第十二話 声の真相
「香、炉……?」
無咎が指さした先に、玄晏は首をかしげた。
香炉からただよう煙には何もなかったはずだ。
香炉は丸みを帯びた陶器製で、表面には教団の象徴である白蝶が描かれている。
上面の蓋は外されており、線香と灰がむき出しの状態。
それはどこにでもある、ありふれたものに見える。
無咎は膝を曲げ、改めて香炉の底を指さした。
「この香炉は、一寸のずれも許さぬよう、厳重に固定されている。いつ、誰がここへ跪こうと、香炉は常に同じ場所、同じ角度でここにあるわけだ。たかが香炉の置き場所に、なぜこれほどまでこだわる必要がある?」
香炉の下に敷かれた石の台座は、床板にぴったりと据え付けられて動かない。
さらに台座表面には三つのくぼみがあって、そこに香炉の脚がぴったりとはめ込まれている。
「ここで跪く者の目線に合わせて、線香が見やすいように……ではないのか?」
制限時間を知らせるタイマーとして機能する香炉は、信者から最も視界に入りやすい場所に置かれるべきだ。
そのためには床に目印を描くか、いっそ固定してしまう方が早い。
「それはあくまで表向きの理由。本当の目的は、跪く者の目線じゃなく耳だ。そして一寸のずれもなく固定するのは、声の出どころを隠すためでもある」
無咎が香炉の底部に手を添え、カチリと音を立てた。
そして両手で持ち上げ、横へ置く。
「これは……」
玄晏は覗き込んだ。
香炉の下にあった石の台座には、香炉の脚をはめ込むための小さなくぼみが三つ。
その中心には、ぽっかりと暗いニ寸(6cm強)ほどの穴が開いていた。
「声はこの穴を通して床下から発せられ、一度香炉の中を経由してから信者の耳へ届く。香炉がこの位置に固定されていたのはそのためだ」
無咎が香炉を掲げ、その底を皆に見せた。
床板の穴とほぼ同じ直径の金属輪が、底部から突き出している。
「見てみろ。ただの香炉に、こんなものがついているはずがない」
この金属輪を床穴の中へすっぽりとはめ込むことで、床下から発せられる音を漏らさず香炉内部へ集める仕組みだという。
「しかし無咎どの。声が床下から発せられたとして……人が隠れるほどの空間はなかったはずだ」
「入っているのは人ではなく、声を通す管だ」
無咎は立ち上がり、信者たちへ向き直って声を張り上げた。
「皆もここへ来る前、手洗い場で手を清めただろう。陶器の支柱から竹管が伸びて、そこから水が出ていた。あれは山の上の溜め池から陶管を引いて、ここまで水を流している。その陶管と同じものが、この床の下を通って、声の主のいる別室へとつながっているのさ」
本堂の床下は浅く、人が隠れて声を発することは不可能だ。
しかし声を通すための管ならば、難なく設置できる。
無咎が床穴へ針金を差し入れると、カチカチという音が響いた。
「これは石ではなく陶器にぶつかる音だった。別室の人間が管に向かって声を吹き込むと、音は管を通って床下を伝い、香炉を媒介して跪拝台へ向かって放たれる。反対にこちらの声も、同じ管を通って別室へ届く」
近年は給排水にも耐久性と防水性に優れた陶管が広く使われている。水を漏らさない陶器の管は音も漏れにくく、伝音管として、これ以上の素材はない。
無咎が、再度香炉を皆に見せる。
上部の灰がこぼれ落ち、黒い床板を白く汚した。
「香炉の表面には蝶がいくつも描かれている。しかしよく見ると、蝶の翅の斑点模様だけは、単なる絵ではなく細かな穴が空いている。この穴は、音を外へ放つための放音孔だ」
「香炉にそんな仕組みが……?」
「表面に穴なんて、あった?」
信者たちの声が上がる中、玄晏も先日この跪拝台で目の当たりにした光景を思い返していた。
御声聞きの最中、香炉は常に視界の中にあったはず。
それなのに、誰ひとりその違和感に気づけなかったのはなぜか。
「なるほど……儀式の最中は煙のせいで香炉自体はよく見えない。それ以前に、我々の視線は常に線香へ向いていたから、気づけなかった」
制限時間は、この線香が燃え尽きるまで。
その固定観念が、信者たちの視線を香炉そのものではなく、その上に立つ一本の線香へと集約させてしまったのだ。
さらにこの線香は、早く燃えるよう燃料が多く配合されているため、煙の量も多い。
「その通り。たった一本の線香が、ここにいる者全員の視線を、目の前の真実から逸らさせていた」
無咎はそう言いながら、香炉を耳に当て、表面を指で軽く叩いた。
「内部にはおそらく、角度をつけた金属板が仕込まれている。それこそが、声が“下へ向かってのみ”響く秘密だ」
袂から取り出した針金を香炉の底穴へ差し込み、ゆっくりと動かす。
陶器製のはずの香炉の内部から、金属同士がぶつかり合うキンキンという音が響いた。
「銅だな。円錐形を逆さにしたような形の銅板が入っている」
音の屈折は、光の屈折とほぼ同じ原理。
香炉内の銅板によって鋭く反射した音は下方向へまっすぐ伸び、蝶の模様の孔から外へ放出される。
すると音は常に下へ向かって放たれ、上へは届かない。
だから玄晏が跪拝台で声を聞いていた時、背後に立つ無咎には何も聞こえなかったのだ。
つぎつぎと謎が解き明かされるのを、ぼう然と聞いていた信者たちの中から、ついにある女が疑問を投げた。
「ねえ。理屈は分かったけれど、そんなこと本当にできるの?音がまるで水みたいに、形や方向を変えるなんて話、聞いたことがないし、想像できないわ」
確かに、と他の者たちも困惑の声を漏らす。
水や光と違い、音は目に見えない。
そもそも音に形や方向が存在するなど、私塾はおろか、太学ですら教えていないのだ。
しかし玄晏は、何かを思い出したようにはっとした。
「あ、そうか。だから……」
皆の視線を浴びながら、回想する。
「声が下へ向かってのみ届く。その意味が、ようやくわかった。私は御声聞きの最中、跪拝台で常に頭を低くしていたが、時たま背筋を伸ばし、顔を上げることもあった。するとなぜか、兄さんの声は小さくなった」
黄泉の国から届く死者の声。
であれば音の大きさに揺らぎがあってもおかしくないと、その時は思っていた。
「ああ!俺も同じことがあったぞ」
信者のひとりが同意の声を上げると、周囲からもぞくぞくと声が上がる。
「ぼくもある」
驚くことに、先ほど疑問を呈した女も同じ体験をしていた。
「そういえば、私も……やけに聞こえにくい日があったわ。あの日はたしか、そう。白冥大士さまをじっと見ていた」
「そう?あたしは背を伸ばしても、同じように聞こえていたけれど」
皆がおのれの経験談を語る。が、その内容はさまざまだった。
無咎は彼らの姿をざっと眺めると、満足そうな顔で扇を打った。
「思ったとおりだ。玄晏と同じように『顔を上げたら声が小さくなった』と感じた者は、みな背が高い。反対に背の低いご婦人や腰の曲がった老人は、そのような経験がないようだ。それこそが、声が下にのみ届いていた証拠だな」
信者たちは互いの姿を見ると、ああ、と納得の声を上げる。




