第5話 あの朝、終わった
「うん」
航平は、否定しなかった。
千春は夫の顔を見ていた。聞いた言葉の意味が、まだうまく頭へ入ってこない。
「いつから」
「……数か月」
「体の関係も?」
「……ある」
膝から力が抜けた。
千春は食卓の椅子へ座った。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
「ごめん」
夫が謝っている。
けれど、何に対しての謝罪なのか、すぐには分からなかった。
二人で会っていたこと。関係を持ったこと。それとも、今まで隠していたことだろうか。
「公園に行くって言って、湊も連れて会いに行ってたんだ」
「子どもたちも、遊びたがってたし……」
「そういうことじゃないでしょ」
強い声を出した途端、喉が痛んだ。
食卓には、まだ湊の空の皿があった。カレーを少し残したふちに、スプーンが載っている。
「湊のことは、任せて大丈夫だって思ってたのに」
迎えの時間に時計を見ても、安心していられた。
今日もパパと公園へ行った、と息子が言うたび、よかったねと笑えた。
その時間に何が起きていたのか、千春だけが知らなかった。
「湊もいるのに。どうして、そんな……」
涙が落ちた。
航平は近づいてこなかった。
千春は目元を拭き、顔を上げた。
「終わらせて」
それでも、まだ間に合うと思いたかった。
怒って、泣いて、何度も話し合って。すぐには元に戻れなくても、夫がここに残るなら。
「もう会わないって、陸くんのお母さんに言って」
「……それはできない」
千春の手が止まった。
「どういうこと?」
「莉奈と暮らしたい。離婚してほしい」
「……莉奈、って」
航平が目をそらした。
千春にとっては、まだ陸くんのお母さんだった人を、夫は名前で呼んだ。
こちらの知らない距離が、その呼び方の中にあった。
「もう、そこまで決めてたの?」
「……うん」
「私、お給料のこと謝ったよね」
「うん」
航平が傷ついたことを、なかったことにはしていない。
だから謝った。もう一度ちゃんと話したかった。
「それから、少し戻れたと思ってた。休みの日も、普通に話してたし……」
友達と出かけてきたら、と言った日のことを思い出した。
夫は楽しそうに帰ってきた。湊が図書館で借りた本を広げ、三人で表紙を見た。
「あの間も、会ってたの?」
「会ってた」
食卓の端に、湊の誕生日の写真がある。
ケーキの前で、三人が笑っていた。
あの日の自分は、写真を見せてもらいながら、いい顔で撮れたねと言っていた。
「もう、私のこと好きじゃないの?」
答えを聞く前から、泣きたくなった。
航平の口から出たのは、また、ごめん、という言葉だった。
「もういい。今は顔、見たくない」
千春は立ち上がった。
寝室まで歩く途中で、膝が震えた。
湊を起こさないように扉を閉める。それだけは、失敗したくなかった。
*
翌朝、千春は早く目が覚めた。
ほとんど眠れていないのに、息子の支度をする時間だけはいつもどおりやってきた。
航平が湊を玄関へ連れていく。
千春は廊下で、二人の声を聞いた。
「パパ。ぼくが言ったから?」
「何を?」
「陸くんちのこと。ママ、泣いてた」
千春は足を止めた。
「違う。湊のせいじゃない」
「パパが内緒って言ったのに、ぼく……」
玄関で、湊が航平の服の裾をつかんでいた。
青い紙飛行機を見せてくれたときと同じ手が、今は父親を引き止めるように布を握っている。
「内緒って、何?」
航平がこちらを見た。
「あとで話す」
「湊に黙ってろって言ったの?」
「俺から話すつもりだったんだよ」
千春は夫の横を通り、湊の前にしゃがんだ。
「ママ、湊に怒ってないよ」
「でも、泣いてた」
「パパとけんかしちゃったの。湊のせいじゃないよ」
湊は千春の目を見た。
信じてもいいのか、確かめているようだった。
「陸くんと、遊べなくなる?」
「幼稚園で会えるよ。今日も一緒に遊んでおいで」
小さな肩が、少し下がった。
そのあとで、湊はためらいながら言った。
「パパ、陸くんのママといつもくっついてた」
千春は一瞬、何も言えなくなった。
湊が、その沈黙におびえた顔をした。
「……言っちゃだめだった?」
千春は息子を抱き寄せた。
何も知らないこの子に、話していいことと、話してはいけないことを選ばせていた。
千春が泣いたのも、自分のせいだと思わせていた。
「ううん。ママには話していいんだよ」
背中をゆっくりなでる。
怒りはあった。けれど、今それを見せれば、湊はまた言ったことを後悔する。
千春は顔を上げ、航平へ言った。
「今日は私が送る。仕事には連絡するから」
*
その夜、千春は食卓で夫と向かい合った。
「なんで、湊に口止めなんかしたの?」
「……ごめん」
「自分のせいでママが泣いてるって、思ってたんだよ」
「俺から、もう一度ちゃんと話す」
航平の言葉を聞きながら、千春は目元を押さえた。
昨夜は、別れてほしくないと思っていた。
夫に選び直してもらうことばかり、考えていた。
「私、昨日はまだ、やり直せると思ってた」
夫から返事はなかった。
「でも、もう無理。離婚しよう」
航平は少し黙り、分かった、と言った。
その肩から、力が抜けた。
千春は見てしまった。
自分がやっと口にできた言葉を、夫は待っていたのだ。
「俺が出ていくから。ここは二人で使って」
「……うん」
「湊には、会わせてくれるよな」
「会う日のことも、話さなきゃね」
「うん。引っ越しは、いつ頃がいい?」
千春は夫を見た。
「待って。そんなこと、まだ考えられない」
迎えも、勤務時間も、お金のことも決まっていない。
航平は、預け先が見つかるまでは家に残ると言った。
「絶対、あの人のところに連れていかないで」
「分かった」
千春は食卓を離れた。
隣の部屋で、航平はスマートフォンを開いた。
『離婚してくれるって。湊の預け先が決まるまでは家にいるけど、そのあとは出ていく』
莉奈から、よかった、と返事が来た。
同じ家の中で、千春は翌週の仕事の予定を、一日ずつ書き出していた。





