第三話 人魚の舞
そのうち広間の照明が落ち、軽快な太鼓と琵琶の爪弾きが響きわたる。
客席後方から強く白い光の筋が伸び、吹き抜けに面した二階の回廊を照らす。
すでに人払いがされていた回廊には、いつの間にか、珊瑚色(桃色)の衣をまとった一人の女が立っていた。
女は伏し目がちに首を傾け、片腕をふわりと頭上へ掲げている。
身体全体でしなやかな曲線を描く姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
演奏に胡琴(二胡)の音色が加わり、場内の空気が徐々に艶めいていく。
玄晏は玳瑁へ耳打ちした。
「あれが鯪珠か……?」
「そうさ。実はこの店じゃあ 、あたしの次に古いんだよ」
鱗珠の身体を包む上衣は、肩や二の腕にはり付く細身だが、肘から先の広袖は裂かれ、まるでヒレのように揺れる。
玄晏が後方をふり返って照明のもとをたどると、回廊の隅に置かれた灯籠の背後に、大きく磨き上げた銅製の鏡が配置されていた。
あの鏡の反射を使って、灯籠の明かりを前へ飛ばしているらしい。
光を浴びる鯪珠は遠い眼差しで満席の広間を一瞥すると、颯爽とした足どりで回廊を歩きだす。
そしてちょうど玻璃の函の真上あたりまで来ると、欄干(手すり)の上にひょいと飛び乗った。
一階の客席から、いっせいにどよめきが上がる。
その熱狂に応えるわけでもなく、鱗珠はただ涼しい顔で細い欄干に尻を乗せ、水で満たされた函を見下ろす。
彼女が履いているのは裳(スカート)ではなく、上衣と同じく珊瑚色の袴(パンツ)であった。
太もも部分はぴったりと細身だが、膝下から大きく広がった薄緑色の裾は、爪先まで隠れるほど長く、金魚の尾ひれを思わせる。
そして彼女はぷらぷらと両脚を揺らしていると思えば、勢いをつけて身体を前方へ投げ出した。
「まさか、あそこから────」
思わず息をのむ玄晏の予想は、意外な形で裏切られた。
琵琶の叩音とともに、彼女の身体は宙を舞い、確かに玻璃の函へ向かって飛び降りた────が、水面に突入する前に、函の上へ着地した。
「何だ。函の上は閉じられていたのか」
「いや違うよ。上はただ足場が組まれてるだけ。あの娘は今、細い棒の上に降りたんだ」
大量の水圧に耐えるため、箱の天井部分には補強用の木材が組まれているらしい。
その足場が客席からは一切見えないせいで、角度によっては、彼女がまるで水面に浮いているようにも錯覚する。
その細い足場の上を鱗珠は器用に歩きながら客席側まで移動すると、ようやく静かに脚から入水した。
ドボンという音と、軽い水しぶきが上がる。
同時に、ガラス越しの水中が大きく揺れ、沈んでゆく女の肢体からは細かな泡が舞い上がる。
すぐに函の底まで到達した鱗珠は、まずは頭から背面に向かってくるりと宙返りした。
体の動きを後から追うようにして形を変える黒髪は妖艶で、袴の裾が尾ひれのようにゆらめく。
古箏のたゆたうような旋律が、観客を賑やかな酒場から、深い海の底へ誘った。
「おい、あれは何をしてる?」
皆の視線が水中の人魚へ注がれるなか、ただひとり別のところを見ていた無咎が、さっきまで鱗珠が歩いていた函の上を指さした。
二人の下男によって、上から大きな暗幕が被せられている。
「ああ。演舞中はああやって蓋を被せることにしたんだよ。前に上から覗き込もうとした客が、二階から転落したことがあってね」
玳瑁の答えに、玄晏は二階を見上げる。
「なるほど。回廊に人が少ないのは、それが理由か」
いっぽう、函の暗幕から目を離さない無咎は、したり顔でこう呟いた。
「……なるほど。水槽は完全な密室で、逃げ場はどこにもない、というわけだな」
ふたりが目を離しているすきに、水の中の鯪珠は端まで移動し、底から生える海藻の間をくぐり抜けながら、縦横無尽に泳ぎ回る。
魚のように俊敏な姿を見て、玄晏は心の中で感心した。
────両脚をつけ、一本の尾ひれのように動かしている。あれは相当な鍛練と筋力が必要だな。
普通、人が水中を移動するためには二本の脚を交互にばたつかせる。
しかし鯪珠はけしてそのようには泳がない。
両脚をぴったりと閉じたまま、腰から太もも、そして爪先を波打たせるさまは、まさに人魚の尾ひれそのものだった。
時おり視界に入る、大きな筋の入った彼女の腹は、日頃の鍛練の賜物だろう。
泳ぎの勢いに合わせて、楽師たちの演奏は強く、鋭く旋律を刻む。
鱗珠が一通り泳ぎを披露し終えた頃には、すでに、人が息を止めていられる時間の限界を超えていた。
普通なら一度水面に上がるはずだが、身体は常に水の底にあり、たとえ顔だけでも浮上させる様子がない。
それどころか鱗珠は、そのまま客席側へ近づくとガラスに両手をつき、顔を寄せる。
わずかに開いた唇から、真珠のようにきらめく泡を吐いて見せた。
それは、彼女が普通の人間と同じように、肺で呼吸をしている証だ。
そのうち、広間には華やかな妓女たちが登場し、函を囲んで踊りだす。
鱗珠も手にした長い薄衣をヒレのようにふりながら、一糸乱れぬ舞いを披露した。
複数の箏が鮮やかに奏でられ、簫が歌声のように重なる。優雅で厚みのある奏楽が続く。
鯪珠は疲れも見せず、時おり宙返りを披露したり、海藻や岩の後ろを抜けて泳いだりもした。
狭い函の中ゆえ、動き自体は単純だ。
しかし、そこが逃げ場のない「水中」であることを念頭に置けば、まさに命がけの超絶技巧としか言いようがなかった。
「ふん。演舞だというのに、にこりともしないな」
じっと水槽をにらんでいた無咎がそうこぼす。
「こんなに長く息を止めているのだから、笑っている余裕もないのだろう」
玄晏が返すと、隣から皮肉まじりの答えが返ってきた。
「一番人気ってのは、むやみに愛想をふりまかないもんさ。アタシらみたいな安物とは違ってね 」
ふたりは何も答えられなくなった。
入水してすでに一刻(十五分)を超えたが、彼女はまだ水中をたゆたっており、一度も浮上していない。
そのうち窒息してしまうのではないかと、はじめは玄晏も気が気でなかった。
思わず自分も息を止め、同じように耐えようと試したが、すぐに断念した。
ところが不思議なことに、その焦燥感はしだいに泡と消え、鯪珠を「そういう生き物」なのだと錯覚しはじめる。
陸での姿を知らないせいもあるだろう。
が、きっと彼女は生来水の中でしか生きられない、人の形をした魚なのだろう、と。
そんな幻想を後押しするのが、彼女の冷徹な美貌だ。
小さな海の神秘に呑まれかけていた玄晏だが、水中の鯪珠と一瞬、視線が交差した。
稲妻のような衝撃が、全身を貫く。
彼女の強い眼差しは、己を売る媚ではなく「磨き上げた芸」を誇る気概に満ちていた。
風流や芸事に疎い玄晏だが、腹の底から感じたことのない熱が沸き上がる。
「人魚の舞」は、単なる演舞ではない。
ひとりの女の並外れた努力と誇り、そして奇跡───人を魅了するすべてが、あの四角い函に詰め込まれているのだ。
無意識に拳を握り、呼吸すら忘れて人魚の姿を追う玄晏。
いつしか胸の鼓動は、太鼓の音とドクン、ドクンと共鳴していた。
やがて箏が激しくかき鳴らされ、簫が高音で叫び、太鼓が乱れ打つ。
観客の興奮が最高潮に達したとき、函の上から、大きな暗幕が取り払われた。
最後に水底でくるりと一回転した鯪珠は、そのまま突き上げるように浮上し、ついに水面へ顔を出した。
函を囲う太い縁に隠れて、その表情こそ見えないが、濡れて束になった髪が、水しぶきを飛ばしながら縁を超えて跳ね上がるのを、玄晏は確認した。
興奮冷めやらぬ客席から、わっと歓声と拍手が沸き起こる。
二刻もの長丁場は、幻惑的な妙技に酔いしれているうちに、あっという間にすぎていた。
鯪珠は顔を上げたまま客席側へ泳ぐと、函上部の縁へ手をかける。
そのまま、よじ登るようにして上から顔をのぞかせ、軽く手をふる。
肩が上下し、息を乱す様子は、彼女がこの夜はじめて見せた人間らしい顔である。
再び函の足場へ立った鯪珠は、はじめに登場した二階の回廊へと戻っていく。
白い照明を全身に浴びながら、髪や衣から激しく水を滴らせ、最後に優雅なお辞儀をする。
海天楼は、都で一番の熱狂に包まれていた。




