんした無咎をかついだまま、足早に回廊を歩く玄晏だったが、部屋の扉まであと数歩というところで足が止まる。
「あ……」
長くコの字にめぐる回廊の、中ほどに誰かがいる。
女だった。
髪をおろした女がひとり、欄干の上に座っている。
その身体は回廊ではなく吹き抜け側に面しており、両脚がぶらぶらと宙に浮いていた。
少しでもバランスを崩せば転落する状況にもかかわらず、女は不思議なほど落ち着いていた。
その姿に玄晏は見覚えがある。
「……」
しかし、その女を前に彼は身動きがとれなくなった。
身体も、思考も、すべてが停止していた。
「ん、どうした?」
何事かと思ったのだろう。
肩の上でおとなしくしていた無咎も、腰と首を反らせ、前方を見る。
「あれは……さっきの鯪珠だな」
鯪珠の容貌はけして華やかではない。
鼻とあごの輪郭がするどく、切れ長の目で凛々しい面立ち。
そして少女のように小柄でありながら、筋肉質な体躯が特徴だ。
「……」
それでも、玄晏が唖然と立ち尽くしていたのは、目の前の女人の姿が、先刻とは少し、いや大きく異なっていたからだ。
今の彼女は、珊瑚色の衣装を着ていない。
それどころか、一糸まとわぬ姿であったのだ。
「それにしても、なんで素っ裸でこんなところに?」
耳元で発せられた間の抜けた声は、玄晏の鼓膜を素通りした。
欄干の鯪珠はこちらに気づいていない。
むしろ彼らだけでなく、周囲の誰も存在しないような様子だった。
実際にはこの場所も人通りが皆無ではなく、客のない妓女や下男が彼女の背後を、何の気なしに通りすぎている。
それでも鯪珠は己の姿を恥じらう様子もなく、ただ無邪気な子どものように脚をぶらつかせながら、薄暗い広間を見下ろしている。
何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。
表情はなく、虚空を眺めるようなまなざし。
「ま、まさか。幽鬼……?」
「んなわけあるか。影も脚もあるだろう」
無咎の指摘に、玄晏は思わず女を凝視する。
細い脚、小さな尻、引き締まった腹。
筋肉質な二の腕、その奥からのぞく柔らかそうな胸。濡れて貼り付いた髪。
夜の女らしく肌は真っ白で、左の腰にある小さな黒子が、唯一人間らしさを添えている。
玄晏は無言で部屋へ飛び込むと、バタンと大きな音をたてて戸をしめた。
そして、無咎を寝台の上に放り投げる。
小柄な身体は床の上で一度、魚のように大きく跳ねた。
「───無咎どのっ!」
そして玄晏自らも寝台へのぼり、掴みかからんばかりの勢いで迫る。
「妓楼というのは……は、は、はだかの女が、そこらを歩きまわる場所なのか!?」
今夜は何かと面食らってばかりの玄晏だったが、目の前で裸の女が平然とたたずむ光景は、あまりにも予想外で、けた違いに刺激が強かった。
無咎は丸く開けた目をぱちぱちと瞬かせたのち、落ち着け、と言って玄晏の胸を押しのける。
「んなわけない。ただあの女が変わり者なだけだろ」
靴を放り投げ、寝台の上で胡座をかく。
回廊をゆく人々は、裸の鯪珠の背後を平気で素通りしていた。
真夜中に響きわたるあの大きな排水音を、誰ひとり気にしていなかったのと同じように。
つまり鯪珠のあの奇行は、この海天楼では見慣れた光景なのだろう。
無咎はのんきな様子で、寝台にのけぞる。
「しかし運が良かったな。あの女が人間だと、この目で確かめることができたんだから。玳瑁の言うとおり、尾ひれも鱗もなかっただろう?」
そんなこと、たしかめる余裕などなかったと玄晏が返すと
「いったいどこを見てたんだ」とゲラゲラ笑いながら寝転ぶ無咎。
その時───
ドンドンドンと、部屋の扉が外側から強く叩かれた。
『ねえ。ちょいと玳瑁』
聞こえてきたのは、年季の入った女の声だった。
ふたりは驚き、返事することも、戸に近づくことすらできず固まった。
当然、部屋に玳瑁がいると思い込んでいる老女は、めんどくさそうな声で続けた。
『今ね、アンタの部屋で男ふたりが騒ぐ声がするって聞いたんだけど、本当かい?ふたり入れるのは御法度だって、アンタが知らないわけが無いだろう?』
声の主は、おそらく海天楼の遣り手婆だろう。
───まずい……。
言葉は交わさずとも、ふたりの男たちは心を共有した。
無咎はとっさに窓を見た。
明瓦(貝殻を磨いた板)造りの窓板は、乳白色の表面に浮かぶ虹色の影が、部屋の灯りに合わせてヌラヌラと揺れている。
逃亡するならここしかないが、この部屋は二階。下は真っ暗な運河だ。
次に衣装棚のほうに視線を動かす。
無咎であれば、隠れられるかもしれない。
しかし、遣り手はすでに戸に手をかけていた。
『玳瑁?入るよ?』
客がいようがおかまいなしに、部屋へ入るつもりらしい。
格子細工のほどこされた木製の扉が、キイイと乾いた音を立てて慎重に開いていく。
*
遣り手婆は、玳瑁の名を呼びながら部屋に足を踏み入れた。
隣室から『うるさい』と文句が入った割に室内は静かで、聞こえるのは下の階からの排水音だけだ。
照明も、最小限に落とされている。
こっそり客ふたりを部屋に上げて、儲けた揚代をそのまま妓女が懐におさめる事例が、たまにある。
やるのはたいてい、揚代が安い女だ。
だからこの老女は毎晩、特に安い女が住む二階にこうして目を光らせているのだ。
遣り手はまず手燭の明かりを衝立の後ろにかざした。
あるのは壺だけだ。
次に衣装棚に目をつけ、戸を開けてみる。
流行遅れの衣装や部屋着が、雑多に詰め込まれているだけだが、念のため腕を入れて探ってみた。
唯一の逃げ口である窓は───つっかえ棒で半開きになっている。
窓の下には、墨のように真っ黒な運河がごうごうと流れていた。
最後に目を付けたのは、薄絹の天蓋に包まれた寝台。
案の定、中の人影が透けて見えた。
「寝てんのかい?まったく……」
重なる薄青色の幕を細く開け、隙間から中を覗き込む。
仰向けになって目を閉じているのは、若い男だった。
ずいぶんと体格のよい青年で、胸から上と、放り出した両手足が布団から大きくはみ出している。
そして青年の上にかけられた絹布団は、人の形に膨らみ、端からは薄紫の衣と黒髪が覗いていた。
客の上で妓女がうつ伏せになり、仲良く重なりあって寝ているようだ。
「……まあ、客は一人のようだね」
足下の酒器を蹴飛ばした遣り手は、フンと鼻をならした。
「どうせあんたの酒焼け声が、男みたく聞こえたんだろうよ。ほどほどにおし」
おおかた飲んで大騒ぎしたあと、ふたりで眠りこけてしまったのだろう。
もう一度室内を確認し、遣り手は部屋を後にした。
*
「案外、ごまかせるものだな……」と玄晏が天井を見上げながらつぶやく。
ずいぶんと勘の鋭そうな遣り手婆を、こんなにもあっさりと追い払えるとは。
胸の上の布団をめくると、無咎の頭が出てきた。
「あの遣り手も、まさか玳瑁がいないとは夢にも思わなかったんだろう。気にしていたのはこの部屋に『三人いるか』どうかだけ。だから二人しかいないと分かった時点で『問題なし』と判断したんだ」
無咎の声にともなう息が、玄晏の胸元を震わせ温める。
「しかし、ここの壁は案外薄いらしい。気をつけた方がいいな」
無咎の指摘に、玄晏は耳を澄ます。
下の階からは、まだ排水音がしていた。
「真夜中にこんな音がしていては、眠れないだろう。客から文句は出ないのだろうか」
「だから、このあたりの部屋は下級の妓女専用なんだろうさ。位の高い女なら部屋はみな三階にあるはずだ」
彼らは念のため、布団の中で今後の調査について打ち合わせた。
「あの用心棒みたいな男がいる限り、函には近づけない。明日、金を握らせて正攻法でいくか」
あの玻璃の函は広間の中心に鎮座し、つねに人目がある。
用心棒の目を盗んだとしても、こっそり調査するのは不可能だろう。
「しかし、玻璃の函はこの店の命だ。いくら金を積んだところで……」
「そりゃあ『人魚のイカサマを暴きたい』なんて言ったら突っぱねられるだろうな。調べるとは言わずに、単純に函そのものに興味があるふりをすればいい」
「そんなに、うまくいくだろうか……」
少し不安は残るものの、玄晏もおおむね同意し、ひとまず打ち合わせは終了した。
「……なああんた。蟹が好物だろう」
玄晏の上でうつ伏せになったまま、無咎は唐突につぶやく。
「は?」
「う~ん、これは……いかにも蟹って感じの身体だ。甲羅みたいに固い」
少し眠そうな声で、玄晏の胸板をぽんぽんと叩く。
「……」
好物を当てられたのは、さすがご明察と言える。
ただ、その時の玄晏の心境は───鬱陶しい。というほかなかった。
ここで遊興にふけるつもりは毛頭ないが、都一の妓楼で、なぜ自分は男と床を共にしているのか。
そして、なぜこの男は恥ずかしげもなく、いまだ女装しているのか。
だんだん反応するのもバカらしくなって、そのまま目を閉じる。
とにかく疲れていて、この長い夜を早く終わらせたかった。




