第1話 手のひらに残る油
「ママ! これ、パパと作った!」
玄関を開けると、青い紙飛行機が目の前に差し出された。
高梨千春は、仕事のかばんを持ったまま腰をかがめた。息子の湊が、得意そうに機首をこちらへ向けている。
「ただいま。わ、遠くまで飛びそう」
「パパのより飛ぶんだよ!」
「十回に一回な」
台所から夫の航平の声がした。
居間の床には白い紙飛行機が落ちている。どちらが遠くまで飛ぶか、帰ってくるまで競争していたらしい。
「二回飛んだ!」
「じゃあ、あとで見せて」
千春が笑うと、湊は両手で飛行機を抱えた。
食卓には三人分のご飯とおかずが並んでいた。味噌汁の匂いがする。会議で冷えきっていた指先に、ようやく家へ帰ってきた実感が戻った。
「手、洗っておいで。おかず温めるから」
「ありがとう。今日、会議が長くなっちゃって」
「明日も遅い?」
「明日は七時くらいには」
「分かった。迎えはいつもどおり行く」
湊が、公園にも行きたいと航平の足元へ寄った。
仕事が終わっていたらな、と返す声は穏やかだった。
「航平、いつも助かる」
それは、場を取り繕うための言葉ではなかった。
迎えの時間を気にしながら会議室の時計を見る日にも、湊は父親と一緒にいる。その安心があるから、千春は席を立たずに仕事を続けられた。
食後、湊は青い飛行機を三回飛ばした。二回は食卓の手前で落ち、最後の一回は廊下まで届いた。
すごい、と千春が手をたたくと、湊は真っ先に台所を振り返った。
「パパ、今の見てた?」
「見たよ。俺のより飛んだな」
息子の顔がぱっと明るくなる。
千春も、その横顔を見て笑った。
*
「洗い物、終わったよ」
航平がタオルで手を拭きながら言った。
「ありがとう。あとは私が拭いておくね」
「じゃあ、湊と風呂入ってくる」
「うん。お願い」
二人の声が浴室へ遠ざかる。
千春は水切りかごから皿を取り、布巾を当てた。
指が、縁の裏側で滑った。
「まただ……」
裏返すと、油が薄く残っていた。
表はきれいだ。けれど、このまま重ねれば下の皿まで汚れてしまう。
千春は蛇口をひねり、スポンジに洗剤を足した。
浴室から、湊の笑う声が聞こえている。
今、呼び戻すほどのことだろうか。
一枚洗うくらい、自分でやった方が早い。
そう思って、もう一枚手に取った。
その皿の裏にも、同じ感触が残っていた。
風呂上がりの寝室には、畳んだ洗濯物が置かれていた。千春は仕事用のシャツを広げる。
袖と背中に細かいしわがついている。明日は会議だ。このまま着ていくには、少し気になる。
「これも畳んでくれたんだ」
「うん。乾いてたやつ」
「ありがとう」
「明日、それ着る?」
「うん。会議があるから」
航平は、そうか、とだけ言った。
湊に呼ばれ、隣の布団へ横になる。絵本を読む声は、途中からあくび交じりになった。
しばらくして、二人分の寝息が聞こえた。
千春は居間でアイロン台を開いた。
取り込むときにしわを伸ばして、縫い目を合わせて畳んでくれれば、もう少し楽なのだけれど。
熱い布から立つ匂いをかぎながら、袖を引いた。
脇の椅子には明日のかばんがある。まだ目を通していない資料も入っていた。
家のことをしてくれる夫だ。
実際、毎日助けられている。
そう思うたび、残っている仕事について口を開くのが難しくなった。
*
結婚したばかりの頃、二人で給与明細を並べたことがある。
千春の手取りは三十一万円。航平は二十二万円だった。
「今月、そんなに残業したんだ」
「人が足りなくて。でも、来月から一人入るって」
「俺は、あんまり増えないな」
「休みは取りやすいでしょう?」
「それはそうだけど」
千春は、二人分を足した金額を指で示した。
「二人分なら、貯金もできるよ」
航平は少し間を置いて、そうだな、と笑った。
子どもができても、できれば働きたい。千春がそう話すと、彼はうなずいてくれた。
「その方がいいよ。俺もできることはするし」
その約束は、全部が嘘だったわけではない。
今も航平は湊を迎えに行き、ご飯を作り、風呂に入れている。
だから、うまくやっていると思っていたかった。
数日後、千春は夕食の席で仕事の話をした。
「次の案件、私がまとめることになった」
「へえ」
「まだ正式な昇進じゃないけど、佐久間部長が推薦してくれるって」
「よかったじゃん」
湊が箸を止めた。
「ママ、えらくなるの?」
「まだ分からないよ。責任も増えるから、ちょっと怖いし」
「なれるだろ。あれだけ働いてるんだから」
航平の言葉に、千春はありがとうと答えた。
彼が自分の茶碗を見ていたことには、それ以上、意味を探さなかった。
*
皿のことを話したのは、別の日の夕方だった。
航平の仕事は一件だけ残っているという。机の上ではパソコンが開かれていた。
千春の夕飯には、ラップがかけてある。
「夕飯ありがとう。あのね、この裏、油が残ってるんだけど」
千春は手に持った皿を裏返した。
「裏も、もうちょっとこすってくれる?」
「洗ったよ」
「うん。でも、まだ少しぬるぬるしてて」
「そんな細かいこと言うなら、自分でやれよ」
思っていたより強い声だった。
千春の指が、皿の縁で止まった。
「そんなつもりで言ったんじゃ……」
「迎えに行って、ご飯も作って、それでまだ言われるの?」
「だから、ありがとうって……」
「もういい。気になるなら、そっちでやって」
航平は椅子を引き、パソコンの前へ座った。
それきり、こちらを見なかった。
言い方が悪かったのだろうか。
仕事が終わっていないときに話しかけたからだろうか。
千春は手の中の皿を見た。
何度指で触れても、油は残っている。
流しに向き直り、スポンジを持った。
背中で、キーボードをたたく音が始まった。
何を言えば聞いてもらえるのか分からないまま、千春はまた、皿の裏を洗っていた。





