【第三巻】第十章 声のない歌(一)
眠れないまま、朝が来た。
窓の外が白んでいくのを、俺は椅子に座ったまま見ていた。
卓の上には、昨夜のままの荷物。焦げた歌帳。半分の顔の杖。五冊半の写し。
それから、俺の両手。
掌に、水ぶくれが二つできていた。火を叩いて殺した時のだ。痛みは、あった。あったが、遠かった。痛みまで、あの領域の中に置いてきたような遠さだった。
速い、というのは、何だったのだろう。
夜明けの頭で、俺はそんなことを考えていた。
俺は速い。たぶん、この王国の誰よりも。二年間、その速さで、あいつの周りの理不尽を片付けてきた。魔獣も、刺客も、盗賊も、崩れる足場も。速さが間に合えば、大抵のものは、守れた。
昨夜、俺は速さの限りに走った。
書庫まで、一分半。火事場まで、一分半。工程に無駄はなかった。二人を沈め、守衛を呼び、火の中から人を出した。どの帳簿に載せても、及第点の夜回りだ。
及第点で、店は燃えた。
声は、消えた。
六冊目の続きは、灰になった。
速さは、火が付く前には、間に合わない。
強さは、囁き一つで文字を抜く手には、届かない。
俺の商売道具は、二つとも、昨夜の敵には通じなかった。通じないことを、俺は理屈では、この数日ずっと知っていた。知っていて、どこかで、信じていなかったのだと思う。いざとなれば速さでなんとかなる。二年間、なんとかなってきたから。
なんとか、ならなかった。
初めてだった。
間に合わなかったことが、ではない。
守るものの形が、俺の道具と、噛み合っていなかったことが。
守る、というのは、何だったのだろう。
俺はずっと、守るとは、間に合うことだと思っていた。
危険より先に着くこと。刃より先に動くこと。落ちる前に受けること。俺の守り方は、全部、速さの文法でできていた。
だが、声はどうだ。
歌はどうだ。三十年の帳面はどうだ。二百年の記録はどうだ。
ああいうものは、刃の落ちる一瞬に消えるのではない。囁きの間に、静かに、灰の中で、消えていく。先回りする「先」が、どこにもない。守り方の目録の、白紙の頁。あの頁の前で、昨夜の俺は、ただ立っていた。
窓の外で、朝の音が始まった。
荷車。パン屋の呼び声。時計塔の鐘。
広場の方角から、歌は、聞こえなかった。
歌うたいの爺さんの謡は、二番が抜けたままだ。あの二番を、誰かが覚えているうちに書き取らなければ、と思っていた。思っていただけで、俺はまだ、書き取りに行っていない。写本を倍にして、それで足りている気になっていた。
数えてないものは、減っても気づけない。
道化の忠告は、正しかった。正しかったが、足りなかった。数えていても、減る時は減る。数えるだけの守り手は、帳簿を抱えて、減っていくのを見ているだけだ。
二年前の秋のことを、思い出していた。
祖母を見送って、村を出て、この街に流れ着いた頃だ。
俺は十五で、荷物は毛布と着替えだけで、知り合いは一人もいなかった。
仕事を探して、断られて、夕方になって、腹が減った。
銅貨を数えて、一番安そうな飯屋を探して、ちりん、と鳴る扉を押した。
それが、あの店だった。
煮込みを頼んだ。銅貨が少し、足りなかった。
カウンターの中の親父が、足りない分を見て、何も言わずに、パンを一切れ足した。
足しておいて、こう言った。
――チップは酒で。飲める歳になったらな。
意味が分からなくて、俺は多分、間抜けな顔をしていた。親父は笑って、煮込みの椀を押して寄越した。
あの晩の煮込みの味を、俺は覚えていない。
覚えているのは、店の暖かさと、扉の鈴の音と、借りが一つできた、という感覚だけだ。
借りは、まだ返していない。
飲める歳には、なった。チップは、何度も置いた。だがあの一切れのパンの借りは、チップの勘定とは別の頁に載ったまま、二年間、俺の帳簿の一番古い場所にある。
その頁の店が、燃えた。
俺は、何を間違えたのだろう。
間違い探しは、俺の得意分野のはずだった。帳簿の縫い目、工程の穴、勘定の狂い。他人の間違いなら、寝ていても見つかる。
自分の間違いは、朝までかかって、まだ輪郭も出ない。
摘まなかったこと、か。
最初の晩、屋根の上から、あの灰色を見ていた。摘めた。摘まなかった。勘定の結果だった。下見を本番に変えないため。観測者に観測結果を残さないため。写本が終わるまでの時間を稼ぐため。三つの理由は、三つとも、今も正しい。
正しくて、店が燃えた。
正しさと、間に合うことは、別の帳簿だった。
それとも――言わなかったこと、か。
あいつに。親父さんの過去を。灰色の客の正体を。俺の夜の仕事を。全部、言えた。言う機会は、何度もあった。第二条は、そのためにあった。異変は隠さず言う。俺は異変を、形になったら言う、と言い続けて、形になった時には、店が燃えていた。
二人なら、二正面は破れなかったかもしれない。
かもしれない、は、親父さんの背負い方と同じ癖だ。
分かっている。分かっていて、朝の頭は、同じ場所を回り続ける。
隣の部屋で、床の軋む音がした。
あいつも、眠れていない。
壁一枚の向こうで、たぶん同じように、夜明けの色を見ている。焼けた店と、声の出ない親父さんと、なくなった約束の席のことを、あいつの真っ直ぐな頭で、あいつなりに、抱えている。
俺は立って、部屋を出た。
あいつの部屋の戸の前に、立った。
拳を上げて、叩く形まで作って、止めた。
戸の向こうで、何かの音がしていた。
小さな、規則正しい、布の擦れる音。
剣の手入れの音だった。
こんな朝に、あいつは、剣を拭いている。
いや、違う。こんな朝だから、だ。手が仕事を覚えている人間は、頭が動かない時、手に任せる。あいつの手入れの音は、あいつなりの、眠れない夜の畳み方だった。
俺は拳を下ろした。
叩かなかった。
あの音の邪魔をする言葉を、俺は持っていなかった。
部屋に戻る廊下が、来た時より長かった。
壁越しに、声をかけようかと思った、というのは、だから、正確ではない。かけようとして、やめたのだ。
何と言うのか、思いつかなかった。
慰めの在庫は、昨夜から空のままだ。理屈の棚は、鍵がかかったままだ。俺の商売道具は、言葉の側でも、今朝は全部、役に立たない。
速さも、強さも、理屈も、届かない朝だった。
それでも、朝は来ていた。
パンの匂いがした。
婆さんの店の、いつもの匂いだった。
燃えた店の斜向かいで、今朝も竈に火を入れて、いつもの時間に、いつものパンを焼いている。あの婆さんの竈の火と、昨夜の火は、同じ火なのに、別のものだった。
火は、使う手の側の帳簿に載る。
速さも、たぶん、そうなのだ。
だとしたら、俺の速さを載せ直す頁が、どこかにあるはずだった。
卓の上の写しの束を、俺はもう一度、見た。
五冊半。俺の夜なべ。焼けた原本の、生き残りの分身。
昨夜から今朝まで、俺はこれを「守れたもの」の欄に入れて数えていた。守れたもの、五冊半。守れなかったもの、店と、声と、六冊目の続き。差し引きで、俺の負け。そういう勘定だった。
だが、と、夜明けの頭の隅が言った。
この束は、守れた「もの」なのか。
違う気がした。これは、まだ何もしていない。灰にならなかった、というだけだ。紙のままなら、この束は、焼け残りにすぎない。焼け残りが焼け残り以上のものになるのは――誰かが、これを読む日だ。読める人間は、後から育つ。紙さえ残ってりゃな。あの人はそう言って、俺の無断の写しを、咎めずに白湯を出した。
あの白湯の意味を、俺は今朝まで、半分しか読めていなかった。
写しは、守りの道具ではなかったのだ。
最初から、渡すための道具だった。
誰に、いつ、どうやって渡すのか。そこまでは、まだ、朝の頭では組めなかった。組めなかったが、白紙だった守り方の目録に、初めて、一行目の書き出しらしきものが、滲んで見えた。
速さで守れないものは、残して、渡して、継がせる。
書き出しは、それでいいような気がした。
あるはずだ、と思ったところで、思考は途切れた。
途切れたまま、俺は窓辺で、街が起きていくのを見ていた。




