第十四話 祈りのような願い
「……あの。そろそろ放してくれませんか」
自分の胸元で声がして、玄晏ははっと我に返った。
教団幹部の白菊を、腕に抱いたままだということを忘れていたのだ。
「ああ失礼───って……ええっ!?」
慌てて両手を上げながら、玄晏は耳を疑った。
白菊の声が、先ほどまで聞こえていたものとはまるで別人だったからだ。
それは若い女にしては低く、けれど心の奥が揺さぶられるような、懐かしい響きだった。
大きな目で瞬きを繰り返す玄晏を見上げながら、白菊は残酷なほど淡々と、己の正体を明かした。
「お察しの通り、“伯文兄さん”を演じていたのは私です。お仲間の推理では、演じ手が女から男へ交代したと言われていましたが、最初から話していたのは私ひとりでしたよ」
「じゃあ、あなたは、もしかして……」
彼女の“違和感”に気づきはじめた玄晏の顔が、だんだんと青ざめていく。
「男です。ですが女にも、時には老婆や赤ん坊にだってなれます」
白菊はそう言って、肩で切り揃えられた黒髪を指先でかきあげた。
白装束の襟は、ちょうど喉仏を隠すようにきっちりと詰められている。
そこからわずかに覗く首筋は、青い血管が透けるほど白く、耳たぶは薄い。形の良い唇はほのかな紅色に艶めいている。
その曖昧で儚げな美しさに、玄晏は思わずごくりと喉を鳴らした。
「───いったい何を信じたらいいの!?」
信者たちのいる座席から、悲鳴のような声が上がる。
白樺が白状したことで、これまで半信半疑だった者たちもとうとう認めるほかなくなった。
「死者の声」など存在しないと。
ある者は教団幹部の胸ぐらを掴み、またある者はおいおいと泣きすがる。
「ねえ。うちの子だけは、本物でしょう?だって……小さな子どもの声だったのよ?」
意外なことに、彼らの目に浮かんでいたのは、怒りよりも懇願。
そして、さらなる陶酔であった。
「いや、これは試練だ。俺はまだ修行が足りないんだ……」
「やはり白冥大士さまは本物だ!仏や神を超える力を持っているから、こうして国から迫害されるんだろう?」
この期に及んでもまだ多くの人間が、白冥大士なる偽りの蝶を信じ、その虚ろな瞳で夢を見続けようとしている。
玄晏は座席を見回し司馬夫人の姿を探したが、どこにも見当たらない。
「夫人なら、あんたの仲間が連れて出ていったぞ」
ようやくひと仕事を終えたという顔の無咎が、閉じた扇で肩を叩きながら言う。
玄晏があらかじめ都から呼んでいた皇城司の増援が、彼女を速やかに保護したらしい。
夫人は、抵抗することなく素直に従ってくれたという。
「きちんと挨拶もできずに、申し訳なかったな……」
口ではそうこぼしながらも、玄晏は内心安堵していた。
自分たちは最初から夫人を欺き、さらにその善意を利用して教団の正体を暴いたのだ。
今さら会わせる顔がない。
夫人は初対面の怪しげな男たちを、まるで息子のように迎えてくれた。
それは、ここが来夢の里という桃源郷であったからに過ぎないのか。
それとも、かつて亡くした息子を彼らに重ねていたからなのか。
どちらにせよ、あの優しい笑顔を思い出すたびに、玄晏の胸の奥には、鉛のような重みがずんと沈み込んでいく。
「なあ。司馬夫人の子息はいくつで死んだと思う?」
ふいに投げかけられた問いに、玄晏は首をかしげた。
「さあ……」
夫人の話からして、かなり早世だろうと推測はできるが、いつどんな理由で亡くなったのかは聞いていない。
「一歳にも満たないそうだ」
「それは、どういう……」
「侍女に聞いたが、夫人が若い頃、腹の中で亡くなったんだ。待望の第一子で、しかも流れ出た後に男だとわかり、夫人はひどく自分を責めたそうだ。まあ、子が流れるのは何も珍しいことじゃないがな」
予想外の事実に、玄晏は言葉を失う。
「つまり子息はまだ目も開かない、口も聞けない赤ん坊だったわけだ。そんな赤ん坊が、たとえ蘇ったとしても、まともな会話ができるわけがない」
しかし夫人は、亡き息子についてこう語っていた。
『他愛もない話です。最近ようやく暖かくなったとか、風邪をひいていないかとか。近ごろのあの子は、私の体を心配してばかりね』
その時の顔は間違いなく、慈愛に満ちた母そのものだった。
────やなぎのわたは 風に舞い
────どこへゆくやら 橋のむこう
────おうちへ おかえり 日がくれた
若い男の声だった。
玄晏と同じ年くらいの青年が、むかし聴かされたわらべ歌を、母のために唄っているような。
少し照れくさそうに、けれど懐かしむように。
「では、いったいなぜ夫人は、あの声を息子だと……?」
腹の中で死んだ我が子だと信じる要素が、何一つ存在しないというのに。
「言っただろう?人は信じたいものしか信じない。『こうあってほしい』という祈りのような願いは、道理や常識を簡単に飛び越える。あんたが別人の声を兄さんと思い込んだように、夫人は聞いたこともない男の声を息子だと信じたかったんだ」
「……」
玄晏は、力なく下ろした両手を震わせ、拳を強く握りしめた。
無咎は呆れたようにため息をこぼす。
「まったく。人間ってやつはつくづく───……」
続けて彼が何と言ったか、玄晏の耳には届かなかった。
けれど来夢の里を出て、山を降りる間、その言葉を何度も、玄晏は自身に問い続けている。




