第6話 六時までの明日
預かり保育は、午後六時まで。
千春は案内の同じ行を、三度読んだ。
仕事の手帳を隣へ置く。月曜、水曜、金曜は客先対応。火曜と木曜は社内で資料を作る。毎日五時から、進捗を確認する定例があった。
定例が終わってから駅まで歩き、電車に乗る。
遅れずに着いても、迎えには間に合わない。
航平がいなくなったあとの一週間は、今までと同じ予定のままでは回らなかった。
夫に出ていってほしい。
けれど、明日からいなくなられては困る。
その二つを同時に考えなければならないことが、千春を疲れさせた。
全部を変えるのは無理でも、二日なら。
火曜と木曜の欄を指でなぞった。
家に帰ってから夜中にすべて埋め合わせるのでは、湊が体調を崩した日に続かなくなる。
まず相談しよう。断られたら、別の方法を考える。
千春は上司の佐久間宏之へ、短い連絡を入れた。
『明日、勤務時間のことでご相談できますか』
送ってから、しばらくスマートフォンを握っていた。
任されたばかりの案件を、続けられなくなるかもしれない。
それが怖くて、相談する文章を何度も書き直していた。
*
数日後、千春は封筒を抱えて法律事務所を訪ねた。
入口には、弁護士、宮本智子と書かれている。
こういう場所へ来るのは初めてだった。
何をどの順番で話せばよいのか分からず、家計のメモと、夫とのやり取りを印刷した紙を何度も並べ直した。
「離婚することになって。何から決めればいいか、分からなくて」
「まず、今いちばん気になっていることから伺ってもいいですか」
宮本にそう尋ねられて、千春は少し息をつけた。
「今の家に、私と湊が住み続けたいです」
毎朝靴を履く場所も、帰り道も、一度に変えたくなかった。
園で陸と会えると伝えたとき、湊はほっとした顔をした。大人の事情で変わらずに済むものは、できるだけ残したかった。
「そのことは、ご主人にも話されましたか?」
「はい。自分が出ていくと言っています。ただ、お迎えが……」
話していると、また迎えのことに戻った。
こんな細かいことまで聞いていいのかと思ったが、宮本は遮らなかった。
退去日はまだ決まっていないこと。預け先が見つかるまでは航平が家にいること。
一つずつ確認されるうちに、決まっていることと、決めていないことが分かれていった。
印刷した紙に、航平の言葉があった。
『離婚してほしい。莉奈と暮らしたい』
口で聞くのとは違い、読み返しても消えない。
千春はその一行を見ながら言った。
「私、二人に慰謝料を請求したいです」
お金を受け取れば、なかったことにできるわけではない。
それでも、航平たちが次の生活へ進むために、千春だけが何も言わず片づけるのは違うと思った。
「分かりました。こちらの資料を、お預かりしてもいいですか」
「お願いします」
封筒を渡した手は、少し震えていた。
宮本は資料を受け取り、今後の相談で決めていく項目を紙に記した。
千春はその紙を折らずに、かばんへ入れた。
*
職場の会議室で、千春は予定表を佐久間へ見せた。
「火曜と木曜は五時に退社させていただけないでしょうか。息子の迎えがあって」
「五時か。夕方の定例はどうしようか」
当然、そこが問題になる。
千春は用意してきた紙をもう一枚出した。
「資料を先にお渡しして、引き継げないでしょうか。結果は議事録で確認します」
「代わってもらえるか、チームにも聞いてみよう」
「朝の集計は私がやります。今の案件も、引き続き担当したいです」
最後の言葉だけ、少し強くなった。
家が変わるからといって、積み重ねた仕事まで手放したくはなかった。
ただ、願うだけでは他の人の負担が増える。そのことも分かっていた。
「分かった。一度、みんなで予定を確認しよう」
佐久間はすぐに全部を約束しなかった。
それでも、考える席を作ってくれた。
千春は頭を下げた。
*
園の掲示板に、送迎と、保護者が帰宅するまでの預かりについての案内があった。
千春はスマートフォンで写真を撮った。
家に戻って問い合わせると、利用する時間や場所の相談に加え、まず担当者と息子が会う機会を作れるという。
「月曜、水曜、金曜に、園のお迎えから私が帰るまでお願いしたいんです」
電話を切ったあと、手帳の空白に丸をつけた。
決まったわけではない。けれど、今まで空いていた欄に、連絡先を書けた。
休日、保育支援の担当者が家を訪ねた。
名札には、永井早苗とある。
「永井です。よろしくお願いします」
「高梨です。息子の湊です」
湊は千春の隣で、恐竜のパズルの箱を膝に抱えていた。
知らない大人が来ると聞いてから、何度も母親の顔を見ていた。
永井は急いで距離を詰めず、箱の絵を見た。
「恐竜、好きなの?」
「うん」
「私にも、見せてもらっていい?」
湊は少し考えて、ふたを開けた。
緑色のピースを永井が手にすると、それはしっぽだと教えた。
首の長い恐竜が少しずつつながっていく。
千春は二人を見ながら、相談する時間や帰宅までの過ごし方を確かめた。
翌週は、園から一緒に帰る練習をした。
門の前で待っていた永井を見て、湊は千春の手を引いた。
「恐竜の人」
「覚えていてくれたのね。今日はママと一緒に、おうちまで歩こうか」
三人で歩く道は、湊がいつも父親と帰っていた道だった。
千春は息子へ話した。
「今度から、ママが遅い日は永井さんと帰ろうね」
「ママは、あとで帰ってくる?」
「うん。帰ってきたら、今日の話を聞かせて」
湊は足元の石を避けて歩いた。
少し進んでから、顔を上げる。
「じゃあ、パズル作って待ってる」
千春は、うん、と答えた。
手帳の空いていた欄に、永井の名前を書けるようになっていた。





