第九話 だまし討ち
翌日、玄晏と無咎は朝早くから本堂へ赴き、座席の最前列から「御声聞き」を見学していた。
目の前に広がる光景は、一昨日とほぼ同じ。
黄泉の国を模した空間に、前方中央で翅を広げる白冥大士像。その隣には、頭に銀の冠をのせた教祖白樺が鎮座する。
その手前にある跪拝台では、昨日知り合った司馬夫人が叩頭している。
玄晏が右隣に視線を移せば、無咎が少し前のめりになって耳を澄ましている。
静寂の中に、司馬夫人の優しい声だけが響いていた。
『ええ、何でもいいの。少しでいい。ああ、嬉しいわ───……』
明るく弾むような夫人の声は、そこでぴたりと止む。
こちらから表情こそうかがえないが、小さな肩の丸みで、彼女が亡き子息の声にじっと耳を傾けている様子が想像できた。
その時
パチ、パチパチ……
乾いて硬質な音が、玄晏の足元で響く。
視線を伏せると、黒い床板の上を、琥珀色の小さな玉がいくつも転がっていた。
「……何だ?これは」
「ああ大変だ。数珠が切れてしまった。拾ってくれ」
抑揚のない声で告げる無咎の手には、珠を失ってただの絹糸となり果てた数珠が、二本も握られている。
「おいおい。何をやってるんだ、こんな時に」
玄晏が呆れ声を漏らすうちに、小粒珠は後方へも転がっていく。
後方の信者たちは、流れてきた琥珀色に気づくと、戸惑いながらも椅子を降り、親切にも床に這いつくばって珠を拾い始めた。
玄晏もしぶしぶ椅子から腰を下ろし、珠を拾い集めていく。ただし、なるべく音を立てぬように。
すると突然、彼の耳に“何か”が聞こえてきた。
“────やなぎのわたは かぜにまい”
「……ん?」
“────どこへゆくやら おかのさき”
「なんだ。この声……」
玄晏は伸ばした手を止め、耳を澄ませた。
“────おうちへ おかえり ひがくれた”
それは、誰もが聞き馴染みのあるわらべ歌。
しかし声は奇妙だった。とても小さくて、くぐもったように聞き取りにくい。
しかもその声音は、小さな子どもでも、子をあやす母親でもない。この歌には似つかわしくない、若い男の声だ。
「この声、は……?」
玄晏は周囲を見渡すが、声の主はどこにも見当たらない。
その不気味な現象に玄晏が困惑していると、周囲の信者たちもまた同じように手を止め、戸惑いを口にしていた。
「なんだ……?」
「何か聞こえるわ」
「ねえ。この声って、もしかして───……」
皆が耳に手を当て、顔をしかめる。
しかしその頃にはもう声は止んでおり、本堂は再び静寂に落ちてしまった。
玄晏や信者たちが立ち尽くしていると、すぐに前方から、白い衣をひるがえした幹部たちが走ってきた。
「早く席について!」
「御声聞きの最中ですよ!」
信者たちは互いに困惑顔を見合わせながら、おそるおそる席につく。
「いったい何の騒ぎですか」
遅れてやってきた筆頭幹部の白菊が、抑えた声で問う。
「ああ申し訳ない。わたしの数珠が切れてしまって。皆さんが協力して拾ってくれたのです」
しんと静まり返るなか、無咎がひょうひょうと答えると、白菊の目が疑わしげに細められた。
「あなた。一昨日は数珠など持っていなかったはずですが」
しかし次の瞬間、後方の出入り口から、別の幹部が駆け込んでくる。
「───大変です!外の水が……止められて……っ!」
「……なんですって?」
驚く白菊の前で、無咎はまたあっけらかんとした顔で言う。
「止めてはいませんよ。竹筒の口に手ぬぐいを差し込んで、音が出ないようにしただけです」
悪びれる様子が微塵もない男を、白菊は不快そうに睨む。
「いったい、何のために」
「雑音は御声聞きの邪魔になるでしょう?」
「戯言はおやめなさい!」
「失礼。本当の理由は、ただ───わたしも司馬夫人のご子息の声を聞いてみたくなったんです。それには、水音が邪魔だったゆえ」
無咎の思わぬ告白に、幹部や信者たちは騒然とする。
「じゃあやはり、今の声は故人さまの……?」
「しかし妙だな。故人の声は、他者には聞こえないのでは?」
疑問を口にする信者らに向かって、無咎は説き伏せるように言い放った。
「今聞こえた歌声は間違いなく、跪拝台で司馬夫人が聞いていた声だ。しかし声の主は、夫人の亡きご子息ではない。教団の誰かが、裏で故人を演じていたにすぎない」
堂内にどよめきが波のように広がった。
その中心で白菊は、静かに下ろした拳を握る。
「これまで“御声”とやらが他者に聞こえなかったのは、単に声が後方座席へ届かぬよう工作されていたからにすぎない。その声があたかも黄泉の国から届く、特別な声だと思い込ませるためにな」
「……っ」
白菊が何か言おうとするより先に、無咎は信者たちへたずねた。
「皆が今座っているその椅子、脚が妙に高いと思わないか」
唐突な問いに、信者たちは戸惑いながらも、つい視線は足元を覗く。
「“御声は、縁者にしか聞こえない”。これは、信者がそう思い込むよう仕掛けられたいかさまだ。その真相は───ただ、“低い位置にだけ聞こえる”だけだ。跪拝台を見てみろ。あそこは床より一段低く、祈る者は自然と頭を垂れる。耳の位置が低いから御声がよく聞こえ、反対に、耳の位置が高い我々には聞こえにくいというわけだ」
信者たちの椅子は、わざと高く作られている。彼らの耳を御声から遠ざけるために────無咎はそう自信たっぷりに断言すると、騒然とする座席の最後方へ声をかけた。
「椅子と言えば────陳どの。あなたは一昨日、うちの玄晏の御声聞きの最中に椅子から転落したが、その時に御声は聞こえたか?」
いきなり話をふられた陳が、髭をたくわえた顎をかきながら答える。
「い、いや……どうだったかな。あの時はとにかく驚いてしまって、音を気にする余裕はなかったから」
予想通り、とでも言うように無咎はふっと口元をゆるめた。
「陳どのは直前まで居眠りをしていた。くわえて一昨日は、外からの水音という邪魔もあった。御声に気づけなかったのも当然だな」
居眠りを堂々と暴露され、陳は顔を赤くし体を縮こめる。
「さらに陳どのは運悪く、床に転がった後なかなか立ち上がれなかった。玄晏の御声聞きが早々に打ち切られたのは、そのせいだ」
「え、何だと?」
思わず声を上げた玄晏。
そんな彼に向かって、無咎は開いた手のひらを差し出した。そこには白い灰に包まれた、薄茶色の細く短い線香が載っている。
「これはあんたの御声聞きが終わったあと香炉に残っていたものだ。線香が燃え尽きずに、二寸ほど残っている」
玄晏は目を丸くした。
燃え残った線香───それは、彼の御声聞きが終了した時点で、まだ制限時間が残っていた証拠である。
「で、ではあの時兄さんの声が急に止んだのは……単なる時間切れではなかったと!?」
「ああ。あの時、陳どのは転んで姿勢を低くしていた。水音による妨害はあるものの、このままではいずれ伯文兄さんとやらの御声を聞かれ、今日のようにいかさまが露呈する恐れがあった。陳どのはもともと教団に懐疑的だったから、教団側もよけい慎重になったんだろう」
御声を他者に聞かせぬよう、教団は常に細心の注意を払っている。
信者の耳を御声から遠ざけるとともに、万が一その仕組みが崩れた場合は、即座に御声を止めるのだ。
その推理はたしかに筋が通る。だからこそ玄晏には新たな疑問が生じた。
「しかし……先ほど我々が椅子を降りて這いつくばった時、御声はしばらく聞こえたぞ?なぜ陳どのの時のように、すぐ声が止まなかった?」
「教団は止めようとした。だが、すぐには止められなかった。声の主がこの事態に気づくのが遅れてしまったからだ」
玄晏の脳裏に、先ほどの奇妙な御声が蘇る。
「……歌、か」
無咎はうなずいた。
「御声の主は、本堂の中にはいない。離れた別室にいて、こちらから届く声だけを頼りに本堂の様子を知り、自分の声も同じように遠くから届けている。不測の事態が起こった時は、本堂にいる仲間の指示にしたがって御声を止める手筈だったが、今日は運悪くその指示に気づけなかったんだろう」
ふつう人は喋っている間、周囲の音が耳に入りにくいもの。ましてや離れた場所から届く声ならば、注意深く耳を傾けねば聞こえない。
一度歌など歌い始めたら、指示に気づかないのは当然である。
そこまで言うと、無咎は皆の方を向きなおった。
「先ほど司馬夫人は、ご子息に『昔聞かせた歌を何か歌ってほしい』と伝えておられた。しかし別室にいる“声の主”は、母子の思い出など持ち合わせていない。だからこそ、誰でも知っていそうな古いわらべ歌を選んだようだな」
夫人にそう頼むよう仕向けたのが、他でもない無咎であることは明白であった。




