第八話 本堂調査【挿絵】
調査のため再び足を踏み入れた本堂は、鮮やかな壁画に囲まれながらも、冷たい静寂に包まれていた。
無咎は跪拝台の縁に腰を下ろし、前方に向かって声を上げる。
「そういえば昨日、ここで耳は塞いだのか?」
その視線の先、御神体のあたりから玄晏が答える。
「ああ。貴殿に言われたとおり、御声聞きの際に少しの間、両耳を塞いだ。声は聞こえなくなった」
「そうか。であれば幻聴の線は完全に消えたな。声は確実に“音”として耳に届いている」
「しかし……その“音”は、私にしか聞こえなかった」
「わかってるさ。その仕組みを今から見つけるんだ」
無咎は跪拝台の中へ降りると、片手をあげて合図する。
「いいぞ。鳴らしてくれ」
玄晏が、手に持った引磬を打ち鳴らすと
チーン──────……
細長い金属音が、しんと静まり返った堂内に響き渡る。
無咎は音を確かめるとすぐに立ち上がり、今度は跪拝台の後方へ移動して、また耳を澄ます。
「昨日、俺はここに立っていたが、声は聞こえなかった。だが目の前の跪拝台にいたあんたには聞こえていた。つまりこの本堂は、場所によって音の聞こえ方に違いがあるわけだ」
金属音の余韻が、まだかろうじて空気を震わせるなか、玄晏は問いかける。
「もしかして今、そこでは音が聞こえないのか?」
期待に反し、無咎は肩をすくめた。
「残念ながら、同じように聞こえる。ためしにもう一度鳴らしてくれ」
再び金属音が響く。
無咎は跪拝台とその周囲を何度も往復する。
それから跪拝台から離れ、本堂内部をくまなく移動した。
しかし
「だめだな」
もちろん、距離によって音の大きさに違いはあれど、ある場所を境に突然音が消える、という極端な現象は生じない。
再び跪拝台へ戻ってきた無咎は、天井を見上げて深く息を吐いた。
「見ろ。この真上は丸いすり鉢状になっているだろう?こういう天井は、音を中央に集めて、下にいる人間に音を聞かせやすくする」
玄晏も頭上を仰ぎ見た。
確かにそこは、ぽっかり穴を空けたように広がっており、中は幾何学模様の彫刻が施されている。
「そうなのか?」
「ああ。これ自体は珍しくない。格式高い寺院ならよく見られる天井だが、ここのは何か特殊な構造なのかと踏んだんだがな」
藻井と呼ばれるこの天井は、たしかに白音堂で、御声を聞かせやすくする役割を担っているのだろう。
ただ、『跪拝台でしか聞こえない』という御声の秘密そのものは、隠されていないようだった。
「建物全体の音の響き方ではない。となれば、声の届け方に秘密がある。声の発生元は跪拝台のすぐ近くだった。ということになるが……」
「私からいちばん近かったのは……教団幹部たちだ」
無咎はうなずくが、表情は曇ったままだ。
「昨日、奴らを注視していたが、皆口を閉じていた。それに、もし声の主が幹部だったら、俺が立ち上がった時に聞こえないのはおかしい。あの時、跪拝台のあんたよりも俺の方が幹部席に近かった」
彼らは次に、声の主の居場所を探ることにした。
壇上の御神体や祭壇、衝立など、何かを隠せそうな場所を順に調べたが、怪しげな箇所は見当たらなかった。
「“声の発生元”と“声の主”が同じとは限らない。だが声は一方的ではなく、信者と会話が成立していたことをふまえると、主は本堂のどこかに隠れていた。と考えるのが自然だが……」
無咎の言葉が、どこか煮え切らない。
「大丈夫か?無咎どの」
「……ああ。ただ、昨日の教祖の反応が少し引っ掛かっていてな」
教祖白樺が鎮座していた台座を見上げながら、無咎は吐露する。
「昨日、俺が勝手に跪拝台に近づいた時、教祖は止めなかった。仮にどこかに声の主が隠れているなら、死に物狂いで阻止するはずだろう」
彼が言うには、その時の教祖白樺は、顔に余裕の笑みさえ浮かべていたという。
「絶対に見つからない自信があった、と?」
「ああ。声の主は、俺がどこを歩こうと絶対に見つからない場所にいた。たとえば────ここだな」
無咎は床に這いつくばると、懐から一本の針金を取り出し、床板の細い隙間へすべり込ませた。
針金はスルスルと吸い込まれていったが、やがて「カチッ」と硬質な音を返して止まる。
それから無咎は首をかしげながら、何度も床下をつついた。
「どうした無咎どの。何かあるのか?」
「いや……。たしかに床下に隙間はある。だがせいぜい拳二つ分くらいだな。鼠や猫なら隠れられるだろうが、人間はとても入れない」
無咎は針金を抜き、付着した塵を指で払うと、小さくため息をつく。
「誰にも見つからない場所といえば、床下しかないと思ったんだがな」
「そう、か……」
玄晏はそう答えることしかできない自分が不甲斐なく、肩を落とした。
「すまない。私はなんの役にも立てず……」
ここで自分がしたことと言えば、御声聞きでみっともなく泣き、飯を食らい、今日にいたっては引磬をチーンと鳴らしただけ。
これなら、子どもにだってできる。
ひとまず調査を中断したふたりは、後方の座席へと移動した。
黒い木製の椅子に腰を下ろすと、無咎が何気なく言う。
「そういえばこの椅子、妙に高いと思わないか」
「そうだろうか?」
「……あんたに聞いた俺が馬鹿だった」
六尺(180センチ)を超える玄晏を見上げ、無咎は軽く舌打ちする。
───言われてみれば、少々高い気もするな……。
現に小柄な司馬夫人は、座ると足がわずかに床から浮いてしまっている。
女性や子供など、腰を下ろすのにもひと苦労だろう。
「そういえば、昨日ここで椅子から転落した信者がいたと聞いたが」
玄晏は、昨夜食堂で小耳に挟んだ話を思い出した。
その転落事故があった時、彼は「御声聞き」の最中であったため、背後で何がおきたか全く知らないのだ。
「ああ。さっき下で会った陳氏が、居眠りをしていてな。怪我はなかったようだが、もっと脚の低い椅子にしておけば、ああいう事故もなくなるものを」
陳氏は自分の父親から「何か」を聞き出すことしか頭になかった男だ。
他人の参拝中に居眠りをし、あの丸々とした体で床に転がるさまは、玄晏にも容易に想像できた。
しかしそんな彼が、今日になっていきなり信者へ変貌するとは、夢にも思わなかったが。
「ちょうどその時だな。あんたが『兄さんの声が聞こえない』と言って、子どもみたいに喚きだしたのは」
からかうような口ぶりに、玄晏は慌てて反論した。
「ただ驚いただけだ。あの時はまだ話の途中で、急に兄さんの声が止んだので」
笑っていた無咎が、とたんに顔をしかめる。
「急に……?」
かと思えば袂から扇をとり出し、こめかみに添えると、そのまま目を閉じ思考の海に沈んでいく。
玄晏には、その深刻な反応がいまひとつ理解できなかった。
「どうした。『御声聞き』には制限時間があるのだろう?線香が燃え尽きるまでという」
たしかあの時、壇上の白樺も「時間切れじゃ」と言っていた。
それを考慮すれば、声が急に途切れたことを特段おかしいとは思わない。
「おい。無咎どの……?」
「……」
それでも反応しない無咎に、玄晏はあきらめて話題を変えた。
「聞こえないといえば、ここだと外の水音がやけに響く。前方では全く聞こえなかったが」
入口の外にもうけられた手洗い場。
そこから流れ続ける水の音が、静寂の中に響いていた。
無咎は心ここにあらずといった表情ながらも、律儀に反応する。
「……『御声聞き』の場だからな。水の音は跪拝台には届かないよう工夫されているんだ……ろ……」
と言いかけて、はっと目を見開いた。
「水の、音……?」
独り言のように呟いたと思えば、急に立ち上がって、外へ繋がる戸口へ向かう。
「おい、どこへ行くんだ」
玄晏が彼を追いかけて本堂を出ると、無咎は手洗い場の前に立っていた。
「御声聞きに、雑音は厳禁。それなのに、なぜ教団はこんな場所へ、音の出る水場をつくった?」
「それは、手を清めるためだとか何とか……」
玄晏はそう答えるが、改めて考えると、ぬぐえない違和感が生じる。
手を清めるだけならば、大きな甕にでも水を溜めておけばいい。
わざわざ水を流しっぱなしにする必要があるのだろうか。
無咎は、竹管から絶えず流れ落ちる水を凝視する。
そして今度は堂内へ戻り、中央の跪拝台へと一直線に駆け出した。
「おい、走るとまた────」
案の定無咎はつまずき、そのまま床へ滑りこむように転んでしまった。
「大丈夫?無咎さん……」
思わず立ち上がって駆け寄る司馬夫人に対し、無咎は床に伏せたまま、人差し指で前方を指し示した。
「……夫人。この香炉はいつもこの場所に?」
跪拝台の前に備え付けられた、陶器の香炉である。
香炉と床板の間には、灰色の四角い石台座が敷いてあった。
「え……ええ。線香が燃え尽きるまでの様子が、跪拝台から見やすい場所に置いてあるようですよ」
「もしかして、この台座は床に固定されているのでは?」
「そうね。そこに台座を固定しておけば、香炉の置場所の目印になるから……だとわたくしは思うけれど。あまり気にしたことはなかったわ」
「やはり。そうですか……」
這いつくばったまま顔だけ上げた無咎は、鼻を押さえながら香炉をまじまじと眺める。
「いったいどうしたのだ。あれには何も問題なかったのだろう?」と玄晏。
香炉から立ち込める線香の煙には、幻聴作用を引き起こすようなものはなかったと、無咎自身が言っていた。
「ああ。香炉の煙にはな」
そう言うと無咎は、這うようにして跪拝台へ降り、床に膝をつける。
そして顔を上げ、精巧な白蝶の文様が彫り込まれた香炉の表面を、食い入るように見つめた。




