第四話 妓女の部屋へ
「おい玄晏。なにをぼーっとしてるんだ」
無咎に肩をつつかれ、夢幻の海に沈んでいた玄晏は我に返った。
気づけば丑の刻(深夜一時)をまわり、大広間は暖かな橙色の灯りにつつまれている。
客たちは名残惜しそうに席を立ち、ぞろぞろと出口や階段へと向かっていく。
彼らの客卓からも、すでに妓女の玳瑁が消えていた。
玄晏はまだ余韻の残るまなざしで息を吐く。
「あの鯪珠という女、ただ者ではない。……やはり人魚の末裔なのだろうか」
「んなわけあるか」
無咎は酒杯を傾けながら一蹴した。
「だが無咎どの。鯪珠は二刻のあいだずっと水の中にいた。隠れて息継ぎしているようにも見えなかったが」
「息継ぎはしてるはずさ。あの函に何か仕掛けがあるんだろう 」
無咎は玻璃の函に視線を移すが、すでにガラス部分にも分厚い暗幕が被せられており、中は見えなくなっている。
「どのような仕掛けか、わかるのか?」
「思い付くものはいくつもあるが、調べてみないことには分からん。しかし、不可解なのは仕掛けよりも、あの函の出どころだ」
「出どころ?」
「ああ。仮にあれが何の仕掛けもない、ただ大量の水を入れる函だったとしても、とんでもない規模の金と労力がつぎ込まれている。いくら都一の繁盛店とはいえ、一介の妓楼のどこにそんな資金源がある?」
「言われてみれば……」
公演中は人魚に夢中で、彼女を収める函そのものには着目していなかったが、あれは間違いなく国宝級の代物だ。
大量の水圧に耐えうる巨大な函。
素材や組み立ては、造船技術を応用しているのかもしれない。
そして何より希少なのが、西域からの輸入という透明ガラス。
さらに、巨大な函を満たすほどの澄んだ水は、単に井戸水を運ぶのでは間に合わない。
川の上流か、滝か、どこからか綺麗な水を定期的に運搬する仕組みが必要だ。
海天楼は、海中を模した建物そのものも十分に作り込まれているが、この玻璃の函へ注がれた金は明らかに桁違いに見える。
「何か不当な方法で大金を稼いでいる。もしくは裏に何か巨大な組織が……?」
玄晏の顔が引き締まり、眼には皇城司らしい鋭さが戻った。
「人魚の正体が何であれ、探る価値はありそうだ。ただ、今日みたく店の表側しか見られないんじゃあ意味がない。裏側まで潜入する必要がある」
「どうするんだ?」
「ひとまず、今夜はここに泊まっていこう」
その言葉を聞いた途端、酒を飲んでいないはずの玄晏が、急に顔を赤らめた。
「泊まるっ!?泊まるというのは、その、つまり……!」
その過剰な反応を、ただの無知ゆえだと勘違いした無咎は、丁寧に説明してやる。
「簡単な話だ。ここは妓楼だから、適当に女を買えば客として部屋で一晩過ごせる。そうだな……さっきの玳瑁がいいだろう。ちょっと話をつけてくるから、ここで待ってろ」
そそくさと立ち上がると、無咎は妓女たちのたまり場へ軽い足どりで向かっていく。
懐から巾着を取り出し、中の銀粒をたしかめるのも忘れずに。
「お、おい待て……っ!」
慌てて止めようとした玄晏の声は、喧騒にかき消されてしまった。
“女を買う”
“妓楼に泊まる”
それがどういう意味なのか、玄晏とて知らないはずがない。
こうして妓楼に足を踏み入れるだけでも、地に足のつかない心地だというのに。
任務のためとはいえ、女の部屋で一夜を明かすなんて───
未知の領域への扉が、意図せず次々と開かれる展開に、あらぬ妄想が膨らむ。
───待てよ……。
俺と無咎どのは同じ部屋に泊まるのか?
それともひとりずつ?
調査なのだから、ふたり一緒でないと都合が悪い。
しかしそうなれば、今夜は妓女も交えて三人で寝るということになるが……その方がよほど都合が悪いではないか!?
人もまばらになってきた大広間で、一人悶々と頭を抱える玄晏。
そんな男が、いきなり背後からぽんと肩を叩かれた。
「た、玳瑁どの……」
ふり返るとそこには、紫の衣をまとった玳瑁が静かに立っていた。
彼女は最初に現れた時と同様に、顔を薄いベールで覆い隠しながら、手のひらに載せた木札を差し出してくる。
玄晏が反射的にそれを受けとろうとすると、そのままゆっくりと手を握られ、ぐいと引かれた。
「……」
部屋へ案内する、ということだろう。
玄晏は戸惑いながら立ち上がり、周囲を見渡すが、無咎の姿が見えない。
やはり男二人で妓女の部屋に入るのは、不可能だったのだろう。
玄晏のことは玳瑁に任せ、今は別の女を捕まえているのかもしれない。
尻込みする玄晏をよそに、玳瑁は口を閉ざしたまま、彼の手を強く引いて歩く。
ベールをまとった後ろ姿は、先ほどのざっくばらんな印象とはずいぶん違った。
しなやかな足取りと、時おり透けて見える肩や腕はどこか妖美で、まるで男を惑わす桃源郷の仙女のようであった。
半ば生理的に高鳴る鼓動と、少しの悔しさを感じながら、玄晏は導かれるまま階段を踏む。
周囲では、同じように妓女に腕を引かれた男たちが、鼻の下を伸ばしながら回廊を歩いていた。
やがて一つの扉の前で、玳瑁は立ち止まる。
両手で扉を開くと、彼女はそっと玄晏の背後へ回った。
「これは……」
広間が海の底なら、彼女の部屋は秘密の洞窟だった。
部屋を照らすのは、灯籠から漏れる淡い緑色の光。
薄暗く、扉の外からは細部が確認できないが、奥に設えられた大きな寝台だけはしっかりと主張してくる。
囲う半透明の帳はまるでクラゲの薄膜のように繊細で、青くゆらゆらと揺れながら、こちらを誘っていた。
「あの、玳瑁どの。私の連れにどこまで聞いているか分からないが、私は別に貴女と……」
扉の前で立ち止まったまま、必死に弁解する玄晏。
しかしその背後で玳瑁は、あろうことか脚をふり上げ、玄晏の腰を容赦なく蹴飛ばした。
「うわっ!」
つんのめるように入室した玄晏は、そのまま無様に床へと転がる。
「っ……おい! いきなり何を───」
「ばか。俺だ」
「───む、無咎どのっ!?」
乱暴に外されたベールの下から現れた顔を見て、玄晏は目を丸くした。
切れ長の瞳に、繊細な輪郭。
肌は化粧けがないのに、唇だけしっかりと赤く紅がひかれている。
それは玳瑁ではなく、まぎれもなく相棒の男だった。
「いったいなぜ、そんな格好を……?」
唖然として見上げる玄晏。
無咎は慎重に扉を閉めると、ずかずかと大股で部屋の奥へ進んでいく。
「俺たちが同じ部屋に泊まるには、こうするしかないだろう。女がいたって邪魔だ。玳瑁にはどこか店の外で一泊するよう言ってある」
一晩の花資(代金)に、たっぷりと宿代を上乗せして渡すと、玳瑁は大喜びで出ていったという。
「久しぶりに飲み歩いてくるよ 。うちの店、シケた酒しか置いてないからね」と言って。
いっぽうの無咎は、玳瑁の着ていた衣装を借りて彼女になりすますことで、玄晏とともにこの部屋で一晩過ごす権利を得たのである。
「なんで気づかないんだよ。顔はまだしも、手の感触で男か女かくらい分かるだろう。背丈だってまるで違う」
無咎は拳で乱暴に唇をこすりながら、呆れ声を漏らす。
手の甲が紅で赤く汚れていた。
「仕方ないだろう。私はずっと椅子にかけていて、彼女の背丈は知らない。それに、女に手を握られたこともない」
羞恥で顔をそむけた玄晏。
視線の先の寝台には、丁寧に畳まれた無咎の衣と白い扇が置いてあった。
「ふん。じゃあ男はあるのかよ?」
「それは……掴まれたことならあるが。あんなふうには……」
「あんなふうって?」
玄晏の手のひらに感触がよみがえる。
指の間に一本一本、冷たい指が入り込んでいく、何とも形容しがたい異物感。
しかし、妙な気配を感じてふりかえると、ニヤニヤと不適な笑みが目に飛び込んできた。
「うるさい!任務に関係ないだろう!」
怒鳴り声と笑い声が、秘密の洞窟を同時に揺らした。




