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第3話 お茶が冷める前に

 寝室の明かりが消えてからも、航平は居間に残っていた。

 スマートフォンに、神崎莉奈の名前が表示される。


『今日は話してくれてありがとう。少しは楽になりました?』


 返事を考えるだけで、口元の力が緩んだ。


『はい。聞いてもらえて助かりました』

『いつも私の話を聞いてもらってますから』


 仕事の連絡とも、迎えの相談とも違う。

 今、自分がどんな気持ちでいるのか。それだけを気にかけた言葉だった。


『また聞いてもらってもいいですか』

『もちろん』


 短い返事を、航平は何度か読み返した。

 寝室へ行けば、千春と湊が眠っている。妻を起こして朝の話の続きをすることもできた。

 けれど、暗い部屋へ戻る前に、もう一通だけ送った。


     *


「土曜日、友達とでも出かけてきたら?」


 千春からそう言われたのは、数日後だった。

 航平は、どうして急に、と聞き返した。


「いつも迎えとかお願いしてるし。湊は私が見てるから」

「いいの?」

「うん。二人で図書館に行く約束した」


 千春は湊の園のかばんを片づけていた。

 まだ、話し合いらしい話し合いはできていない。けれど、朝の挨拶も、夕食の会話も、少しずつ戻っていた。

 夫に休んでもらえば、張り詰めていた気持ちも和らぐかもしれない。

 千春には、そんな期待があった。


「じゃあ……少し出てくる」

「楽しんできて」


 返ってきた笑顔を見て、千春はほっとした。

 久しぶりに、何かうまくできたように思えた。


 その夜、千春が湊の水筒を洗っている間に、航平は莉奈へ連絡した。


『土曜日、少し時間ができました。よかったら、お茶でもどうですか』


 送ってから、指を止める。

 公園で話すのとは違う。自分から二人で会おうとしている。

 既読の表示がつき、間もなく返事が来た。


『子どもたちも一緒に?』

『湊は妻が見てくれます』


 その一文を打つとき、台所で水の止まる音がした。

 航平は顔を上げた。千春は水筒の細い部品を布巾の上へ並べている。

 また画面を見る。


『うちも主人がお休みです。二人で、ゆっくり話せますね』


 断られなかった。

 航平は、少し早くなる鼓動を感じながら返した。


『楽しみにしてます』


     *


 土曜日の喫茶店は、まだ昼の混雑が始まる前だった。

 莉奈はカップを持ち上げ、湯気に目を細めた。


「二人だけだと、何だか変な感じですね」

「いつも、子どもを追いかけながらですもんね」

「ふふ。今日は、お茶が冷める前に飲めそう」


 航平も笑った。

 湊に呼ばれるたび話が途切れることも、帰ってからの献立を考えることもない。

 莉奈の声を、最後まで聞いていられた。


 スマートフォンが震えた。

 千春からだった。


『いつもありがとう。今日はゆっくりしてきてね』


 千春は今頃、湊と図書館にいるはずだ。

 航平は画面をしばらく見つめたあと、莉奈へ向けた。


「……こういうときは、優しいんですよ」


 莉奈は文面に目を落とした。


「ちゃんと感謝してるみたいですけど」

「機嫌を悪くされたら困るんでしょうね」


 言ってから、少しだけ居心地が悪くなった。

 そういう意味で送ってきたとは限らない。今朝、千春は湊と一緒に玄関まで見送りに来た。

 それでも、さっきの言葉を取り消さなかった。


「すみません。こんな話ばっかり」

「私は、嫌じゃないです」


 莉奈は画面から目を上げた。


「私だったら、毎日まっすぐ帰ってきてほしいけどな」


 航平は、カップを持つ手を止めた。

 家に帰るのは、当たり前のことだと思っていた。迎えや夕食があるから、そうしているだけだった。

 それを誰かが待ち望んでくれる。

 そう考えると、ひどく大切なことをしているように感じられた。


「……莉奈さんが待っててくれるなら、帰りますよ」


 莉奈は持ち手に指を添えたまま、航平を見た。

 冗談にしてしまうには、沈黙が長かった。


「変なこと言いました」

「変じゃないです」


 その言葉に、航平は目をそらせなくなった。


 店を出てからも、二人はすぐに駅へ向かわなかった。

 ショーウインドーの前で足を止め、また歩く。話の中身は、特別なものではない。好きな食べ物や、子どもの頃に住んでいた町のことだった。

 知らなかったことが一つ増えるたび、次も聞きたくなった。


「もう帰らなきゃ、ですね」


 莉奈が言った。

 航平は時間を確かめ、そうですね、と答えた。


「もう少しだけ、歩きません?」


 千春に帰る時刻を知らせようとしていた指が止まる。

 航平はスマートフォンをポケットへ戻した。


「……はい」


 その夜、莉奈から届いたのは、まだ帰りたくなかった、という言葉だった。

 航平も同じだったと返した。

 次に会う日を決めるときには、もう公園の予定を確かめる必要はなかった。


     *


 別の休日、駅前で会った莉奈が尋ねた。


「今日は、何時まで大丈夫?」

「夕飯は、いらないって言ってきた」

「私も。陸は主人と出かけてるから」


 莉奈の指が、航平の手に触れた。

 握り返せば、何かが変わると分かった。

 それでも、手を引かなかった。


「人のいるところじゃなくて……二人きりになりたい」


 ホテルの廊下は静かだった。

 航平の手にはカードキーがある。目の前の扉には部屋番号がついていた。


「……本当に、いいのかな」

「航平さん、帰りたい?」


 莉奈は、帰らないでとは言わなかった。

 ここで手を離せば、駅へ戻れた。千春には、早く用事が終わったと連絡すればよかった。


「私は、まだ帰りたくない」


 航平は莉奈の手を握った。


「今日は、一緒にいたい」


 カードキーをかざしたのは、自分の手だった。

 扉が閉まるまで、妻から届いた感謝の言葉を思い出さないようにしていた。

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