第二話 人魚のうわさ
やがて彼らの前に現れたのは、薄紫の衣をまとった妓女。
顔は透け感のあるベールで覆われており、その妖艶で神秘的な姿は異国の踊り子を彷彿とさせた。
顔を隠した妓女はうつむいて黙ったまま、名刺代わりの木札を卓の上に置く。
木札に彫られた玳瑁という文字を、無咎がしげしげと眺めた。
「玳瑁……ウミガメか」
「ええ。いちばんの古株にぴったりな名でしょう?」
妓女はそっとベールをめくって顔を出すと、真っ赤な唇を上げた。
どんな妖魔が現れるかと思えば、玳瑁はなかなかの美人だった。
年は二十代後半くらいに見えるが、実際のところはわからない。
何よりもその気取らない態度が相手の緊張を解く、愛嬌のある女だった。
無咎は手の中の扇を置き、居住まいを正す。
「失礼な呼びつけをして申し訳ない。この店が初めてなもので、ここについて詳しい者から話が聞きたくてな」
「店……というよりも、うちの人魚についてじゃないの?」
玳瑁は得意気な笑みをたたえながら、玄晏の左隣へ腰を下ろした。
意図せず妓女と無咎に挟まれてしまった玄晏は、肩を縮ませる。
「お兄さんたち、初めてという割には、『玻璃の函』に一番近い席にいる。ここを取るには何かコネを使うか、開店前から並ばなけりゃいけないからね。あんたたちも鯪珠が目当てで来たんだろう?」
古参の鋭い指摘に、無咎も素直にうなずく。
「その通りだ。さすが、そこらの若い女とは違うな」
広間には『玻璃の函』なる水槽を鑑賞するため多くの座席が設けられているが、彼らがいるのは最前列だ。
といっても目の前には楽床(楽器演奏のスペース)があるため、水槽への距離は一丈半(五メートルほど)といったところか。
彼女の推測通り、今夜のふたりの目当ては酒や女遊びではない。
間もなく始まる水中演舞「人魚の舞」である。
「では単刀直入に聞く。鯪珠という女は巷の噂どおり、本物の人魚なのか?」
「あははっ」
無咎が問うなり、玳瑁は大口を開けて笑った。
「それは単なる愛称だよ。たとえば……ほら、アタシらが使う化粧品や装飾品は『楊貴妃の愛用』とか『武后が買い占めた』とかうたわれてるけど、彼女らの時代には存在しなかった代物だ」
酒焼けなのか、玳瑁の声は少しかすれている。
ざっくばらんな話し方も相まって、そこらの大衆食堂の女将のようだ。
話しやすくて助かるが、女としては“勿体ない”部類に入るのだろう。
「人魚っていうのも同じさ。鯪珠には鱗も尾ひれもないし、見た目は人間そのものだよ?だけどあれは、ただの人間じゃない。人魚の血をひいてるとしか思えないね。だって水の中で、二刻(約三十分)近く息継ぎなしで踊り続けるんだから」
「ほう。それは……演舞というより曲芸だな」
素直に驚く無咎。
そこで、これまでふたりの会話にうなずくばかりだった玄晏が、もう一つの奇妙な噂について口を開いた。
「では、目から真珠の涙を流すというのは?」
真珠の涙は、古代から伝わる人魚の逸話のひとつだ。
「どうも本当らしいよ。アタシは見たことがないけどね。ほら、特別なお客さんにしか見せないから」
「……そうなのか」
曖昧な答えだが、何かを隠している様子はない。
それどころか、玳瑁という女は急に艶っぽい目線で玄晏を見上げ、肩から腕へと手を這わせる。
「そりゃあそうさ。妓女の涙は、愛する人を思って流すもの。それなりに深ぁ~い仲にならなきゃ、ね?」
細い指先が、玄晏の腰元で輝く玉佩を取り、弄ぶ。
「ちょ、ちょっと……」
引っ張られるようにして、自然と彼女の方へ体が傾く玄晏。
そんな彼の腕を、とっさに無咎がつかんで強く引き寄せた。
「……ほう。その特別な真珠を手に入れるため、男たちはこぞって鯪珠の太客になろうとする。一年先まで予約がいっぱいなわけだ」
なぜかトゲのある視線を飛ばす無咎。
「そうそう」
玳瑁はいかにも妓女らしく、クスクスと余裕の笑みで返した。
「たまに『人魚の涙』とか言って、真珠を高値で売る輩もいるって聞くけど、ほとんどが偽物だろうね。あの娘の馴染み客はみな大金持ちばかり。本物の涙は大事に保管されているはずだよ」
────“人魚の涙”。
まさにそれが 、今回玄晏らがこの海天楼の調査を命じられた理由のひとつだ。
近ごろ市井では鯪珠の人気に便乗して、彼女の流した「人魚の涙」と称した模造品の真珠が高額で出回っている。
見かねた政府は取り締まりを始めたが、そのためにはまず本物の「人魚の涙」なる真珠が存在するのかを検証せねばならなかった。
だが、皇城司である玄晏らが駆り出された理由はそれだけではない。
表沙汰にはしにくい、政府の裏事情があるのだ。
昨今の歓楽街では、客の多くがこの海天楼へ奪われ、政府公認の酒場である「正店」の売り上げが著しく減少している。
しかもこの海天楼は「人魚の舞」という芸を売りにしているがゆえに、他の妓楼に比べて酒の消費が芳しくない。
つまり、国へ納める酒税が少ないのだ。
その上、年に三度だけ「特別解放日」として女や子供にも「人魚の舞」を披露し、その際には水色の果実水に小さな白玉を入れた「人魚の涙」なる涼水を売りさばいているという商魂たくましさ。
この海天楼の存在は静かに、しかし着実に財政を圧迫する。都にとっては目の上のたんこぶだった。
玄晏は、頭の中で皇帝との謁見を回想する。
『無許可の醸造など、あからさまな違法行為は見られない 。そこが余計に戸部尚書(財務大臣)を悩ませているのだ。……まあ、もし“本物”の人魚がいるのであれば、私も見てみたいものだがな』
表向きはただの戯言を装っているが、明らかな勅命であった。
もしもこの海天楼が、ただの人間を「人魚」と偽って人々から金を巻き上げているのならば、それは明白な詐欺であり、都の秩序を守るため、政府は取り締まる権利を獲得する。
つまるところ────「人魚」の秘密を暴き、海天楼を潰せ。
それこそが、玄晏に課せられた密命であった。
『それにしても、陛下はずいぶんとお詳しいのですね……市井の歓楽街に』
恐る恐るたずねると、御年四十七歳の皇帝は、まだ黒々と豊かな顎髭を撫で、懐かしそうに目を細めた。
『若い頃はこっそりと通ったものだよ。馴染みの妓女もいた』
『ええ!?』
『ところで、白音堂の話は実に面白かった。あの猫が堂の中を嗅ぎまわっている様子が目に浮かぶ。今度は人魚の住む妓楼で、奴がどのように動くか、ぜひ聞かせておくれ』
『は、はあ……』
猫というのは共に任務にあたる無咎のことだろうが、ここでなぜ急に彼の話になるのか。玄晏には全く理解できなかった。
そして今にいたるわけだが。
実際にこの海天楼へ足を運んで分かったのは、鯪珠という女は、みずから「人魚」を名乗っているわけではない。
ただ、超人的な曲芸を披露することで、それを観た者たちが勝手に「人魚」と噂し囃し立てているらしい。
───しかし、ニ刻も息を止めるという離れ業が本物なら、ただの人間とは思えないが……。
判断に迷い、無咎へ視線を送ろうとしたが、彼は女の向こうでただ酒をあおっていた。




