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【第三巻】第八章 黙った夜の続き(三)


 分かるかい、の問いに、俺は結局、正面から答えなかった。

 答えられない俺を眺めて、親父さんは、追い詰めもしなかった。冷めた白湯を下げ、新しいのを注ぎ、それから、答えのほうを先にくれた。

「――お前さんは、抱えて運べる側だからさ」

「買いかぶりです」

「買いかぶりなら、この歳まで商売はやってねえよ。いいかい、坊主。荷物にはな、二種類ある。置き場のある荷物と、置き場のない荷物だ。置き場のねえ荷物ってのは、運べるやつが運ぶしかねえ。お前さんは、それを二年、この街でやってる。何をどう運んでるかは知らねえがね。運び方の背中ってのは、隠れねえのさ」

 何をどう運んでるかは知らない。その一線を、この人は今夜も律儀に守った。守った上で、荷を一つ、俺の背に足した。天を肩で支え続ける巨人の話があるが、あの巨人は少なくとも、支えているものの名前を知っていた。俺の荷は、名前を言えない分だけ、天より持ちにくい。

「調査の連中は、優秀だ。ことに、あの司書長の爺さんはな。……このままいきゃ、遠からず、紙のほうが答えに辿り着く。塗り潰しの下の家名にも、あるいは、もっと先にもだ」

「それは、まずいことですか」

「まずかねえ。まずかねえが――嫌なのさ」

 親父さんは、湯呑みを両手で包んだ。

「あの坊主はな、自分の家の話を、紙から聞くべきじゃねえ。人の口から聞くべきだ。できりゃ、家の話を抱えてきた人間の口からな。……俺は三十年、言う稽古をサボった。サボった芸は、急には戻らねえ。だが、戻す気は、ある。戻すまでの間な、坊主――あいつの隣に、いてやってくれ。それだけの頼みさ」

「……もとより、そのつもりです」

「知ってるよ。知ってて頼むのが、年寄りの仕事さね」

「一つだけ、聞かせてください。戻す気がある、というのは――いつです」

「気の早い帳簿係だね」

「期日のない債務は、帳簿が締まらないので」

「はっ。違えねえ」

 親父さんは短く笑い、それから、飾り棚の杖に目をやった。

「――照合とやらが、白黒つける前にはな。約束はできねえが、腹積もりなら、もう、ある。三十年ぶんの口慣らしに、ちょいと時間を食ってるだけさ」

 腹積もりなら、もう、ある。

 その八文字を、俺は帳簿の一番いい頁に記帳した。期日未定、ただし債務者の自認あり。取り立ての予定はない。この手の債務は、履行の日を隣で待つのが、債権者の礼儀である。

 勝手口を出ると、夜気が肺に冷たかった。

 置き場のない荷物が、また一つ。ただし今夜のは、重さの割に、担ぎ心地が悪くなかった。頼まれた荷物というのは、盗み聞いた荷物より、背中に馴染む。

 帰り道、俺は足を南へ曲げた。

 書庫周りの夜の一巡は、ここ数日の日課である。町役場の文書蔵、ギルドの裏手、資料室の窓の並び。酔っ払い街道は今夜も稼働中で、調子外れの歌が二重唱になっていた。警報機は正常。ゴルドー組の巡回灯も、定刻の位置にある。

 異変は、ギルドの裏の通用口で見つけた。

 資料室へ上がる裏階段の扉。その錠前の、鍵穴の縁に、月明かりでようやく分かるほどの、細い傷が二筋。

 俺は懐から蝋燭の欠片を出し、火は点けずに、傷の脇の金属の匂いを嗅いだ。油の匂いがした。錠前用の、粘度の高い油だ。素人は使わない。音を殺すための油である。傷の走り方は浅く、迷いがなく、途中でやめている。開けられなかったのではない。開ける寸前で、やめたのだ。中の守衛の巡回の間隔でも測ったのだろう。下見の精度が、また一段上がっている。

 癪なのは、俺がこの錠前を、昨夜も見ていることだ。昨夜、傷はなかった。つまり今夜、俺が鈴鳴り亭で白湯を飲んでいる間に、鼠は来て、測って、帰った。二正面というものは、こういう夜に牙を剥く。体は一つで、夜も一つだ。

 宿の前に、人影が立っていた。

 あいつだった。上着を羽織って、腕を組んで、宿の壁に寄りかかっている。灯りのない通りで、金の髪だけが、月明かりの在庫を独り占めしていた。

「……おかえり」

「起きてたのか」

「目が覚めたら、隣の部屋が空だった」

 責める声ではなかった。責める声ではないやつが、一番効くのは、前にも書いた通りである。

「鈴鳴り亭か」

「ああ。親父さんの手伝いだ。棚の整理と、写し物」

「毎晩?」

「ここのところは、な」

 嘘は、一つもない。一つもないのに、胸の帳簿の貸方だけが増えていく。あいつは夜空を見上げて、しばらく黙った。

「……なあ、ヨウタ。仮にさ、仮にだぞ。お前が何か、俺に言えないことを抱えてるとする」

 心臓の帳場が、音を立てて閉まった。

「すると、だ。俺の取れる道は三つある。一つ、問い詰める。二つ、こっそり調べる。三つ、待つ。で、俺は考えたんだ。一を選ぶと、お前は困った顔で嘘じゃないことだけ言う。二を選ぶと、俺は自分を嫌いになる。三を選ぶと――俺は、今まで通りのお前の相棒でいられる。よって、俺は三を選ぶ。証明終わり、だ」

「なんだ、その証明は」

「ヨウタがよく使う型だろ。頭の中で聞こえるんだ、最近」

 俺の背理法が、俺を守る側に回って帰ってきた。論理というものは、貸したつもりがないのに又貸しされ、しかも俺が借りていた時より、ましな用途に使われている。

 三を選ぶ、とあいつは言った。待つ、を選ぶと。二年前の俺なら、安堵だけしていたと思う。今夜の俺は、安堵の裏の勘定も見えてしまう。待つというのは、期日のない債務を、向こうが黙って引き受けるという意味だ。今夜だけで、俺は二人の人間に、置き場のない荷物を持たせている。片方は三十年の先達で、片方は十年の相棒だ。荷物の分配比率として、これほど不公平な帳簿もない。

「ただし、第二条は生きてる。危ないことなら、二人で分ける。……それだけは、忘れるな」

「忘れてない」

「なら、いい。――ところで腹が減ったんだが、台所に何か残ってたかな。明日の朝飯の当番、俺だっけ」

「お前だ。パンは婆さんの干し葡萄入りが一つ残ってる」

「よし、生きる希望が出た」

 深刻の隣に朝飯を並べられる胆力が、あいつの強さの何割かを占めていると、俺は本気で思っている。

「あとさ、ヨウタ。写し物って言ったろ、さっき」

「言ったな」

「今度、俺にも手伝わせてくれよ。字は綺麗なんだ、俺。騎士学校の書類仕事で鍛えたからな」

「……考えておく」

「考えておく、は、ヨウタ語で『半分駄目』だな」

「よく知ってるな」

「十年やってるからな、相棒を」

 あいつは笑って、宿の扉を開けた。写しの中身が親父さんの三十年である以上、手伝いの席は当分空かない。空かない理由を言えない席というのは、椅子の形をした置き場のない荷物である。俺の宿の部屋は、そういう見えない家具で、だいぶ手狭になってきた。

 部屋に戻ると、扉の下に、紙が一枚差し込まれていた。

 上質の紙。折り目は三つ折り。封蝋はないが、差出人は読む前から分かった。行の頭が定規で引いたように揃った、あの手だ。

 ――サイキ殿。

 ――資料室の錠前に、今宵、歯形がつき申した。こじ開けには至らず。されど歯形は語る。鼠は二本足、道具は上物、手際は玄人。

 ――守衛は増やすが、紙の守りは紙の者の仕事ゆえ、明朝、開室前にお越しを請う。人払いの上、相談したき儀あり。

 ――ア

 署名は一文字だった。一文字で足りる署名というものを、俺は初めて受け取った。ついでに言えば、この文は宿の主人を経由せず、扉の下に直接差し込まれている。老司書がこの刻限に自分の足で来たとは考えにくい。書記を走らせたか――あるいは、あの調査団には、文を静かに届ける係が別にいるのか。届け方まで含めて、あの爺さんの帳面は隙がない。

 窓の外、夜のモトリーは静かだ。静かさの品質を、俺は耳で検分した。音の目録は揃っている。犬、風、遠い酔っ払い街道の残響。穴は、ない。今夜のところは、ない。

 資料室の錠前の歯形。二本足の鼠。上物の道具。

 昼は客席で講談を聴き、夜は書庫の錠前を噛む。灰色の帳簿は、いよいよ精力的である。あちらの頁の繰りが早いのか、こちらの写しが遅いのか。四冊目の写本と、明朝の召喚と、置き場のない荷物と。

 俺の帳簿は今夜も、閉じる前が一番厚い。


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