【第三巻】第七章 消えていく音(三)
穂月十一日は、聞き取りの日だった。
資料室の長机を挟んで、あいつとアルヒフが向かい合い、俺は隅の写字机で控えを取った。あいつは例の資料五枚を差し出し、アルヒフは眼鏡を二度掛け替えてそれを読み、読み終えて、一言だけ言った。
「――よい記録です。特に、この『分かっていないこと』の頁がよい。分かっていないことを分かっている者は、百人に三人もおりませんのでな」
聞き取りは、二刻に及んだ。
父の名前。母の名前。家の間取り。玄関の鈴の作法。縁側の型。冬の夜の工房。鈴の短剣の形状と、「いつか話す」の言葉。そして、母の歌。
「玄関の鈴は、客が鳴らすのですな? 主人ではなく」
「はい。戸を叩く前に、一度だけ鳴らすのが決まりで」
「ふむ。古い礼式に、似たものがございます。謁見の間に入る前、来訪者が小鈴を鳴らして『害意なし』を告げる作法。三百年前の礼式書に載っており、今はもう、どの宮廷でも行われておりません」
「三百年前の宮廷の作法が、なんでうちの玄関に」
「それを調べるのが、私どもの仕事ですな」
問答は、この調子で進んだ。あいつの答えの一つ一つに、アルヒフは古い書物の頁を重ねていく。家の癖が、いちいち、どこかの古式と符合する。符合するたび、あいつの顔は、誇らしさと心細さの間を行き来した。自分の家の玄関が、急に、博物館の陳列棚に見えてくる。そういう顔だった。
仕上げに、あいつは書き取ってきた歌詞を、節をつけて歌ってみせさえした。資料室で子守唄を歌うA級剣士と、それを大真面目に筆記する王宮司書長の図は、たぶん王国のどの記録にも先例がない。
アルヒフの筆が止まったのは、二度である。
一度目は、縁側の型の身振りのくだり。二度目は、歌の「先に生まれた」の節。老人はどちらの時も何も言わず、ただ、帳面の余白に小さな印をつけた。印の形までは、俺の席からは読めなかった。読めなかったが、印をつけた頁の位置は、覚えた。
夜、俺は鈴鳴り亭の勝手口にいた。
写本、九日目の夜である。速度を倍にすると決めてから、俺は看板の後の店に通い、棚の手伝いという名目で、歌帳の写しを進めていた。今夜で三冊目に入る。指はインクで黒く、進みは焦りより遅い。
三冊目の箱を開けたところで、背後から声がした。
「――坊主」
心臓が、跳ねなかったと言えば嘘になる。振り向くと、親父さんが竈の前に立っていた。寝たはずの人である。
「箱の並びがな、俺の置いた順と、二晩前から違う」
「……気づいてましたか」
「棚ってのはな、置いた人間の癖で並ぶんだ。俺の棚が俺の癖と違う並びをしてたら、そりゃ、別の癖が触ったってことさね」
万事休す、という四字が、俺の頭の帳簿に大きく載った。無断の写し。防災の理論武装は、盗人の理屈と同型である。同型なだけで同じではない、という但し書きが、持ち主の前でどれだけ通用するか。
親父さんは、俺の手元の写しを、しばらく見ていた。
それから、竈に火を入れた。
「――手伝いは、丁寧にな」
湯が沸き、白湯が二つ、カウンターに並んだ。それが、答えだった。咎めず、問わず、白湯を出す。写しの許可は、下りたのではない。最初から、要らなかったのかもしれない。俺が夜ごと何をしているか、この人はたぶん、初日から数えていた。
「なあ、坊主。写してて、読めたかい。俺の帳面」
「日付と、短い文が、ひたすら。中身の分からない行が、ほとんどです」
「だろうさ。ありゃ、俺にしか読めないように書いてある。……だがな、写ってりゃ、それでいいのさ。読める人間は、後から育つ。紙さえ残ってりゃな」
読める人間は、後から育つ。
その一言で、俺の九日間の夜なべは、防災から継承の側へ、帳簿の欄を移した。木を植える老人は、その木陰で休む日が自分に来ないことを知っている、という古い言い回しがある。親父さんの帳面は、読み手が育つ前に蒔かれた種だ。
「ときに坊主、今夜は暇かい」
「写す予定でしたが」
「写すより早いのを、一つやろう。――口伝ってやつだ」
親父さんは白湯を啜り、それから、ぽつりぽつりと、語り始めた。
「俺が宮廷に上がったのは、十五の年だ。楽士見習いでな。笛が達者だったのさ。それが何の因果か、道化に回された。……理由は単純でな。俺は笛を吹きながら、転べたんだ」
「転べた」
「芸ってのはな、坊主、できることの隣にある『できなくていいこと』でできてる。笛の上手いやつは掃いて捨てるほどいた。笛を吹きながら見事に転べるのは、俺だけだった」
鈴鳴りのバラッド。二つ名の由来は、その転び方だという。転んでも、懐の鈴を一度も鳴らさずに立つ。逆に、立ったまま、鈴だけを鳴らして見せる。音を自在にする道化として、若いバラッドは宮廷で名を上げた。
「宮廷の道化ってのはな、席がある。玉座の階段の、下から二段目。ただし、俺の席じゃない。俺はその隣に敷物をもらってた。二段目の席は、空だったのさ」
「空?」
「二百年、空のままだ。『筆頭』の席でな。座る資格の家が、いなくなっちまったんだと。……誰も座らない席ってのは、妙なもんだぜ。宮廷の連中は、あの席を見ないように歩く。見ないように歩くってことは、全員、席があることを知ってるってことさね」
「掃除は、されるんですか。その席」
「されるとも。それも、道化の仕事でな。年に一度、冬の初めの夜に、席の埃を払って、油を差す。誰も座らない席の手入れを、二百年、代々の道化が続けてきた。……俺もやった。三十回な」
「なぜ、と聞いても」
「決まりだからさ。理由は伝わってねえ。ただな、坊主。手入れの口伝には、妙な一節がついてる。――『主は帰る。音のする家に帰る』」
主は帰る。音のする家に帰る。
冬の初めの夜。年に一度。一番いい服。灯り一つ。
俺の帳簿が、二つの頁を勝手に見開きにした。宮廷の空の席の手入れと、フェルマータ村の工房の夜と。片や玉座の隣、片や田舎の木工師の机。場所の格は天と地ほど違うのに、日付と、姿勢と、静けさの形だけが、双子のように似ている。
二百年、空いたままの筆頭の席。
塗り潰された頁と、同じ年数である。俺は白湯を持ったまま、写本で覚えた帳面の日付たちが、頭の中で並び替わっていくのを感じた。
「トリルの……いや、嬢やを拾ったのも、宮廷ですか」
鎌をかけたのではない。かけたのではないが、呼び名は選んだ。親父さんは眉一つ動かさなかった。
「立ち聞きの詫びにしちゃ、上等な聞き方だね」
「すみません」
「いいさ。ああ、俺が拾った。市場で手妻の真似事をしてた餓鬼でな。歳も名前も、本人が言わねえから知らねえ。芸の筋だけは、俺の若い頃より上だった。……俺が宮廷を出る時、あいつは泣かなかった。泣かない代わりに、俺の鈴を一つ、黙って持ってった。ありゃ、道化流の泣き方さね」
それから親父さんは、白湯を飲み干して、少しだけ黙った。
次の言葉が、今夜の語りの本丸であることは、火の落ちた竈の温度でも分かった。
「――三十年前にな、坊主。俺は一度だけ、言うべき夜に、黙った」
「……」
「言ってりゃ、何かが変わったかは、分からねえ。分からねえが、黙ったことだけは、確かだ。それから十七年、俺は黙ったまま芸をした。芸人としちゃ、上出来の十七年だ。道化としちゃ――」
言いかけて。
親父さんは、湯呑みを二つ、流しに下げた。
「――続きは、また今度さね」
言いかけの続きを、俺は今夜も回収できなかった。できなかったが、一つだけ分かったことがある。
この人の「また今度」は、逃げ足の言葉ではない。順番の言葉だ。語りには順番があり、俺はまだ、三冊目の途中なのだ。
帰り道、俺は今夜の口伝を頭の中で製本した。
十五の楽士見習い。笛と転び。鈴鳴りの二つ名。空の筆頭の席と、年に一度の手入れと、「主は帰る。音のする家に帰る」。市場で拾った嬢や。三十年前の、黙った夜。そして、黙ったままの十七年。
頁を綴じて、背表紙に何と書くべきか、俺はしばらく考えた。
道化の一代記、では足りない。あれは、空の席の番人の記録だ。二百年前に消えた家の席を、消えたことを知りながら、帰りを信じてもいない顔で、それでも磨き続けた男たちの帳簿。その最後の一人が、いま、辺境の酒場で白湯を出している。
そして、席の主の家系の忘れ形見が、その店の常連で、腰に刃引きの短剣を提げている。
世界の帳簿の帳尻というものを、俺はたまに、信じそうになる。




