【第三巻】第九章 火と沈黙(一)
穂月十三日は、静かな一日だった。
後になって、俺は何度もこの日を頁ごと読み返すことになる。読み返すたびに思う。静かだった、以外の何も書いていない一日が、どうしてこんなに、読み返して痛いのか。ある王が日記に「何もなし」と書いた日に、その王の国が傾き始めた、という話がある。何もない日というのは、書いた者の側に何もなかっただけなのだ。
朝、開室前の資料室で、アルヒフと二人きりの相談をした。
「鼠の狙いは、まだ絞れませんのでな。ゆえに、絞れないなりの手を打ちます」
老人の手は、簡潔だった。照合資料の一式――塗り潰しの頁の写し、紋章の対照表、聞き取りの記録――について、控えの写しをもう一組作り、正本と別の場所に保管する。正本は書架馬車の錠つきの棚へ。控えは資料室の保存箱へ。
「紙の守りの基本は、増やして、離すこと。一箇所の紙は、一晩で灰にできますがな。二箇所の紙は、二晩要る。二晩あれば、人は動けます」
「写しは、俺が?」
「貴殿の手が、一番早くて正直ですのでな。……本日中に、頼みます」
「一つ、伺っても」
「どうぞ」
「鼠の狙いを、司書長どのは、どう見立てておいでですか」
老人は、遠目用の眼鏡を外して、布で拭いた。拭き終わるまでが、考える時間らしかった。
「――紙を盗む者は、二種類おりましてな。読みたい者と、読ませたくない者です。読みたいだけなら、写して返す。跡も残さん。……ですが、錠前に歯形を残す鼠は、写しでは済まぬ用事の鼠です」
「読ませたくない側、ですか」
「であれば、狙いは正本ではない。……サイキ殿。紙は増やして離す、と申しましたな。あれにはもう一つ、続きがございます。増やした紙の在り処を、守り手の頭数より多く、敵に数えさせる。数える手間は、時間です。時間は、こちらの武器ですのでな」
在り処を数えさせる。書庫流の兵法である。俺は頷いて、頷きながら、自分の夜なべの写しの在り処を、頭の中でもう一度確かめた。宿の部屋の、床板の下。数えられていない在り処が、この街にもう一つある。
俺は午前いっぱいかけて、照合資料の控えを作った。自分の家系ではないのに、クラウン家の二百年が俺の手を二度目に通っていく。写しながら、俺は妙な心持ちを味わった。この紙の束は、あいつの家の、紙でできた分身である。分身が増えて、離れて置かれる。守りの手として正しい。正しいのだが、増えた分身の数だけ、狙われる場所も増える。守りと的は、同じ形をしている。
昼、鈴鳴り亭に寄ると、親父さんが店の仕込みをしていた。
いつもの仕込みでは、なかった。カウンターの奥から、埃をかぶった小さな樽が出てきていた。
「珍しい樽ですね」
「北の火酒だ。開店の年に一つだけ買って、開けそびれてな。明日あたり、照合の答えが出るんだろ?」
「らしいですね。アルヒフさんの見立てでは」
「なら、明日の晩は、こいつの出番かもしれねえ。答えがどっちに転んでもな。いい報せなら祝い酒、悪い報せなら、景気づけだ。酒ってのは便利だよ、どっちの側にも立てる」
親父さんは樽の埃を、掌で撫でて落とした。棚に一礼して箱を降ろす、あの手つきと同じだった。十三年、開けそびれた樽。開ける日を決めた顔は、存外、晴れやかだった。
「――なあ、坊主。写しは、どこまで進んだ」
「六冊目に、入りました」
「そうかい。六冊目はな、途中から、字が変わる。読みやすくなってるはずだ」
「字が、変わる?」
「書いてる俺が、変わったのさ。宮廷を出るって決めた後の頁だ。人間、荷物を降ろす算段がつくと、字まで軽くなる。写してりゃ分かるよ」
店を出しなに、ギルドに寄って、写しの納品を済ませた。
受付のミエルさんが、閉室間際の帳面を繰っていた。俺を見ると、ペンを置いた。
「サイキ様。明日ですね」
「らしいですね」
「台帳的には、明日で当支部の貸出記録が三件、締まります。照合の完了と共に、書類の上の騒ぎは終わる。……書類の上の、は」
ミエルさんは、そこで珍しく、言葉を選んだ。
「……サイキ様。一つだけ、受付の外の話をします。私は王都の会計院で、数字が消される瞬間を見たことがあります。消される数字には、前の晩、共通の癖が出ます。――妙に、静かになるんです。動くはずの数字が、動かない。それが、消される前の晩の癖です」
「今日のこの街は、どうです」
「静かすぎます」
罫線のような目が、まっすぐ俺を見た。
「夜番の申請が、今日はゼロでした。酔って備品を壊す方も、ゼロ。落とし物の届けも、ゼロ。平和と言えば平和ですが……台帳的には、ゼロが三つ並ぶ日を、私は信用しないことにしています」
数字の人の耳にも、街の静けさは届いていた。届き方が、俺やトリルとは別の帳面経由なだけである。
午後、宿の中庭で、あいつが素振りをしていた。
五十七合の再現ではなかった。基本の型を、一本ずつ、ゆっくりと。結果待ちの落ち着かなさを、あいつは昔から、こうやって型に流して捨てる。百本目が終わったところで、俺は麦茶を持って行った。
「明日だな」
「明日だ」
あいつは汗を拭いて、縁側に腰を下ろした。
「変な感じだよ。明日、紙が答えを言うんだろ。うちの家が何だったか。……二百年前の誰かが消して、二百年後の誰かが読む。その間にうちの家は、村で木工師をやって、歌をうたって、俺を育てて、終わった。紙の上の答えがどっちでも、その部分は変わらないんだよな」
「変わらないな」
「だから、決めたんだ。答えがどんなでも、俺は驚かないことにする。驚く代わりに――ちゃんと、聞く。うちの家がやったこと、やらなかったこと、全部。聞いて、覚えて、それから考える。当主の仕事ってのは、たぶん、そこからだ」
夕方の光が、中庭の白い稽古着を染めていた。
驚く代わりに、聞く。二百年の答え合わせを前にした十八歳の台詞として、これ以上のものを、俺は思いつかない。思いつかないので、麦茶を注ぎ足した。給仕は、感想の代わりになる。
「なあ、ヨウタ。明日の晩、鈴鳴り亭で飲もう。親父さんも誘ってさ。トリルさんも、ドヤール殿も、ミエルさんも」
「……ああ」
「約束な。どんな答えでも、あの店で、いつもの席で」
「約束だ」
どんな答えでも、あの店で、いつもの席で。
俺はこの約束を、疑いもなく帳簿に載せた。載せた自分を、後の俺が、何度でも殴りに来る。
日が落ちる少し前、宿の屋根の上に、鈴の音が一つ降った。
見上げると、まだら服が夕焼けを背に座っていた。
「よう、白湯の旦那。明日だってね」
「耳が早いな」
「先触れだからね。一つだけ、言っときに来た」
トリルの声は、芸と素の中間の高さにあった。
「明日、答えが出たら、あたしは一度、王都に文を出す。そういう役目でここに来てるからね。でも、文ってのは、届くまでに三日かかる。三日の間に何が起きても、あたしの帳面には載らない。載らないことは、無かったことと同じさ」
「それは、どういう」
「三日ぶんの白紙をやる、って言ってるのさ。使い道は、旦那が決めな」
まだら服は、夕焼けの屋根を三つ跳んで、消えた。
三日ぶんの白紙。王宮の目が、意図して閉じられる三日間。あの道化は、何が起きると読んでいるのか。読んでいて、止める側ではなく、白紙をくれる側に回った。道化の帳簿のつけ方は、最後まで道化流である。
夜の入りに、風が変わった。
南から吹いていた乾いた風が、日暮れとともに北へ回った。北風は、旧市街の屋根の匂いを運んでくる。竈の煙、乾いた藁、古い木材。嗅ぎ慣れた、街の夜の匂いである。
俺は宿の窓辺で、写本の六冊目を広げていた。
親父さんの言ったとおり、六冊目の字は、途中から変わっていた。線が丸くなり、行間が広くなり、余白に時々、小さな鈴の落書きが増える。荷物を降ろす算段のついた男の字。読みやすくて、読んでいて、少し笑える字だった。
その字を三頁写したところで、俺の耳が、ペンを止めさせた。
犬が、一声吠えた。
遠く、南の方角。吠えて――途中で、鳴きやんだ。
吠えやんだのではない。鳴き声が、途中から、消えた。刃物で切ったように。
俺は窓の外の夜に、耳の帳簿を全部開いた。
風。時計塔の軋み。どこかの戸の音。酔っ払い街道の――
無い。
酔っ払い街道の歌が、無い。




