【第三巻】第九章 火と沈黙(二)
窓枠を越えたのは、耳が結論を出すより先だった。
屋根に出る。夜の街を南へ見る。酔っ払い街道の方角。歌が消えた路地の上には、しかし、火の色も、人影の乱れもない。ただ静かだった。静かすぎる、あの品質の悪い静けさが、路地一本ぶん、横たわっていた。
南か。
書庫だ。資料室の保存箱。今日、俺の手で作ったばかりの控えの束。アルヒフの言った「二晩要る」の一晩目が、もう来たのだ。
俺は屋根を三つ跳んで、ギルドの裏手に降りた。
いた。
裏階段の扉の前に、二人。黒ずくめ。手際は玄人。錠前はすでに開いていた。歯形の主が、今夜は仕上げに来ている。
工程は、静かに済ませた。
一人目は、扉の陰から出たところを、顎の付け根。二人目は、振り向く途中の首筋。どちらも骨には触れない。息はある。夜明けまでは目を覚まさない深さで、浅い場所に置いてきた。物音は、二人ぶんの膝が石畳に落ちる音だけ。それも、外套を挟んで殺した。
縛り上げ、扉の内側に転がし、守衛の詰め所の呼び鈴の紐を三度引く。ここまでで、俺の帳簿の見積もりより、四十秒早い。上出来の部類である。
上出来だと思った自分を、俺は生涯、忘れないと思う。
振り向いた時、北の空が、赤かった。
旧市街の屋根の連なりの向こう。低い雲の腹を、下から炙る色。火事の色である。火事の色なのに――鐘が、鳴っていない。
三連打。火事は三連打。この街の誰もが知っている鐘の文法が、夜のどこからも聞こえてこない。それどころか、何も聞こえない。半鐘も、叫びも、犬も。北の夜空は赤く燃えながら、耳の上では、真っ白だった。
燃える音のしない火事。
俺は走った。
屋根から屋根へ。距離にして六町。俺の足なら、一分半。その一分半の間に、俺の頭は勘定を三つした。一つ、火元の方角は旧市街の北東の角――鈴鳴り亭。二つ、南の二人は陽動。本命は最初から北。三つ――今夜、店には親父さんが一人。
三つ目の勘定を終えたところで、俺は勘定をやめた。
勘定は、間に合う者の道具だ。
鈴鳴り亭は、燃えていた。
軒が燃え、看板が燃え、二階の窓から火が舌を出していた。そして、その全部が、無音だった。火の爆ぜる音も、梁の軋みも、ない。店の前に近所の連中が数人、飛び出してきていて、口を開けて叫んでいた。叫んでいる口の形をして、声だけが、根こそぎ無かった。誰かが半鐘の綱に取りついて、懸命に打っていた。鐘は揺れて、揺れるだけだった。
音の死んだ火事場というものを、どう書けばいいのか、俺の帳簿はいまだに項目を立てられずにいる。あれは火事ではなかった。火事の絵だった。よくできた、熱だけが本物の、悪意の絵だ。
店の前の人垣が、俺に気づいた。
口々に何かを叫んだ。声は無い。無いが、身振りは読めた。駄目だ、入るな、崩れる。まっとうな忠告である。まっとうな忠告を聞き流す技術だけは、まっとうでない夜を二年やってきた俺の、数少ない持ち芸だ。
俺は絵の中へ、踏み込んだ。
領域の境い目は、肌で分かった。一歩越えた瞬間、自分の足音と呼吸が消えた。心の臓の音まで消えて、体の内側が、急に他人になった。なるほど、これが静寂の腹の中か。
好都合だ、と思うことにした。
音が無いなら、俺の仕事を聞く耳も無い。速さの上限を決めるのは、いつだって人目と物音だ。物音が死んでいるなら、上限は一段、上げられる。皮肉な話である。音を憎む連中の術の腹の中でだけ、俺は久しぶりに、素の速さで動けた。
戸を蹴り破る。音は出ない。煙が来る。姿勢を低く。店の中の火の配置を、目で読む。竈から出た火ではない。壁際三箇所、同時発火の痕。油の撒き方に迷いがない。放火の教本があるなら挿絵に使える手際である。
親父さんは、カウンターの内側に倒れていた。
倒れて、なお、両腕に何かを抱え込んでいた。歌帳の残りと――人形頭の杖。棚から降ろして、抱えて、そこで煙にやられたのだ。逃げるためではなく、取りに戻ったのでもなく、たぶん、最初から一歩も逃げる気がなかった。この人の店で、この人の三十年で、この人の償いだった。
抱えた腕の中で、歌帳は、もう半分が炭だった。
六冊のうち、上の二冊は形を残している。三冊目から下は、火が先に読んだ。頁の縁が黒く丸まり、俺の写していない後半の年月が、腕の中で、まだ熱かった。熱いということは、燃えているということだ。俺は炭になりかけの束の火を、掌で叩いて殺した。掌の皮の一枚や二枚は、こういう時のための在庫である。
俺は親父さんを担いだ。杖が腕から落ちかけ、掴んだ。歌帳は――抱えた腕ごと、まとめて持つ。
天井の梁が、燃え落ちる順番を目で数える。北の梁が先だ。南の壁沿いに三歩、卓を一つ蹴って退かし、窓格子を肘で抜く。全部、無音だった。無音のまま、俺は夜気の中へ、五十八歳の三十年ごと、転がり出た。
領域の外に出た瞬間、世界に音が戻った。
火の咆哮。人の悲鳴。半鐘――は、まだ鳴らない。鐘だけが、まだ領域の中だ。俺は近所の男に親父さんを預け、預けながら耳元で三語だけ置いた。「医者。水路。風上」。男は弾かれたように動いた。声が出せるようになった人間は、動ける。
振り向いて、火の向こうを見た。
通りの反対側、火明かりの届く縁に、灰色が立っていた。
左手を胸に当て、火を見ていた。火事見物の野次馬の顔ではない。仕事の出来栄えを検分する顔だった。視線が、一瞬、俺と合った。
合って――男は、口の形だけで、何かを言った。
音は、彼の領域の中だ。届かない。届かないが、唇は読めた。二音。短い言葉。
――「マダ」。
まだ。
男は身を翻し、夜に溶けた。追う俺の足を、腕の中の重さが止めた。五十八年ぶんの重さと、半分焼けた杖と、焦げた歌帳の束。追えば、これを置くことになる。
俺は、置かなかった。
火はその後、四半刻で消し止められた。
ゴルドー組が水路を開けた。組の若い衆は、声の戻った街の中を、前職の脚で走り回った。手桶の列が二本できて、マルグリット婆さんが先頭で水を汲み、金物屋が濡れ莚を屋根に投げ、予想教室の連中まで列に並んだ。この街の夜の人口が、こんなに多いことを、俺は初めて知った。風上の家を二軒濡らし、鈴鳴り亭一軒だけを燃やして、火事は終わった。
領域は、火が落ちる頃には解けていた。解けたことに、たぶん、俺以外の誰も気づいていない。街の連中の帳簿では、今夜の怪異は「声が出なかった。気が動転していたのだろう」の一行で処理されていく。人間の帳簿は、書けない行を、書ける行に直して綴じる。それが正気というものの製本の仕方だ。
鐘は最後まで、一度も鳴らなかった。
ミエルさんが駆けつけたのは、火が落ちてすぐだった。帳面も持たずに来たこの人を、俺は初めて見た。アルヒフも来た。老人は焼け跡と担架を等分に見て、それから、俺の腕の中の焦げた束に、一瞬だけ目を留めた。留めて、何も聞かなかった。聞かない技術の年季が、こちらも違う。
担架の親父さんは、息はあった。あったが、呼びかけに、目を開けなかった。
人垣の向こうから、あいつが走ってきた。
寝間着のまま、剣も持たず、裸足だった。焼け落ちた店を見て、担架を見て、俺を見て――あいつの口が、何かを言おうとして、言葉になる前に閉じた。
閉じた口のまま、あいつは担架の脇に膝をついた。
親父さんの手を、両手で包んだ。包んで、動かなくなった。医者が何かを言い、あいつは頷き、頷いた首がそのまま下がって、上がらなかった。俺は半歩後ろに立っていた。半歩の距離が、今夜は千里より遠かった。腕の中の焦げた束と、半分になった杖と、俺の帳簿の合わない勘定と。
どんな答えでも、あの店で、いつもの席で。
昨日の約束の、あの店が、湯気を上げる黒い骨になって、夜空の下に立っていた。
いつもの席のあった場所で、折れた梁が、細い煙を上げていた。煙は音もなく、まっすぐに、夜空へ昇っていった。あの店で一番よく笑っていた席の煙が、一番静かに消えていくのを、俺は最後まで見ていた。見ている以外に、俺の速さにも、俺の強さにも、できることが一つも残っていなかった。




