第2話 謝ったことは、話さない
「奥さんがうらやましいな」
そう言われて、航平はすぐには返事ができなかった。
公園の砂場で、湊と友達の陸が山を作っている。二人が使う水筒は、ベンチの脇に並べてあった。
隣に座っているのは、陸の母親、神崎莉奈だった。
幼稚園の迎えで顔を合わせることはあったが、こんなふうに長く話すのは初めてだ。
帰りたくないと言う子どもたちに、少しだけ付き合うつもりだった。
「……そんなこと、言われたことないですよ」
照れ隠しに笑った。
莉奈は首をかしげる。
「お迎えも夕飯もやってくれるんでしょう。うちの人、陸が何回呼んでもスマホ見てるんですよ」
「俺も、たまに聞こえないふりしますけど」
莉奈が笑う。責められない冗談は、口にしていて気が楽だった。
彼女の夫は帰宅が遅く、夕飯も風呂も寝かしつけも、平日はほとんど一人だという。
帰る時間を聞いても、仕事だから分からない、と言われるらしい。
「仕事を頑張ってくれるのは、ありがたいんですけどね」
「毎日はきついですね」
「……ですよね」
莉奈は、その一言を待っていたような顔をした。
航平は自分の家のことを話した。
在宅勤務が多いこと。出勤の日も時間をずらせること。千春は七時すぎに帰ってくるので、それまでに夕飯を作ること。
「帰ってきたら、妻も洗い物とかやりますけどね」
最初は、そう付け加えていた。
千春が何もしていないと思われるのは違う。けれど、莉奈が感心してくれるたび、わざわざ説明しなくてもいい気がしてきた。
「パパ! 水!」
「ここに置いてあるよ。先に手を洗って」
湊が走ってくる。航平は水筒のふたを確かめ、ポケットからはみ出したタオルを押し込んでやった。
その手元を、莉奈が柔らかい目で見ていた。
家で同じことをしているときよりも、自分が頼りになる人間に思えた。
*
数日後の公園で、莉奈が菓子店の箱を開いた。
個包装の焼き菓子が、八つ並んでいる。
「よかったら、どうぞ。帰りに買ってきたの」
「こんなに。高かったんじゃないですか?」
「気にしないで。これくらい」
莉奈にとっては、ためらうほどの買い物ではないらしかった。
航平は一つ受け取り、勧められるまま千春の分も手にした。
「昨日は陸とクッキーを作ったんですけど、失敗しちゃって」
「手作りもするんですね」
「時間はありますから」
「うちは、そういうのはなかなか」
「奥さん、お忙しいんですね」
「まあ、仕事が好きなんで」
千春が、次の案件を任されたと話した夜のことを思い出した。
推薦という言葉を口にするとき、妻の目は輝いていた。よかったと思った。その一方で、自分には来年もそんな話はないのだろうと思った。
迎えに間に合う働き方を、嫌っているわけではない。
ただ、それを選んでいる自分のことも、少しくらい認めてほしかった。
「また公園でご一緒できたら。連絡先、交換しません?」
莉奈がスマートフォンを差し出した。
子ども同士が仲良しなのだから、不自然なことではない。
航平は、その場で彼女の名前を登録した。
*
夜、千春は園のプリントを見ながら焼き菓子を眺めた。
「これ、どうしたの?」
「陸くんのお母さんがくれた。千春にもって」
「そうなんだ。今度、お礼言わなきゃ」
千春は素直に笑った。
その顔を見ているのに、航平の口からは別の言葉が出た。
「昨日は、陸くんとクッキー作ったんだって。千春も、休みの日くらいやってみたら?」
「うん。余裕があればね」
「いつもそれだな」
プリントをめくる手が止まる。
「仕事はあんなに頑張るのに、家のことになると余裕がないって」
「休みの日も、たまったことをしてるでしょう」
「俺だって平日は家のことをしてるよ」
「分かってる。でも、その人と私を比べないで」
別に比べていない、と航平は言った。
子どものために少しは、と続けたとき、千春が顔を上げた。
「私だって、やれるならやりたいわよ」
握っていたプリントの端が曲がる。
「航平の給料が少ないから、私も働かなきゃやっていけないでしょう」
部屋が静かになった。
千春は、言った直後に口元を押さえた。
「……ごめん」
「そう。じゃあ俺が悪いんだ」
「そういう意味じゃない」
「もういいよ」
航平は椅子を離れた。
いくら家のことをしていても、結局はそこなのだと思った。
千春が追いかけるように名前を呼んだが、振り返らなかった。
*
「昨日、給料のこと、あんな言い方してごめん」
翌朝、湊が着替えている間に千春が言った。
航平は、うん、と短く返した。
「いつもありがとうって思ってるよ。本当に。ただ、あの人はできるのにって言われると、私も……」
「分かった」
「今日、帰ったら少し話せない?」
「今日はいい。まだ、そういう気分じゃない」
謝られたことは分かった。
それでも、すぐに気持ちを戻すのは難しかった。
千春は少し黙ってから、分かった、と言った。もう一度謝り、湊の着替えを手伝いに行った。
その夕方、莉奈は航平の顔を見るなり、疲れているのかと尋ねた。
「ちょっと。家でいろいろ」
「私でよければ、聞きますよ」
航平は昨日の言葉を話した。
給料が少ないから、妻が働かなければならないと言われたことを。
「そんな言い方されたんですか? 家のことも、これだけしてるのに」
「稼ぎの方が大事なんでしょうね」
「私は、一緒にいてくれる方がうれしいけどな」
砂場では、湊が陸のバケツへ砂を詰めていた。
航平は子どもたちを見たまま、口を開いた。
「今朝、妻が……」
「今朝も何か言われたんですか?」
違う。
謝っていた。話がしたいと、妻の方から言っていた。
そこまで伝えたら、莉奈は何と言うだろう。
ちゃんと話してあげたら、と言うかもしれない。
「……いえ」
航平は、それ以上続けなかった。
「せめて、ここでは愚痴ってください。私、聞きますから」
「ありがとうございます。ちょっと、楽になりました」
莉奈の優しさを、もう少し受け取っていたかった。
千春が謝ったことは、最後まで話さなかった。





