第九話
「どういうこと?いったい何があったの……」
跪拝台の中では、先ほどまで息子の声に耳を傾けていた司馬夫人が、とり残されたように困惑の声を漏らした。
「夫人。驚かせたことをお詫びいたします」
無咎は拱手し深々と頭を下げる。
そして、彼らが都から来た商人というのは嘘で、ある人物の命により、この教団の闇を暴くために派遣された調査員であることを明かす。
なおも状況を呑み込めない夫人へ、玄晏が静かに歩み寄った。その掌には、隠し持っていた皇城司の佩玉が鈍い光を放っている。
「主はこの白音堂で、本当に死者の声が聞こえるのか調査せよと仰せでした。しかしその真意は、あなたを貴妃さまのもとへ連れ戻したいという思いでしょう」
「ああ……」
貴妃の名を出したことで、彼らの主が誰なのか夫人も理解したようだった。
玄晏は夫人の体を支え、信者たちの集まる座席へと案内する。
「言いがかりはおやめなさい」
堂内には白菊の静かな、しかし強い声が響いた。
「故人の御声が、参拝者おひとりにしか聞こえないなどと、我々がいつ申し上げましたか? 現に白樺さまにはすべてが届きますし、私にさえ聞こえることもございます。御声が誰に届くかは、聞き手の修行や特性、そしてその折の気の流れによるもの」
白菊は乱れた衣を整え、一点の曇りもない聖者の顔でこちらを見据えた。
「つい一昨日来たばかりの部外者が、妄言をもって神聖な儀式を汚すとは。……万死に値する無礼ですよ」
彼女の毅然とした態度に呼応するように、不安に揺れていた信者たちも口々に無咎を非難しはじめた。
「白菊さまの言うとおりだわ!」
「俺たちを馬鹿にしてるのか?」
「御声が嘘なわけないわ。私が聞いたのは姉の声だったし、私たちしか知り得ない話をしていたもの」
最前列の女が立ち上がって叫ぶも、無咎は冷静に切り捨てる。
「単純な話だ。あらかじめ聞き出した情報や、提出させた伝え書きをもとにしている。それとも、あなたはこの里で死んだ姉について一言も話していないのか?」
「それ、は……」
女は悔しげに唇を噛み、腰を下ろした。
「待ってくれ。私は伯文兄さんのことを一切話していないし、伝え書きにも記していない。兄さんのことは私しか知らなかったのだぞ?」
たまらず口を挟んだ玄晏を、無咎はじろりと睨みつけた。
「……あんた。一体どっちの味方だ」
「う……。す、すまない」
玄晏はつい己の役割を忘れ、まるで観衆のように無咎の推理に呑み込まれてしまったのだ。
まるで叱られた犬のように肩をすぼめる相棒に、無咎はあきれたような吐息を漏らした。
「まあいいだろう。実は情報がなくとも、故人を演じることはできる。ここで証明してみよう」
無咎にうながされ、玄晏は一昨日と同じように、跪拝台の中で小さく膝を折った。
「あんたの『伯文兄さん』の第一声はどんな言葉だった?」
そして、正面に立って腕を組む無咎の質問に答えていく。
「……細かな口調は定かではないが、『そこにいるのは誰か』と聞かれた」
「それで、あんたは何と答えた」
「『私だ。玄晏だ』、と」
無咎は「やっぱり」と言わんばかりにうなずいた。
「互いの姿が見えない以上、『私だ』とだけ言っても相手にはわからない。あんたは最初に名乗らざるを得ないわけだ」
そう言うと、無咎は軽く目を閉じる。
まるで、これから寸劇の幕が上がるといわんばかりに。
「“玄晏……”」
いつもと違う声色で名を呼ばれ、玄晏は戸惑いながらも、何とか当時を再現する。
「伯文……兄さんか?」
「“ああそうだ。まさかお前がここに来るなんて……。何か聞きたいことでもあるのか?”」
「……」
玄晏は言葉を失った。一昨日、この場所で繰り広げられたやり取りと、一言一句同じだった。
「掴みはこんな感じだろう。互いの顔が見えないという状況を逆手にとって、まず自分と相手の名前を引き出す。そして再会の感動に浸る間も与えず、『何か聞きたいことでも?』と、すぐに本題へ誘導するわけだ」
御声聴きには制限時間がある。
目の前で小さくなっていく線香を見れば、信者も自然と急かされる気持ちになり、相手が本物かどうか確かめる余裕もなくなる。
「しかし声色はどうする?俺は伝え書きには『死んだ母親と話したい』と書いたのだぞ。教団が演じているのだとしたら、まずは女の声がするはずだろう」
「最初に聞こえたのは、本当に男の声だったのか?年齢はどのくらいだ?」
「それは……」
「あんたも言っていただろう。『はじめは遠く、くぐもっていてよくわからなかった。話をするうちに、だんだんと兄さんの声に近づいていったような気がする』と」
無咎の言うとおりだった。
玄晏の耳にはじめて届いたのは、かなり聞き取りにくい、ある意味人間離れしたような声。
それがあたかも、ここではないどこか遠く、まるで黄泉の国から届いたように感じられたのだ。
「たとえば年配の女の声というのは、聞きようによっては男の声にも聞こえる。似たような声で喧嘩をする年配の夫婦を、一度くらい見たことがあるだろう」
「では、私が聞いたのは…… ?」
「最初に聞いたのはおそらく、年配の女の声だ。演じ手は最初、伝え書き通りにあんたの「母親」を演じていたんだ。しかしあんたはそれを、心の奥底で求める人間────つまり『伯文兄さん』の声と錯覚した。向こうの演じ手はあんたに『兄さん』と呼ばれたことで、女から男へと交代したのだろう」
無咎はその場でゆっくりと膝を折り、閉じた扇を玄晏の目の前に差し出した。
唖然とする玄晏の顎を、扇の先端でくいと持ち上げる。
「つまり伯文兄さんとやらの声は、あんたが自分の中で勝手に作り上げたんだ」
そう囁く無咎の声もまた、玄晏の耳の奥を甘く揺らした。
しかし────
「すべて、あなたの推測にすぎません」
そばで聞いていた白菊が、なおも冷たく反論する。
「『そうかもしれない』という推測を積み上げ、さも真実であるかのように吹聴する。皆さんの心を巧みに操作するあなたの方が、よほどの策士に思われますが」
「策士、か……」
無咎は信者たちをゆっくりと見渡した。
「では聞いてみよう。皆は、故人とどのような話をするためにここへ来た?死後の暮らしについてたずねるため?それとも懺悔だろうか」
急に問われた信者たちは、戸惑いを浮かべた顔を見合わせた。
「それに、何の関係が?」
一見脈略の無さそうな問いに、玄晏も疑問の声を漏らす。
「一昨日から今日にかけて、食堂や宿舎で十数人の信者に話を聞いた。どうやら彼らが最初の御声聞きで故人にたずねる内容は、数例に限られるようだ。それこそが白音堂による印象操作のたまもの。この教団が策士の集まりだという証拠だろう」
無咎は扇を開き、その陰から信者たちを眺めながら続けた。
「最も多いのは『黄泉の世界はどうだ』というものだった。これには『快適だ』などと適当に答えれば良い」
初めからそうたずねるつもりだったというよりは、いざ故人の声が耳に飛び込んできて、咄嗟にそう口にしてしまった者が多かった。
この質問は、演じ手にとっては最も都合がいい。
人の死後について知る者など存在しないので、どれだけ口から出まかせを語っても怪しまれることはない。
黄泉の国について長々と語って聞かせてやれば、そのうち時間切れとなる。
「次に多いのは、故人への懺悔。玄晏、あんたもそれだな」
「……ああ」
「懺悔には『許す』。どんな過ちを犯した者に対しても、一切咎めずただ許せばいい」
玄晏は腑に落ちないといった様子で眉をひそめた。
「私の場合は、確かにそうだった。しかし、いくらなんでも『許す』が全ての人に通じるわけがないだろう」
あの時聞こえた伯文の声は、確かに彼を「許す」「気にするな」と言い、玄晏はそれを彼だと信じた。
しかしそれは、自分達が皇城司という、常に命の危機に晒される立場にあったこと、そして何より伯文の性根が特別優しく、おおらかだったからにすぎない。
すべての故人が、彼のように聖人君主であるわけがない。死んでもなお相手を諌めたり、罵倒するような者もいるはずだ。
しかし無咎は、主張を曲げない。
「どんな大罪人でも、本人しか知り得ない事情を抱えている。だから皆こう思うのだ。『自分だけは許されるのではないか』と」
無咎は扇を静かに閉じた。
「仮に、殺人犯がここに現れ、殺した相手の声を呼び出したとする。その声が『許す』『仕方なかったことだ』と言う。端から見ればあり得ない話だが、殺した本人だけは信じてしまうだろう。懺悔する者は、最初から許し以外を求めていないからな」
堂内にざわめきが広がる。
玄晏は黙って信者たちの顔を見回した。
この中の何人かは、自分と同じように故人から『許された』人間なのだと、直感した。
「それから、故人の死因を調べるためにここを訪れた者も少なくないようだ。何者かに殺された者、自殺者、不慮の事故で亡くなった者に対し『あなたを殺したのは誰か』『なぜ死を選んだのか』『どのような事故だったのか』と聞く」
「さすがにこれは、人によって答えはさまざまだろう」
「いいや、これも答えはひとつだ」
「……ひとつ?」
「『自分にもわからない。気がついたら死んでいた』」
「……は?」
あまりにも簡単で、かつ軽薄な答えに、玄晏や信者たちは耳を疑った。
「もちろん疑問は残る。しかし故人が苦しまずに逝ったとわかれば、遺族は少なくとも納得する。殺しや自殺だと思っていた事件が、実は不慮の事故だったと胸をなでおろす者も多いだろう」
「そんな曖昧な答えを、本当に信じるのか」
無咎は自信たっぷりにうなずいた。
「信じるさ。他人を演じる秘訣は正確さではなく、『聞き手が最も望む答え』を与えてやることだ。あやしげな宗教にまですがる遺族にとって、『故人は苦しまずに死んだ』───これ以上の喜びはない」
堂内が静まり返った。
誰も反論しない。
否定したいのに、言葉が出てこないようだった。




