【第三巻】第八章 黙った夜の続き(一)
穂月十二日の午後、ドヤール・マウンティのモトリー興行、千秋楽である。
場所は初日と同じ広場。ただし舞台は荷車三台から四台に増え、幟は二本になり、木戸銭の箱は二つになった。興行というものは、当たると物理的に膨張するらしい。リリは二つの箱を両腕に抱えて、立ったまま眠っていた。あれで一度も盗まれないのだから、あの寝姿はたぶん、何かの構えなのだと思う。
千秋楽の演目は、むろん「仮面の挑戦者・完全版」であった。
完全版、と銘打たれた時点で嫌な予感はしていた。芸の世界の「完全」は、事実の完全ではない。膨張の完全である。一晩で豆の木が雲の上まで伸びた話があるが、講談の背丈も、一晩で天に届く。育て方の理屈は、たぶん同じ豆だ。
「――時に諸君、仮面の男の背丈を知っておるか! その身の丈、七尺!」
盛った。俺の身長に、一尺半ほど盛った。
「その棒の一振りは、闘技場の砂を割ること三寸!」
割っていない。砂は割れるものでもない。
「そして白光の剣士と打ち合うこと――数えて、九十九合!」
「五十七です!」
最前列から、真面目な訂正が飛んだ。飛ばしたのは当事者その二である。ドヤールは張り扇を止めずに応じた。
「細かいことを言うな、クラウン! 九十九のほうが響きがいいだろうが!」
「響きより事実です! 一合ずつ、全部覚えてるんです!」
「なら貴様が語れ!」
「語りたいくらいです!」
客席が沸いた。訂正合戦まで含めて演目、という空気ができあがっている。実際、客の何割かは訂正のほうを待っていた。ドヤールが盛る。あいつが直す。盛る。直す。二人とも大真面目で、大真面目である分だけ、客は笑う。
「仮面の男の得物は、黒鉄の大棒!」
「普通の樫の棒でした!」
「跳べば屋根を越え!」
「跳んでません! ずっと地面にいました!」
「よく見ておるな貴様!」
「一瞬も見逃してませんから!」
一瞬も見逃していない目撃者の証言で、俺の伝説は等身大に戻されていく。戻す側に悪気は一片もなく、盛る側にも実は悪気がなく、盛られている当人だけが樽の陰で麦茶を飲んでいる。この構図に名前をつけるなら「平和」でいいと思う。
千秋楽の広場は、初日より確実に温まっていた。
俺はといえば、後方の樽の陰で、麦茶を持って観戦していた。最前列は辞退した。完全版に膨張した自分の伝説を最前列で聞く行為は、精神の負担が二割増しである。樽の陰から見る分には、あれは他人の話だ。他人の話として聞けば、七尺の仮面の男は、なかなか大した豪傑である。会ってみたいものだ。
講談は山場に入った。
ドヤールの張り扇が刻みを速め、語りが準決勝の五十七合――九十九合に膨張済み――へと駆け上がる。実況の憑依というやつで、俺の頭の中でも、勝手に別の実況が走り出す。事実版である。一合目、様子見の突き。二合目、払い。三合目で向こうの足が半歩深く来て、俺の帳簿が「おや」と呟いた。四十三合目、読みが外れて、あいつの目が笑った。五十七合目――
俺は麦茶で実況を流し込んだ。事実版の実況は、誰にも売れない。売れないが、俺の中では千秋楽まで満員である。
と。
拍手の波の中に、穴が一つ、あった。
客席の中ほど、右寄り。人と人の間の、その一点だけ、音が死んでいる。拍手をしない客なら初日にもいた。だが今日のは、しない、ではない。拍手の音が、その一点の周りでだけ、妙に痩せて聞こえるのだ。音を出さない客と、音を吸う客の差である。
トレモロの講談小屋の男は、拍手をしなかっただけだった。今日のは、格が違う。
俺は樽の陰から、視線だけでそこを見た。
中肉中背。灰色。印象の残らない顔。
いた。あの夜の辻の男が、白昼の客席の真ん中に、当たり前の顔をして座っていた。
膝の上に手を組み、講談を聴いている。左手は、今日も胸の側にある。俺の位置から打てる手は、ない。三百人の客席のど真ん中である。それに――男は、何もしていなかった。ただ、聴いていた。仮面の挑戦者の講談を、身じろぎもせずに。
教団が仮面の男に興味を持っている。
王都のあの視線を、俺は思い出した。観客席北側の日陰から、こちらの「音」を探っていた灰色。あの疑いは、王都に置いてきたつもりだった。つもりだっただけで、荷物は配送されてきたらしい。教団の帳簿は、俺が思うより、頁の繰りが早い。
「――かくて仮面の男は、表彰の壇にも姿を見せず! 何処へともなく、消え申した!」
張り扇が、最後の一打を打った。
万雷の拍手。指笛。子供たちの歓声。あいつは立ち上がって手を叩き、麦酒の親父は樽を叩き、広場全体が一つの太鼓になった。
その太鼓の真ん中で、灰色の一点だけが、静かだった。
男は拍手をせず、立ち上がり、人波の間を縫って消えた。消える瞬間まで、足音は一つも置いていかなかった。俺は追わなかった。追わない稽古を、俺はこの数日でずいぶん積んだ。稽古の成果と、腹の中の煮え具合は、別の勘定だが。
視線を客席の外周へ滑らせると、パン屋の屋根の上に、まだら服がいた。
トリルも、観に来ていたのである。ただし道化の目は舞台ではなく、たった今、人波に消えた灰色の背中の跡を追っていた。追い終えて、俺のほうを見た。目が合った。
トリルは、三叉帽の鈴を一つ、指で摘まんで――鳴らさずに、離した。
鳴らさない鈴。あの符牒の意味を、俺はもう知っている。心が動いた時、あの道化は鈴を黙らせる。つまり、あちらも見た。見て、俺が見たことも見た。言葉はゼロ、伝達は完了。道化との会話は、経費が安くて助かる。
興行がはねると、広場の隅で立ったまま、ささやかな打ち上げが始まった。
「ドヤール殿、千秋楽、お見事でした!」
「おう。貴様の訂正も及第点だ。間の取り方が半年前より上達しておる」
「訂正に上達も何もあるんですか」
「あるとも。芸への口出しはな、クラウン、口出しの呼吸を外すとただの野暮だ。貴様のは野暮の一歩手前で踏み止まっておった。素質がある」
「喜んでいいのか分からない褒められ方だ……」
ガスは無言で麦酒を掲げ、リリは箱を抱えたまま、半分だけ目を開けて言った。
「……今日の客、三百と、十二人」
「数えてたのか」
「木戸銭の数と、拍手の数。……一人ぶん、合わない」
弓使いの寝言は、今日も矢より正確に飛ぶ。拍手の勘定が一人ぶん合わない客席。芸人一座の帳簿は、それぞれの持ち場で、同じ穴を計上していた。
その後で、ドヤールが俺のそばに寄ってきた。
千秋楽を打ち上げた男の顔は、上気して、満足げで――そして、その奥に一枚、妙な曇りがあった。
「おい、荷物係」
「客入り、大したもんだったな」
「おう。大入りよ。……でな、ちょっと聞け」
ドヤールは声を落とした。芸人が楽屋で使う声である。
「今日の客に一人、変なのがいた」
「ほう」
「俺様はな、客席の息で語りを打つ。客が息を呑む、その呑む音に合わせて扇を落とす。三百人いりゃ三百人ぶんの息がある。……それがな、一箇所だけ、無いんだ」
「無い」
「呑まねえんだよ、息を。山場でも、オチでも、ぴくりともしねえ。座ってるのに、息の勘定に入ってこねえ。三百引く一の客席なんてのは、俺様は初めてだ」
芸人の耳は、俺の網より正確だった。音の穴を、この男は「息の欠け」として、舞台の上から数え当てていた。
「気味が悪いか」
「悪いね。だがな、それより気に食わねえのは」
ドヤールは張り扇で、自分の肩を叩いた。
「――俺様の講談を聴いて息を呑まねえ野郎が、最後まで席を立たなかったことだ。あれは聴いてたんじゃねえ。調べてたんだ。俺様の語りを、帳面につけるみたいに聴く客がいた。……おい、荷物係。仮面の旦那に、伝手があるなら伝えとけ」
「なんで俺に言う」
「なんとなくだ」
「なんとなくで人を伝書鳩にするな」
「芸人のなんとなくを舐めるなよ。俺様の勘は、木戸銭の入りを三日前に当てる」
「今日のは当てたのか」
「外した。予想の倍入った」
「威張るところか、それは」
「威張るところだ。覚えとけ」
なんとなく、が一番怖い。芸人の勘は、理屈の裏口から入ってくる。
ドヤールは幟を担いで、宴の輪へ戻っていった。残された俺は、片付けの雑踏の中で、しばらく動かなかった。
仮面の挑戦者の講談を、帳面につけるように聴く、音を吸う客。
伝えるべき仮面の旦那は、幸か不幸か、伝達の必要のない場所にいる。




