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問無抄 ~のら猫と忠犬の虚実録~  作者: ぐるた眠
第二章 海天楼~人魚の舞う妓楼~【挿絵付】

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第六話 長い夜

 妓女にふんした無咎(むきゅう)をかついだまま、足早に回廊を歩く玄晏(げんあん)だったが、部屋の扉まであと数歩というところで足が止まる。


「あ……」


 長くコの字にめぐる回廊の、中ほどに誰かがいる。


 女だった。

 髪をおろした女がひとり、欄干(らんかん)の上に座っている。


 その身体は回廊ではなく吹き抜け側に面しており、両脚がぶらぶらと宙に浮いていた。


 少しでもバランスを崩せば転落する状況にもかかわらず、女は不思議なほど落ち着いていた。


 その姿に玄晏(げんあん)は見覚えがある。


「……」


 しかし、その女を前に彼は身動きがとれなくなった。

 身体も、思考も、すべてが停止していた。


「ん、どうした?」


 何事かと思ったのだろう。

 肩の上でおとなしくしていた無咎(むきゅう)も、腰と首を反らせ、前方を見る。


「あれは……さっきの鯪珠(りんじゅ)だな」


 鯪珠(りんじゅ)の容貌はけして華やかではない。

 鼻とあごの輪郭がするどく、切れ長の目で凛々しい面立ち。


 そして少女のように小柄でありながら、筋肉質な体躯が特徴だ。


「……」


 それでも、玄晏(げんあん)が唖然と立ち尽くしていたのは、目の前の女人の姿が、先刻とは少し、いや大きく異なっていたからだ。


 今の彼女は、珊瑚色の衣装を着ていない。

 それどころか、一糸まとわぬ姿であったのだ。


「それにしても、なんで素っ裸でこんなところに?」


 耳元で発せられた()の抜けた声は、玄晏(げんあん)の鼓膜を素通りした。


 欄干の鯪珠(りんじゅ)はこちらに気づいていない。

 むしろ彼らだけでなく、周囲の誰も存在しないような様子だった。


 実際にはこの場所も人通りが皆無ではなく、客のない妓女や下男が彼女の背後を、何の気なしに通りすぎている。


 それでも鯪珠(りんじゅ)は己の姿を恥じらう様子もなく、ただ無邪気な子どものように脚をぶらつかせながら、薄暗い広間を見下ろしている。


 何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。

 表情はなく、虚空を眺めるようなまなざし。


「ま、まさか。幽鬼……?」


「んなわけあるか。影も脚もあるだろう」


 無咎の指摘に、玄晏は思わず女を凝視する。


 細い脚、小さな尻、引き締まった腹。

 筋肉質な二の腕、その奥からのぞく柔らかそうな胸。濡れて貼り付いた髪。


 夜の女らしく肌は真っ白で、左の腰にある小さな黒子(ほくろ)が、唯一人間らしさを添えている。


 玄晏は無言で部屋へ飛び込むと、バタンと大きな音をたてて戸をしめた。


 そして、無咎(むきゅう)を寝台の上に放り投げる。

 小柄な身体は床の上で一度、魚のように大きく跳ねた。


「───無咎(むきゅう)どのっ!」


 そして玄晏(げんあん)自らも寝台へのぼり、(つか)みかからんばかりの勢いで迫る。


「妓楼というのは……は、は、はだかの女が、そこらを歩きまわる場所なのか!?」


 今夜は何かと面食らってばかりの玄晏(げんあん)だったが、目の前で裸の女が平然とたたずむ光景は、あまりにも予想外で、けた違いに刺激が強かった。


 無咎(むきゅう)は丸く開けた目をぱちぱちと瞬かせたのち、落ち着け、と言って玄晏(げんあん)の胸を押しのける。


「んなわけない。ただあの女が変わり者なだけだろ」


 靴を放り投げ、寝台の上で胡座(あぐら)をかく。


 回廊をゆく人々は、裸の鯪珠(りんじゅ)の背後を平気で素通りしていた。

 真夜中に響きわたるあの大きな排水音を、誰ひとり気にしていなかったのと同じように。


 つまり鯪珠(りんじゅ)のあの奇行は、この海天楼では見慣れた光景なのだろう。


 無咎(むきゅう)はのんきな様子で、寝台にのけぞる。


「しかし運が良かったな。あの女が人間だと、この目で確かめることができたんだから。玳瑁(たいまい)の言うとおり、尾ひれも(うろこ)もなかっただろう?」


 そんなこと、たしかめる余裕などなかったと玄晏(げんあん)が返すと


「いったいどこを見てたんだ」とゲラゲラ笑いながら寝転ぶ無咎(むきゅう)



 その時───


 ドンドンドンと、部屋の扉が外側から強く叩かれた。


『ねえ。ちょいと玳瑁(たいまい)


 聞こえてきたのは、年季の入った女の声だった。


 ふたりは驚き、返事することも、戸に近づくことすらできず固まった。


 当然、部屋に玳瑁(たいまい)がいると思い込んでいる老女は、めんどくさそうな声で続けた。


『今ね、アンタの部屋で男ふたりが騒ぐ声がするって聞いたんだけど、本当かい?ふたり入れるのは御法度(ごはっと)だって、アンタが知らないわけが無いだろう?』


 声の主は、おそらく海天楼の()り手婆だろう。


 ───まずい……。


 言葉は交わさずとも、ふたりの男たちは心を共有した。


 無咎(むきゅう)はとっさに窓を見た。


 明瓦めいが(貝殻を磨いた板)造りの窓板は、乳白色の表面に浮かぶ虹色の影が、部屋の(あか)りに合わせてヌラヌラと揺れている。


 逃亡するならここしかないが、この部屋は二階。下は真っ暗な運河だ。


 次に衣装棚のほうに視線を動かす。


 無咎(むきゅう)であれば、隠れられるかもしれない。


 しかし、遣り手はすでに戸に手をかけていた。


玳瑁(たいまい)?入るよ?』


 客がいようがおかまいなしに、部屋へ入るつもりらしい。


 格子細工のほどこされた木製の扉が、キイイと乾いた音を立てて慎重に開いていく。



 *



 遣り手婆は、玳瑁(たいまい)の名を呼びながら部屋に足を踏み入れた。


 隣室から『うるさい』と文句が入った割に室内は静かで、聞こえるのは下の階からの排水音だけだ。

 照明も、最小限に落とされている。


 こっそり客ふたりを部屋に上げて、儲けた揚代をそのまま妓女が(ふところ)におさめる事例が、たまにある。


 やるのはたいてい、揚代が安い女だ。


 だからこの老女は毎晩、特に安い女が住む二階にこうして目を光らせているのだ。


 遣り手はまず手燭の明かりを衝立(ついたて)の後ろにかざした。

 あるのは壺だけだ。


 次に衣装棚に目をつけ、戸を開けてみる。

 流行遅れの衣装や部屋着が、雑多に詰め込まれているだけだが、念のため腕を入れて探ってみた。


 唯一の逃げ口である窓は───つっかえ棒で半開きになっている。


 窓の下には、墨のように真っ黒な運河がごうごうと流れていた。


 最後に目を付けたのは、薄絹の天蓋(てんがい)に包まれた寝台。


 案の定、中の人影が透けて見えた。


「寝てんのかい?まったく……」


 重なる薄青色の幕を細く開け、隙間から中を覗き込む。


 仰向けになって目を閉じているのは、若い男だった。


 ずいぶんと体格のよい青年で、胸から上と、放り出した両手足が布団から大きくはみ出している。


 そして青年の上にかけられた絹布団は、人の形に膨らみ、(はじ)からは薄紫の衣と黒髪が覗いていた。


 客の上で妓女がうつ伏せになり、仲良く重なりあって寝ているようだ。


「……まあ、客は一人のようだね」


 足下の酒器を蹴飛ばした遣り手は、フンと鼻をならした。


「どうせあんたの酒焼け声が、男みたく聞こえたんだろうよ。ほどほどにおし」


 おおかた飲んで大騒ぎしたあと、ふたりで眠りこけてしまったのだろう。


 もう一度室内を確認し、遣り手は部屋を後にした。



 *



「案外、ごまかせるものだな……」と玄晏が天井を見上げながらつぶやく。


 ずいぶんと勘の鋭そうな遣り手婆を、こんなにもあっさりと追い払えるとは。


 胸の上の布団をめくると、無咎の頭が出てきた。


「あの遣り手も、まさか玳瑁(たいまい)がいないとは夢にも思わなかったんだろう。気にしていたのはこの部屋に『三人いるか』どうかだけ。だから二人しかいないと分かった時点で『問題なし』と判断したんだ」


 無咎(むきゅう)の声にともなう息が、玄晏(げんあん)の胸元を震わせ温める。


「しかし、ここの壁は案外薄いらしい。気をつけた方がいいな」


 無咎(むきゅう)の指摘に、玄晏(げんあん)は耳を澄ます。


 下の階からは、まだ排水音がしていた。


「真夜中にこんな音がしていては、眠れないだろう。客から文句は出ないのだろうか」


「だから、このあたりの部屋は下級の妓女専用なんだろうさ。位の高い女なら部屋はみな三階にあるはずだ」


 彼らは念のため、布団の中で今後の調査について打ち合わせた。


「あの用心棒みたいな男がいる限り、(はこ)には近づけない。明日、金を握らせて正攻法でいくか」


 あの玻璃の(はこ)は広間の中心に鎮座し、つねに人目がある。

 用心棒の目を盗んだとしても、こっそり調査するのは不可能だろう。


「しかし、玻璃(はり)(はこ)はこの店の命だ。いくら金を積んだところで……」


「そりゃあ『人魚のイカサマを暴きたい』なんて言ったら突っぱねられるだろうな。調べるとは言わずに、単純に(はこ)そのものに興味があるふりをすればいい」


「そんなに、うまくいくだろうか……」


 少し不安は残るものの、玄晏(げんあん)もおおむね同意し、ひとまず打ち合わせは終了した。


「……なああんた。(かに)が好物だろう」


 玄晏(げんあん)の上でうつ伏せになったまま、無咎(むきゅう)は唐突につぶやく。


「は?」


「う~ん、これは……いかにも蟹って感じの身体だ。甲羅みたいに固い」


 少し眠そうな声で、玄晏(げんあん)の胸板をぽんぽんと叩く。


「……」


 好物を当てられたのは、さすがご明察と言える。


 ただ、その時の玄晏(げんあん)の心境は───鬱陶(うっとう)しい。というほかなかった。


 ここで遊興にふけるつもりは毛頭ないが、都一の妓楼で、なぜ自分は男と床を共にしているのか。


 そして、なぜこの男は恥ずかしげもなく、いまだ女装しているのか。


 だんだん反応するのもバカらしくなって、そのまま目を閉じる。


 とにかく疲れていて、この長い夜を早く終わらせたかった。



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