第五話 真夜中の函
部屋の端に膝をつく玄晏は、広間にいた時と同様、終始落ちつきがなかった。
ここが、妓女の部屋か……。
卓には光沢のある絹布が敷かれ、その上で青いガラスの酒杯が転がっている。
洗練され、どこか妖しげな秘密の洞窟。
鏡台などの調度品は珊瑚や貝がモチーフで、細部にわたって世界観をつくり上げていた。
ここに上がる客たちは、いったいどのような至福を味わってきたのか……。
しかしそんな幻想を、薄幕の向こうで寝そべる男が打ち砕いた。
「だいたいなあ。二刻(30分)も息を止めるなんざ、本物の人魚にだって不可能なんだ。だってあいつらにはエラがない。魚なのは腰から下だけで、呼吸器は俺たちと同じなんだから」
薄紫のひらめく衣装をまといながら、寝床を我が物顔で占領し、身も蓋もないことをくどくどと垂れる無咎。
「はあ……」
玄晏は適当に聞き流し、ため息をついた。
しかし、ぼんやりと明るかった扉の外が一段暗くなり、空気は一変する。
「何事だ?」
「ただの消灯だろう。客も妓女も部屋に籠る時間だ」
玄晏は回廊に続く扉を細く開ける。
確かに、先ほどまでひしめき合っていた妓女や客はなく、まばらに給仕の姿があるだけだ。
しんと静まり返る回廊は、一見すると普通の宿屋のように見える。
しかし、突然、ごうごうと低い、軽い地鳴りのような音が玄晏の鼓膜をゆらす。
玄晏は驚いて耳を澄まし、無咎も寝台で顔を上げた。
「地震……?にしては長すぎる」
そう言って緊張を走らせる玄晏の背後から、無咎の落ち着いた声が飛んできた。
「いや、部屋はゆれていないから地震じゃない。ただ、下で大きな音がしてるんだ」
回廊に変わった様子はなく、慌てて逃げだすような人もない。
しかし、音は止まない。
「下……まさか……っ!」
一階からの轟音───あの巨大な函に関係しているに違いない。
そう直感した玄晏はすぐさま部屋を飛び出し、階段を降りる。
「おい、待て!」
無咎は扉から一歩出たところで自分の格好に気づき足を止める、
しかし、そのまま顔をベールで覆って玄晏を追った。
階段をおりる途中、音は地鳴りではなく、ゴボゴボ、ざあざあとした水音に近づいていった。
ふたりは一階へ到着する。
明かりを落とした広間は、いつもの華やかさはなく、ただ数人の下働きが黙々と卓や床を掃除していた。
ざあざあと大きな音は続いているが、どこかで水漏れが起こっている気配はない。
そしてその音に、誰ひとり気にする様子もない。
ふたりは音の発生元である、巨大な玻璃の函の前に立つ。
ガラス面が暗幕で全て隠され、中の様子はいっさい見えなかった。
無咎が、その下に敷かれた石台座に足を置く。
「やっぱりな。玻璃の函から水を抜く音だったのか」
玄晏は石台座に触れなかったが、すでにその周囲の床が低く振動していることを感知していた。
おそらく函の底に排水口があり、床下を通って水が外へ棄てられているようだ。
水の廃棄先は、そばを流れる運河だろう。
玄晏は、無咎のあとにつづいて函の周囲をぐるりと一周しながら言う。
「公演後は毎回こうして水を捨てているのだろうか。2、3回くらい使い回せば良いものを。勿体ない」
函を満たしていた透明な水は、どう見ても運河の水ではない。
どこかの清水を毎回運び込むだけでも、莫大な金と労力を要するはずだ。
「次の公演まで半月もある。入れっぱなしだと水もガラスも汚れて余計面倒なんだろうさ。まあ、それにしたって贅沢なことだ」
排水音はまだ止む気配がない。
函の大きさから推測するに、空になるまで半時辰(一時間)はかかるだろう。
無咎は頭からベールを外し、函の上部を見上げる。
「今は公演外だから、こうして暗幕で覆われているのもまだ分かる。しかし、公演中にも上に暗幕がかかっていたのは、気になるな」
玄晏は隣に立ち、彼の横顔を見た。
「たしか玳瑁どのの話では、上から覗く客が転落しないようにとか」
「理由に惑わされるな。事実だけをみろ」
こちらを向いてぴしゃりと告げる無咎。
「理由はいくらでもでっち上げられるが、事実は嘘をつかない。信じていいのは『天面へ暗幕が被せられた』という事実だけだ。もしあの時玳瑁が理由を語らなかったら、どう推測できる?」
玄晏は顔を上げ、視線を函の上部、それから二階の回廊へ移した。
「天面を隠されたということは、上から覗かれたくない。見られてはならない秘密があった……?」
大きくうなずく無咎。
その得意げなまなざしは、もはや自分が女装していることすら忘れているようだ。
「ああ。おそらくその秘密は、上からじゃなきゃ見つからない。俺たちのいた客席側からは、わからない場所にあったんだろう」
のら猫の鋭い嗅覚に、忠犬は思わず唸った。
調査どころか、まだ函に触れてもいない。
そんなうちから、秘密の隠し場所に当たりをつけていたとは。
彼の涼やかな瞳は、真っ黒な暗幕に覆われた函の中を、ただひとり覗き見ているようだ。
「明日、なんとかしてこの函を調べるぞ。内部も気になるが、“上から”というのを考慮すれば、本命は天面の足場、次点は底の下だな。ほら、ここは客席からは全く見えないが、上からは丸見えだろう?」
ほんの一時辰(二時間)前にここで見た景色が、玄晏の頭によみがえる。
鯪珠は、函の上を歩いていた。
『上はただ足場が組まれてるだけ。あの娘は今、細い棒の上に降りたんだ』
函の上部には、格子細工がほどこされた太い上枠があり、客席からは天面の足場がちょうど見えなくなっていた。
「ああ。そうだ───」
玄晏が答えようとした、その時
「───おい、そこで何をしてる!?」
突然、背後から男の声がした。
彼らがふり返ると、大柄の男が、胸の前で両腕を組んで立っていた。
暗くて表情までは定かでないが、男は玄晏と同じくらいの背丈で、身体の厚みは一回り上に見える。
腰からは鉤のような細長い道具をじゃらじゃらと下げ、妓楼の用心棒というよりは、大工の棟梁のような雰囲気だ。
「函に近づくんじゃない!」
男は目の前の男女(に見えるふたり)に一歩近づき、怒声を響かせる。
「まずい。いくぞ!」
答えるより先に、顔にベールを落とした無咎が玄晏の袖をひいた。
玄晏は顔を見られないよう伏せ、導かれるまま暗がりを走った。
今、捕まったら間違いなく海天楼から追い出され、二度と足を踏み入れることすら叶わない。
玄晏は足をとめることなく、顔だけを背後に向けると、幸い、男の姿はなかった。
単に追い払われただけだったようだが、これ以上一階にいるのは危険と判断し、ふたりは急いで部屋へ戻る。
目の前でひらひらとゆれる裾に、小股で走るおぼつかない足取り。
無咎が転ばないかと玄晏はひやひやした。
そして、案の定────
階段の手前で、ドテッ、と鈍い音を立てて無咎は床へ滑り込んだ。
「おい、大丈夫か?」
玄晏は声をひそめながら、しゃがんで手を差し出す。
元来の転びやすさに加え、今日の彼は女の衣装、そして視界を覆い隠すベール。
むしろこの時まで、一度もつまずかなかったのが奇跡だった。
無咎は、何とか玄晏を支えに立ち上がろうとするも、視界不良と絡む裾のせいで手こずる。
それを見かねた玄晏は
「火急ゆえ、失礼する」
と言って、腕を引きよせると、無咎の腰を抱え己の肩へかつぎ上げる。
「お、おい!」
そのまま砂袋でも運ぶように、階段を一段飛ばしで駆け上がった。
かつて訓練で身につけた、もっとも速く人間を運搬する方法である。
「……」
はじめこそ戸惑いの声を上げた無咎も、あとは抵抗しなかった。
自分の下腹を玄晏の肩に預けるよう体位を調整し、膝を少し曲げて、最も運ばれやすい体勢を自らつくる。
彼自身も、これが自分にとって最も効率的な移動方法だと認めたらしい。




