第7話 二十四万円の新生活
神崎誠司が帰宅したとき、食卓に封筒が置かれていた。
宛名は、妻の莉奈になっている。
「誠司。話があるの」
莉奈は書類を夫の方へ押した。
高梨千春代理人、弁護士宮本智子。その名前の下に、航平との不貞行為について記されていた。
誠司は書類を持ったまま、しばらく黙っていた。
「高梨さんと、関係があるんだな」
「……うん」
「湊くんのお父さんだろ」
「最初は、迎えのあとに話してただけ」
莉奈は、二人で公園にいた頃のことを話しかけた。
誠司はその先を聞いた。
「今は?」
「一緒に暮らしたいと思ってる」
誠司の体が、ゆっくり椅子の背へ沈んだ。
莉奈はその顔を見るのが怖くなり、手元へ目を落とした。
「誠司が、もっと家にいてくれたら……」
「こっちは、遊んで遅くなってたんじゃないんだぞ」
「分かってる。でも、寂しかったの」
「だから、この人と?」
莉奈は答えられなかった。
寂しかったことは本当だった。夕方から寝かしつけまで誰とも話せず、食事を温め直しながら夫を待っていた。
そのことを、今なら分かってほしいと思った。
けれど、誠司が見ているのは、すでに別の男と暮らすことを決めた妻だった。
「俺とは、もう別れたいってことか」
「離婚してほしい」
長い沈黙があった。
誠司は机へ書類を戻した。
「少し、一人にしてくれ」
「陸のことは」
「今は無理だ。あとで話そう」
莉奈は立ち上がった。
食卓を離れるとき、もう一度振り返ったが、誠司は書類から顔を上げなかった。
*
別居に向けた話が少しずつ進み始めた頃、航平と莉奈は喫茶店で会った。
以前は何を飲むかで笑っていたテーブルに、今は支払いの資料が並んでいる。
「そっちも、離婚する方向になったんだな」
「うん。でも、慰謝料も払うことになる」
「俺も」
互いに弁護士へ相談し、必要なやり取りを進めていた。
慰謝料と引っ越し費用を考えると、手元に残る貯金は当初思っていたより少なくなった。
それでも、新しい部屋で暮らし始めれば、今の面倒な話し合いは終わる。
航平は、その先に気持ちを向けたかった。
「これも、見ておいてほしい」
給与明細を莉奈の前へ置いた。
差引支給額は、二十四万円。
結婚したばかりの頃より少し増えたが、家族を一人で十分に養えると胸を張れる金額ではなかった。
「毎月、手取りで二十四万くらい。ここから家賃も、湊の養育費も出す」
「……二十四万」
莉奈は数字を見つめた。
誠司ほど稼いでいないとは聞いていた。けれど、毎月いくらで暮らすのかを、具体的に並べたことはなかった。
「やっていけそう?」
「うん。貯金もあるし、陸の養育費も入るから」
「陸くんの分は、園とか、あの子にかかるお金で考えておこう」
「分かってるよ」
航平は、前のような店へ毎回は行けないと話した。
家具も、一度に全部そろえるのは難しい。
莉奈はうなずいたが、家具のところでスマートフォンを開いた。
「そこは私が出す。気に入ったものを使いたいし」
「少しは残しとこうよ。急に何かあったら困るし」
「ソファだけ。ほら、この前見たやつ」
ベージュの三人掛けのソファだった。
価格は十八万円。
航平は、明細から画面へ目を移した。
「……十八万か」
「あそこで、二人でテレビ見るの。楽しみじゃない?」
莉奈が自分の手を重ねてきた。
夜、子どもが眠ったあとも、一緒に座っていられる。時間を気にしながら別れなくてよくなる。
そう言われると、金額だけを理由に断るのが難しかった。
「楽しみだけど」
「ね。ほかのは、あとでもいいから」
「分かった。その代わり、ほかは今ある物を使おうな」
莉奈は笑った。
給与明細は、二人の手元から少し離れた場所に置かれたままだった。
*
数週間後、千春は宮本の前で合意書案を確認した。
自分への慰謝料は、二人から合計二百万円。
航平が百万円、莉奈が百万円を負担する。
「神崎誠司さんへの支払いも含めて、お二人は、それぞれ二百万円を負担することで合意されています」
宮本の説明を聞きながら、千春はメモと書面を照らし合わせた。
誰から誰へ、いくら支払うのか。話し合いのたびに確認してきた内容が、ようやく一枚にまとまっていた。
湊の養育費は、月額三万円。
親権者の欄には、千春の名前がある。面会は原則として土曜日。
「会う日の変更は、必ず私に連絡してもらいたいです」
「はい」
「湊に『ママに言っといて』って頼むのは、やめてほしくて」
息子の口から予定を聞き、航平へ確認し直すようなことにしたくなかった。
大人の間に立って顔色をうかがう役目は、もう負わせたくない。
「お二人で直接連絡を取るよう、ここにも書いておきましょう」
宮本が書き足す箇所を示した。
千春はうなずき、もう一度最初から読み直した。
決めなければならないことが減るたび、終わりが近づいた。
安心する気持ちと、戻れなくなる怖さは、まだ一緒にあった。
それでも、書面の不明なところをそのままにせず、千春は一つずつ質問した。
*
自宅で、千春は迎えの予定表を広げた。
火曜と木曜は自分。月曜、水曜、金曜は永井。
勤務の調整も、支援の利用も、来週から始められる。
「預け先、決まったんだ」
「うん。来週から、この予定でいける」
航平が予定表をのぞいた。
「じゃあ、話してた日に出ていっても大丈夫?」
千春はしばらく紙を見てから、うなずいた。
「ありがとう。助かった」
思わず、夫へ目が向いた。
自分は、湊との生活を続けるために動いていた。
航平には、それが家を出る準備の完了に見えている。
「いや、手配してくれて」
夫は言い直した。
千春は何も返さず、予定表を自分のかばんへしまった。
これから先、何度も開いて確かめるのは、自分なのだと思った。





