↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
95/108

【第三巻】第八章 黙った夜の続き(二)


 その夜、写本は四冊目に入った。

 千秋楽の宴が引けた後の鈴鳴り亭は、静かだった。俺は勝手口から入り、いつもの棚の前に座り、いつもの手順でインクを開いた。親父さんはカウンターの内側で、湯を沸かしていた。白湯が二つ並ぶまでが、この夜なべの開店の儀である。

 今夜は、白湯が三口目に減ったところで、親父さんが口を開いた。

「――続き、だったな」

 前置きは、それだけだった。

「三十年前の話だ。当時の王様、つまり今の王様の親父さんだな。先の王様の御代に、北の学士団ってのがあった。古文書の虫みたいな連中でな、王国じゅうの古い紙を集めて、読んで、繋げるのが仕事だ」

 俺は筆を置いた。写本の手を止める価値のある夜だと、白湯の温度が言っていた。

 語りの姿勢も、いつもと違った。普段の親父さんは、立って、手を動かしながら話す。杯を拭き、鍋を混ぜ、その合間に言葉を挟む。今夜は座っていた。手には何も持たず、背筋だけがわずかに伸びて、視線は俺と飾り棚の中間の、何もない空に置かれていた。あれは酒場の親父の姿勢ではない。語り部の姿勢である。三十年前の夜を語るために、この人は体ごと、あの頃の作法に戻っていた。

「その学士団が、ある年、妙なもんを掘り当てた。二百年前の宮中記録の、塗り潰しの頁さ。一枚じゃねえ。何十枚もだ。同じ年、同じ手、同じ墨で、まとめて塗られた頁の群れ。学士どもは大喜びよ。『歴史の空白を見つけた』ってな。連中は塗り潰しの下を読む工夫を始めた。光を当てたり、紙を透かしたり……ああ、お前さんの雇い主が言ってた、あれだ。幽霊文字ってやつさ」

「読めたんですか」

「半分な。読めた半分の中に、部署の名前があった。――編纂室」

 編纂室に灯り。夜半まで。

 写本で写した歌帳の一行が、頭の中で像を結んだ。三冊目の中程、氷月の頁。あの短い一行を写した夜、俺はそれを、宮中の残業の記録だと思って通り過ぎた。残業は残業でも、灯りの下で行われていたのは清書ではなかったわけだ。帳面というものは、写した時ではなく、読める目を持った時に、初めて中身を渡してくる。アルヒフの言った「読める人間は後から育つ」の実地を、俺は自分の頭でやらされている。

「宮中の帳面の上じゃ、編纂室ってのは、王家の記録を清書する部屋だ。だがな、学士どもが読んだ塗り潰しの下によりゃ、あの部屋にはもう一つ仕事があった。消すほうの仕事さ。二百年前、編纂室は何かをまとめて消した。何を消したかまでは、読めなかった。読めなかったが――消したという事実だけは、読めちまった」

「それで、学士団はどうなったんです」

「公表しようとしたのさ。歴史ってのは国の背骨だ、空白は埋めるべきだ、ってな。真っ当な理屈だ。真っ当な理屈ってのはな、坊主、たいてい、一番高くつく」

 親父さんは、白湯を一口飲んだ。

「先の王様は、編纂室を、もう一度動かした」

 竈の残り火が、ぱちりと鳴った。

「学士団の研究は没収。写本は焼却。連中は王都から散らされた。罪人じゃねえ。罪状のつけようがねえからな。ただ、職を失い、名を失い、北へ南へ、ばらばらに消えた。手際のいい消し方だったよ。二百年前のやり口と、同じ手だ。部屋が同じなんだから、当たり前さね」

「――親父さんは、それをどこで」

「見てたのさ。全部な」

 バラッドの目は、俺ではなく、飾り棚の杖を見ていた。

「没収の沙汰が下った晩、宮廷で祝宴があった。何の祝いだったかは、もう忘れた。忘れたことにしてる。俺はその席で、芸をした。二十八の、脂の乗り始めた鈴鳴りのバラッドだ。王様の前で、転んで、鳴らして、笑わせた。大受けだったよ」

 白湯の湯気が、細くなった。

「道化ってのはな、坊主。王様に本当のことを言える、たった一人の職だ。誰の首も飛ばねえ。道化の言葉は芸だからな。あの晩、俺の鈴は、俺の懐にあった。鳴らして、一言言やあよかった。『王様、消した紙は、腹の中で嵩張りますよ』ってな。……それだけで、よかったんだ」

「言わなかった」

「言わなかった。怖かったのさ。芸人の出世が、惜しかったのさ。俺は転んで、笑わせて、鈴を――鳴らさなかった」

 沈黙が、降りた。

 俺は数えなかった。数える指が、動かなかった。竈の火が落ちて、店の中の音の目録は、二人ぶんの呼吸と、湯呑みの底が木に触れる音だけになった。

 言えなかった一言を、三十年抱えるとどうなるか。答えは目の前に座っていた。芸は上手くなる。店は繁盛する。誰にでも好かれる親父になる。そして、看板に鈴の名を掲げ、年に一度も鳴らさない。俺は自分の懐の帳簿を思った。言えないことを言えないまま抱える技術なら、俺も年季が入っている。年季が入っているからこそ、分かる。あの技術は、上達すればするほど、抱えたものが重くなる。軽くなる日は、言う日まで来ない。

「……何年かしてな。北で飢饉があった。学士団の生き残りが、飢えた村で死んだと聞いた。あいつらの中にゃ、水利だの農事だのに明るいのもいた。散らされてなけりゃ、あの飢饉、もう少し軽く済んだかもしれねえ。……かもしれねえ、ってのは、俺が背負い込みすぎだと、お前さんは言うかね」

「言いません」

「だろうな。お前さんは、そういう勘定の仕方を知ってる側だ」

 どきりとする一言を、親父さんはさらりと置いて、白湯を注ぎ足した。

「それから十七年、俺は黙ったまま芸をした。上手くなったよ。黙ってる芸人は、芸だけは上手くなる。で、四十五の年に、辞めた。国が傾いで、宮廷の宴が減って、俺の芸の出番も減った頃だ。南へ下って、この店を開いた」

「鈴鳴り亭」

「おう。鳴らせなかった鈴の名前を、看板にした。この店じゃ、誰でも、本当のことを言っていい。酔っ払いの管も、餓鬼の告げ口も、傭兵の泣き言も、全部ありだ。俺が三十年かけて払ってる、あの晩の勘定さね」

 店は償い。一年半前から知っていた四文字の、中身を、俺は今夜初めて読んだ。

 語りが終わって、俺は一つだけ、聞いた。

「歌帳の三冊目に、ありました。『クラウンの件、まだ言えず』。……あれは」

「読んだか。まあ、写してりゃ読むわな」

 親父さんは、苦笑した。苦笑して、それから、真顔に戻った。

「宮廷を出る前にな、俺は学士団の読み残しを、一つだけ、この目で見た。塗り潰しの頁の隅の、読めた半分の中にな――鈴の輪の紋と、家名の頭の三文字があった。クラ、ウ、ン。……二百年前に編纂室が消したのが何の家か、俺はあの日から知ってた。知ってて、三十年、言う相手がいなかった。言う相手が現れたのは、一年半前だ。陽色の髪の坊主が、腰に鈴の短剣を提げて、うちの暖簾をくぐった日さ」

 一年半前。あいつが着任の張り紙と一緒にこの街へ来て、鈴鳴り亭の暖簾をくぐった日。カウンターの中の親父さんが、新顔のB級――当時はC級だ――の腰の短剣を見て、何を思ったか。俺はあの日、隣の席で麦酒を飲んでいた。飲んでいて、何も見ていなかった。二年見続けてきたこの店のカウンターの内側で、三十年ものの荷物が一つ、音もなく持ち直されていたことを、俺の帳簿は今夜まで知らなかった。

「――なぜ、言わなかったんです。あいつに」

「聞くかい、それを。お前さんが」

 湯呑みが、静かに置かれた。

 聞くかい、それを、お前さんが。

 七文字と五文字の間に置かれた刃を、俺は正面から受けた。言うべきことを言わずに抱えている人間が、言うべきことを言わずに抱えている人間に、なぜ言わないのかと問う。この問いの帳尻の合わなさを、この人は最初から見抜いた上で、俺に語りの席をくれたのだ。

 答えられなかった。答えの候補は、あった。あったが、どの候補も、口に出すと俺の懐の帳簿ごと開く扉の前に立っていた。

「なあ、坊主。俺が何で、この話を、当主の坊主じゃなく、お前さんに先に話したか。分かるかい」

 問いだけが、夜の店に残った。

 白湯は、もう冷めていた。冷めた白湯の湯呑みを両手で包んで、俺は、答えの代わりに聞き返す資格も、聞き流す度胸も、どちらも持ち合わせていない自分の在庫を、静かに検分していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。