【第三巻】第七章 消えていく音(二)
夜、支度をしていると、あいつが部屋の戸口に立った。
「また、買い物か」
「見回りだ。今夜は正直に言っておく」
「……そうか。第二条は」
「異変は、ある。あるが、まだ形にならない。形になったら、全部言う。約束する」
あいつは俺の顔を、しばらく見た。見て、頷いて、自分の剣帯から鈴の短剣を外し、俺に差し出した。
「なら、これを持ってけ」
「おい」
「形にならない異変ってのは、一番質の悪いやつだろ。うちの守り刀だ。じいさんの代から、そういうのに効くらしい」
冗談の顔ではなかった。俺は少し迷って、受け取った。刃引きの儀礼剣である。斬れない剣を借りて夜の街に出る間抜けさと、その柄の温かさとを、両方とも帳簿につけて、俺は宿を出た。
その夜、俺は音の抜けた場所を巡ることにした。
消えた穴は探せない。だが、穴が食った跡なら探せる。歌の二番、看板の墨、レシピの板、控えのインク。昼間の付箋を地図に落とすと、緩い弧が描けた。弧というものは、中心の周りを回った足跡である。回った理由が中心にあるなら、今夜も奴は、弧の上のどこかにいる。
月は細く、風は南から。俺は屋根伝いに、弧の上を歩いた。
見つけたのは、夜半前だった。
南区の外れ、旧市街へ抜ける辻である。辻の角に、古い道標が立っている。膝丈の石柱で、彫られた文字は「北、時計塔。南、渡し」。この街が渡し場の宿場だった頃からの石だと、いつか親父さんが言っていた。街より古い部類の、文字である。
その道標の前に、灰色が立っていた。
中肉中背。灰色ずくめ。荷はなく、得物も見えない。顔は――見ているのに、印象が像を結ばない。目鼻はあるのだ。あるのに、見た端から記憶の紙に染みていかない。金物屋の若い衆が「思い出せねえ」と言った理由を、俺は自分の目で了解した。あれは覚えられない顔ではなく、覚えさせない顔だ。
俺は屋根の上の暗がりで、瓦一枚ぶんも動かずに、それを見ていた。
腰の鈴の短剣が、鳴らないことに、俺はその時気づいた。
歩けば揺れる。揺れれば、あの小さな鈴は、微かにでも鳴るはずである。宿からここまで、屋根を五つ越えた。一度も鳴らなかった。俺の歩き方のせいだと思っていた。思っていたが――今、瓦の上で微動もしていない俺の腰で、鈴は、まるで息を潜めるように黙っていた。物が空気を読むわけがない。読むわけがないという常識の欄に、俺は今夜、初めて疑問符を一つ書き込んだ。
男が、道標の前に膝をついた。
祈りの形に似ていた。似ていたが、祈りではなかった。男は道標の文字に、左手ではないほうの手を、そっと添えた。そして、囁いた。
声は、聞こえなかった。
聞こえなかった、のに――音が、動いた。
どう書けばいいのか、俺の帳簿は今も苦労している。夜の辻には夜の音がある。風、遠くの犬、酔っ払い街道の残響、俺の心の臓。その全部が、一瞬、男のほうへ傾いだのだ。水盤を傾けた時の水のように、辻じゅうの音が、静かに、男の掌へ流れた。
流れて、戻らなかった。
男が立ち上がった時、道標の文字は、薄れていた。
彫りは残っている。石は削れていない。だが、彫りの底に二百年潜まっていた墨と影が、抜けていた。読める者が読めば読める、だが誰の目も留めなくなる――そういう薄れ方だった。文字は消されたのではない。文字から、声を抜かれたのだ。
男は立ち上がり、それから、左手で胸を押さえた。
押さえて、少しの間、動かなかった。
遠目にも分かる、こらえる姿勢だった。飲み下しにくいものを飲んだ時の、あの止まり方である。男の左手は、来た時からずっと胸に当てられていたが、今のは仕草ではなかった。必要だった。
――溜まるのか。
俺の帳簿が、勝手に仮説の頁を開いた。
消された音は、どこへ行く。無に還るなら、あの止まり方は要らない。水が掌へ流れたように見えたのは、比喩ではなく工程なのではないか。奴は音を消しているのではない。飲んでいる。飲んだものは、腹に溜まる。溜まったものは――いつか、あふれる。
仮説の欄に、俺は但し書きをつけた。検証不能。ただし、覚えておく価値あり。
ついでに、もう一つの観察も記帳した。奴は、俯いていた。
音を消す術者が、術のために音を使う。矛盾のようだが、たぶん矛盾ではない。呼び水だ。井戸の水を上げるのに一杯の水が要るように、音を流し出させるには、一声の音が要るのだろう。だとすれば、あの俯きは、術の楔を抜く鍵である。鍵の音を聞き取れれば、術の理屈に半歩近づける。近づけるが、聞き取るには、あの掌の届く距離まで寄る必要がある。音を飲む男の、飲み口の前に立つ。……割に合わない検証である。検証の欄には「保留」と書いた。保留の欄は、今夜も満員御礼だ。
二年前、調律の術を初めて見た夜のことを、俺は思い出していた。人を締め上げて強くする術と、物から声を抜いて静かにする術。どちらも、音の理屈で世界をいじる手口である。同じ楽団の、別の楽器。カデンツァ、と呼ばれていたあの灰色と、今夜のこの灰色と。楽団の名は「大いなる静寂」。……名は体を表す、という言い回しの正確さを、俺は今夜ほど恨んだことがない。
手は、出さなかった。
出せなかった、と書くほうが正直かもしれない。距離は屋根二つ。俺の足なら三呼吸。だが、飛び込んだ先の勝負の形が、まるで読めなかった。剣でも棒でもない相手だ。音を飲む男に、音より速いもので踏み込んで、それでどうなる。俺の速さは音を置き去りにできるが、置き去りにした音は、あの男の餌だ。
それに――今、奴を潰せば、下見が本番に変わる。写本は一冊半。歌帳の残りは四冊半。俺の夜なべの帳簿が、まだ追いついていない。
俺は瓦の上で、指一本動かさずに、男が辻を離れるのを見送った。
見送りながら、腹の底で、上品にしておくつもりの悪態が三つほど煮えた。文字から声を抜くのが仕事の男と、声を出さずに悪態をつく俺と、この辻の夜は、つくづく静かである。静かさの品質が、これほど悪い夜も珍しい。
男は、弧の上を歩かなかった。
文書蔵の方角でもなかった。
辻を出た灰色の背中は、迷いのない足取りで、北へ向かった。北。旧市街。あの方角にあるものを、俺は数えるまでもなく知っている。
鈴鳴り亭だ。
俺は屋根を蹴った。蹴って、二筋先の路地へ先回りした。先回りして、待った。
来ない。
息を三十数えても、灰色は現れなかった。路地を戻り、辻を確かめ、屋根に上がり直した。夜の街のどこにも、あの覚えさせない顔はなく、音の穴もなかった。撒かれたのだ。俺が。この街で。二年かけて足の裏に写した地図の上で。
……認めよう。今夜の勝負は、負けだ。
道標の前に降りて、俺は薄れた文字を、指でなぞった。
北、時計塔。南、渡し。
彫りの溝は、指には読める。目には、もう遠い。
二百年、旅人に道を教えてきた石が、今夜から、ただの石になった。
誰も気づかないだろう。明日もこの辻を、人は普通に通る。道標が何か言っていたことを、数えていた者は、この街に何人もいない。
数えてないものは、減っても気づけない。
道化の忠告の意味を、俺は夜の辻で、指先から理解した。
帰る前に、鈴鳴り亭の様子だけ確かめた。
店は無事だった。灯りは消え、閂は下り、軒の鈴も屋根の瓦も、俺の目に読める限り、指一本触れられていない。裏口の置き台の上も、異状なし。俺は胸の帳簿を半頁だけ軽くして、それから、階下の暗がりに一つ、目印を仕込んだ。灰の粉を薄く、敷居の外に一筋。踏めば跡が残り、跡は朝の掃除で消える。安くて、静かで、嘘をつかない見張り番である。
宿に戻ると、あいつの部屋の灯りはまだ点いていた。戸を叩いて、短剣を返す。
「――ただいま。借り物を返す」
「おかえり。……効いたか?」
「ああ。よく黙っててくれた」
「? 鈴なのに?」
「鈴なのに、だ」
あいつは首を捻っていたが、深くは聞かずに、おやすみ、と言った。聞かないでいてくれる夜が、うちの規約の行間には、まだ残っている。行間の残高で回している後ろめたさは、いずれ精算が要る。要るが、今夜ではない。
自分の部屋に戻り、俺は決めた。写本の速度を、倍にする。




