第十六話(終)死者の声
息づかいすらも聞こえない。
取り壊しを待つ白音堂の内部は、まるで魂を失ったような静寂に包まれていた。
玄晏はひとり、跪拝台に膝をつき堂内を静かに見渡す。
天井や壁一面に描き込まれた極彩色の壁画。
中央に鎮座する白冥大士は、御神体として拝むには、あまりにも妖艶で美しすぎた。
死者との対話を行う、神聖な場所がこれほどまでに芸術的であった理由は、かつて都で一流の舞台を築き上げた職人たちの気概、そして新たな夢が込められていたからだろう。
『ここからの景色は比べ物にならないほど素晴らしいものだったわ』
『女にも、時には老婆や赤ん坊にだってなれます』
白冥大士の使者を見事に演じ切った、あの演者たちのほこらしげな眼差し、まっすぐな声が脳内によみがえる。
今思えば、この場所に救いを求めていたのは、信者ではなく彼らの方であったのかもしれない。
ここは言わば、永遠に幕の降りない舞台。
演者は優しい夢を見せ、信者はその対価として献金する。
需要と供給が見事に一致したその光景は、今も都の歓楽街でおこなわれる数多の商売と、いったい何が違うのだろうか。
『そこに、いるのか?……玄晏』
その時。
もう二度と聞こえるはずのなかった声が、ふいに玄晏の鼓膜を震わせた。
声の出所は、今ならわかる。
目の前に固定された香炉だ。
「兄さ……ん?」
香炉へ向かって震える声で問いかける。
声の主は答えず、ただ性急に切り出した。
『時間がないから手短に言う。玄晏、あの日俺が死んだのは、お前のせいではない』
「……どういう、ことだ?」
『あの時、食料庫には爆薬の材料、硫黄や硝石が隠されていた。だが、それぞれ離れた場所に置かれていただろう?万が一見つかったとしても、すぐには爆薬だと気づかれないように。それぞれ、似たような色形の乾物や生薬なんかに紛れ込ませてあったはずだ』
「ああ。その通りだが……」
その事実を、玄晏は誰にも明かしていなかった。
知るのはあの場にいた玄晏と、伯文のふたりだけだ。
『よく考えてみろ。そんな状態で、外から松明を投げ込んだところで、うまく着火し爆破させられる可能性は低い。証拠隠滅のために食料庫ごと大破させるには、人の手で爆薬を調合して、そこへ確実に着火させる必要がある。外にいた敵軍にはまず不可能だ』
「じゃあ、いったい誰が───……」
言い切る前に、玄晏はその凄惨な可能性に気がついた。
しかし、言葉にするまで時間を要した。
「まさか、兄さんが……自分で火を?」
それができるのは、食料庫の中にいた伯文ただひとり。
あの時、外にいた玄晏を囲う敵は多く、たとえ伯文が加わっても二人では太刀打ちできない窮地だった。
その絶望的な状況を打破し 、一気に敵を壊滅させる何かが必要だったのだ。
実際、あの爆破に玄晏は救われた。
あれがなければ、伯文ととも敵に捕まり、謀反の証拠とともに葬り去られていただろう。
愕然とする玄晏を前に、香炉の声は、色を変えることなく静かに響く。
『俺は任務遂行のため、あの状況で最も適切な判断をした。ただそれだけだ。敵にやられたわけでも、お前のせいで死んだわけでもない』
皇城司は国を守る特務機関であり、多くの国家機密を抱える秘密組織でもある。
“情報漏洩を避けるため、捕らえられたら、即座に自ら命を絶つべし。”
それは、彼らが最初に叩き込まれる教訓であった。
「嘘、だ……」
玄晏は床に両手をつき、うなだれる。
その告白は彼を慰めるのではなく、ただ困惑させた。
「兄さん、どうして……。どうして今、そんなことを言うんだ。そうあって欲しいと、俺が望むからか?兄さんが死んだのは、自分のせいじゃないと」
その甘い仮説を、信じてしまうことが怖かった。
人は真実ではなく、自分に最も都合の良い話にすがりつく。
それはまるで、燃え尽きていく線香に目を奪われ、その真下にある香炉の違和感に気づかないようなもの。
そんな人間の愚かさを、玄晏はここで嫌というほど目の当たりにしてきた。
すると、香炉の中からパンッと乾いた破裂音とともに、怒声が響く。
『馬鹿を言うな!』
その音はちょうど、木製の机を扇か何かで叩いたような音だった。
『俺はただ事実を語ったまで。嘘だと思うなら、他の仲間にでも聞いてみろ!誰があの状況で、外から倉庫を爆破させられる!?それに……お前の相棒は、仲間も守れず無様にやられるような男なのか!?』
「……兄さ……っ」
玄晏の目から涙がこぼれ落ちた。
涙は垂直に、床についた両掌のちょうど真ん中へ落ち、黒い染みを作る。
泣いたのは、それを真実だと確信したからではない。
真実など、どうでもよかった。
────お前の相棒は、仲間も守れず無様にやられるような男なのか!?
たとえ優しい嘘であっても、その言い分だけは、かつての「伯文兄さん」そのものだったからだ。
『もう泣くんじゃない。俺のことは忘れろ……と言いたいところだがな。この世を去った人間にとって、完全に忘れられるのはやはり……少し寂しい。だから、ううん……』
少しの呼吸音のあと、照れくさそうな声が漏れ聞こえた。
『……たまにでいい。名を呼んでくれ。今はそれだけで十分だ』
顔を上げた玄晏の目の前を、ふいに一匹の蝶が、翅をひらめかせ通りすぎていった。
『……じゃあなっ』
ぶっきらぼうな言葉を残し、声は止んだ。
それはこの白音堂でおこなわれた、最後の御声聞きであった。
玄晏は頬を濡らしたまま、それでも口元を緩め
「……さすがの洞察力だが、やはり白菊の足下にもおよばないな。口調がまるで違う」
そう、小さくつぶやいた。
【第一章 完】
お読みいただきありがとうございました。
第二章は【海天楼~人魚が舞う妓楼~】
遊郭潜入ならぬ妓楼潜入編。さらに豪華絢爛で、ギャグやお色気ありな展開になります。
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