【第三巻】第九章 火と沈黙(三)
治療院の廊下は、白かった。
夜中なのに、白かった。灯りが多いせいだと思う。長椅子が三つ並んでいて、俺たちはその真ん中に座っていた。
あいつは、まだ裸足だった。
誰かが上着を掛けてくれていた。ゴルドーの上着だった気がする。大きすぎる上着の中で、あいつは膝の上の自分の手を、ずっと見ていた。
手には、まだ、担架を持った時の力の入れ方が残っているようだった。
俺の手には、焦げた紙の熱が残っていた。
二人とも、手を洗っていなかった。洗いに立つ、というだけのことが、できなかった。廊下の白さの中で、煤だらけの手だけが、今夜が本当にあったことの、証拠だった。
待っている間に、人が来た。
ゴルドーが来た。何も言わずに、水の入った桶と手拭いを置いていった。あいつの足の煤を、俺はそれで拭いた。あいつは、されるままだった。
ミエルさんが来た。毛布を二枚持ってきて、一枚をあいつの膝に、一枚を長椅子の端に置いた。置いて、少しだけ座って、何も聞かずに帰った。帰り際に、受付台に何かを預けていった。後で見たら、治療費の預かり証だった。支払人の欄は、空白だった。
ドヤールが来た。廊下の入り口で立ち止まって、こちらを見て、入ってこなかった。芸人は、出番のない舞台には上がらない。上がらない代わりに、朝まで、入り口の柱のところにいた。ガスとリリも、いた。
まだら服は、来なかった。
来なかったが、一度だけ、廊下の窓の外を、鈴の音のしない影が通った。通って、止まって、しばらく動かなかった。硝子越しに、病室の方角を見ていたのだと思う。俺が窓に目をやった時には、もう、いなかった。
医者が出てきたのは、夜半を回った頃だった。
命に別状はない。煙を多く吸ったが、火傷は浅い。年齢を考えれば、驚くほど丈夫だ。医者はそう言った。
それから、少しだけ声を落とした。
――ただ、声が出ていない。
煙のせいでしょう。喉が焼けたわけではない。傷は、ない。ないのだが、出ない。こういうことは、ある。じきに戻るはずです。
傷はないのに、出ない。
俺はその言葉を、頭の隅の暗い場所に置いた。置いた場所が、ちょうど、昼間の道標の隣だった。彫りは残っているのに、読めない文字の隣に。
面会は、少しだけ許された。
寝台の親父さんは、起きていた。
起きて、天井を見ていた。俺たちが入ると、目だけがこちらを向いた。煤で汚れた顔は拭かれていて、白髪の生え際にだけ、黒が残っていた。
あいつが、寝台の脇に立った。
「親父さん」
親父さんの口が、開いた。
動いた。何かの言葉の形に、確かに動いた。
音は、出なかった。
親父さんは、もう一度やった。口が動く。喉が動く。音だけが、どこにもない。三度目の途中で、親父さんは、やめた。やめて、自分の喉に手を当てて、それから、ゆっくりと、天井に目を戻した。
その目を、俺は見なければよかったと思う。
言う腹積もりなら、もう、ある。
二晩前の八文字が、白い部屋の中で、音もなく崩れていくのを、俺は見た。
三十年かけて、言う稽古をやり直すと決めた男の声が、言う前の晩に、消えた。
偶然という言葉を、俺は使わない。
あいつは、寝台の脇の椅子に座った。
座って、親父さんの手を、両手で握った。
「親父さん。何も言わなくていいです」
声が、少しだけ震えていた。
「店は、燃えました。でも、親父さんは、います。俺たちも、います。……足し算したら、こっちの勝ちです。だから、何も言わなくていい。治ったら、聞かせてください。俺、待つのは得意なんです。最近、覚えたんです」
親父さんの目が、あいつを見た。
長いこと、見た。
それから、しわだらけの手が、ゆっくり動いて、あいつの手の甲を、二度、叩いた。
ぽん、ぽん、と。
音のない部屋で、それだけが、ちゃんと音になった。
帰り道、俺たちは無言だった。
夜明け前の街は、煙の匂いがした。
どの通りにも、誰もいなかった。
焼け跡の前を、通った。
通らない道もあったのに、二人とも、そちらへ曲がらなかった。
鈴鳴り亭は、骨だけになっていた。
屋根は落ち、壁は北側だけ残り、竈だけが黒いまま立っていた。二年通ったカウンターの位置に、何もなかった。扉の鈴の位置に、何もなかった。焼け跡というのは、あったものの形に、何もないのだと知った。
焼け跡の前に、誰かが、木の台を置いていた。
台の上に、花が三本と、麦酒の杯が一つ。杯には、麦酒が注いであった。誰が置いたのかは、分からない。分からないが、この街の誰かだ。まだ夜も明けないうちに、誰かがここへ来て、店の骨に、一杯だけ注いでいった。
チップは酒で。
あの口癖の、宛先のない履行だった。
あいつは台の前で足を止めて、深く、頭を下げた。誰にというあてもなく、焼けた店と、置かれた杯と、この街の夜のどこかにいる誰かに向かって、長いこと、下げていた。
あいつが、立ち止まった。
立ち止まって、湯気の消えた黒い骨を、長いこと見ていた。
「……ヨウタ」
「ああ」
「俺、昨日、約束したんだ。今日の晩、あの店で飲もうって。どんな答えでも、あの店で、いつもの席でって」
「ああ」
「いつもの席、なくなっちゃった」
子供みたいな言い方だった。
子供みたいな言い方しか、入らない夜だった。大人の言い方は、どれも、この夜には嵩が足りなかった。
俺は何も返せなかった。慰めの在庫も、理屈の棚も、この夜は全部、鍵がかかっていた。
宿に戻って、あいつは自分の部屋に入った。
戸が閉まる音が、いつもより小さかった。
俺は自分の部屋で、卓の上に、今夜の荷を並べた。
焦げた歌帳が、六冊。うち、形のあるものが二冊。半分のものが一冊。あとは、束の形をした炭。
人形頭の杖。頭の彫りの左半分が焼け落ちて、道化の顔が、片方だけになっていた。片方だけの顔は、笑っているのか泣いているのか、もう分からなかった。
それから、俺の写し。床板の下から出した、五冊半ぶんの紙の束。
俺は写しと原本を、一冊ずつ突き合わせた。
一冊目、ある。二冊目、ある。三冊目、俺の写しがある。原本は半分。四冊目、写しがある。原本は、炭。五冊目、写しがある。原本は、ない。六冊目――
六冊目は、途中までだった。
昨夜、犬の声が切れた時、俺は六冊目の三頁目を写していた。字が変わって、鈴の落書きが増えて、読みやすくて少し笑える字になった、あの六冊目。荷物を降ろす算段のついた男の、一番軽い字の頁。
その先が、もう、どこにもない。
俺は写しの束を揃えて、紐で縛った。
縛りながら、勘定をした。守れたもの。歌帳五冊と半分。杖の半分。親父さんの命。守れなかったもの。店。六冊目の残り。親父さんの声。それから――今日の晩の、約束の席。
勘定は、合わなかった。
どう足しても、引いても、合わなかった。
合わない勘定の下に、俺はもう一行、書いた。
書くべきかどうか、少し迷って、書いた。
――火事の間、北東の音の穴は、動かなかった。
渡り鳥亭の方角の、あの見張りの穴だ。仲間の放火の夜に、見張りは持ち場を動かなかった。動かない理由の候補は二つ。よほど任務に忠実か。あるいは――今夜の火事を、見張る必要すらない「決まった仕事」だと思っていたか。
どちらでも、同じことだった。
連中にとって、今夜は、工程の一つなのだ。誰かの三十年が焼けた夜が、あちらの帳簿では、一行で済む。
その一行の薄さが、俺は、朝までずっと、許せなかった。
帳簿というものは、合わない夜のためにあるのだと、誰かが言っていた気がする。誰が言っていたのか、思い出せない。思い出せないまま、俺は灯りを消した。
暗くした部屋の窓から、夜明け前の空が見えた。
北東の空の低いところが、まだ、うっすらと明るかった。
焼け跡の熾が、朝まで消えない色だった。
あの色が消えるまで、俺は窓辺に座っていた。
座って、何もしなかった。
何もしないでいることが、こんなに長い作業だとは、知らなかった。




