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【第三巻】第十章 声のない歌(二)


 朝のうちに、焼け跡には人が入っていた。

 ゴルドー組が焼け材を運び出し、金物屋が使える金具を選り分け、大工の親方が北側の残った壁を叩いて回った。誰が音頭を取ったのでもない。夜が明けたら、集まっていた。あいつもいた。寝ていないはずの体で、一番重い梁を担いで、黙々と運んでいた。汗をかく仕事があることが、今のあいつには、たぶん一番の薬だった。俺も午前中は炭を運んだ。炭を運ぶ手は、考え事をしなくて済む。

 大工の親方は、壁を叩き終えて、一言だけ言った。「土台は生きてる」。その四文字が、片付けの現場を、目に見えて軽くした。土台は生きてる。建て直せる、という意味である。この街の連中は、励ましの言葉を建築用語で言う。

 昼前、焼け跡に足を運び直すと、先客がいた。

 まだら服が、崩れた竈の前に、しゃがんでいた。

 三叉帽は、かぶっていなかった。手に持っていた。帽子を取った道化の頭は、思ったより小さく、思ったより静かだった。

「――よう、旦那」

 振り向かないまま、トリルは言った。

 声で、分かった。今日のトリルには、芸がない。屋根の上の軽やかさも、鈴の合いの手も、質問をはぐらかす節回しも、全部、どこかへ下ろしてきている。残っているのは、低くて、平らな、素の声だけだった。

「ここの竈はね、いい竈だった。火の回りが良くて、鍋の当たりが柔らかい。……煮込みの味の半分は、竈の癖なんだよ。知ってたかい」

「いや」

「あたしも、こないだ食って初めて知った。いい店ってのは、そういうもんさ。通って初めて分かる帳面が、壁の中に埋まってる。……燃えると、それも燃える」

 トリルは立ち上がって、焼けた竈に、持っていた帽子で、一度だけ、はたきをかけた。灰が舞って、落ちた。それは掃除ではなく、たぶん、礼だった。

「旦那。道化が黙らされるってことの意味、分かるかい」

 来た。

 俺は、答えずに待った。この問いは、答えを求める形をしていなかった。

「王様ってのは、偉くなるほど、耳が減る。周りの口が、全部、王様の聞きたい形に言葉を削るからね。最後に残る耳は、一つだけ。――道化さ。芸って皮を被せてなら、誰も言えないことを言える。首も飛ばない。二百年、いや、もっと昔から、王冠って仕組みの一番深いところには、鈴が一つ、埋めてあるんだ。仕組みが狂った時に鳴る、最後の鈴が」

「……あんたの言う『仕組み』は、今、狂ってるのか」

「狂ってるから、うちの王様は笑わないのさ。狂ってるから、二百年前の頁が今ごろ開くのさ。狂ってるから――昨日、店が一軒燃えたのさ」

 三つの「狂ってるから」は、三つとも、疑問の形をしていなかった。

 トリルの指が、帽子の鈴に触れた。

 鳴らさなかった。今日は、包みもしなかった。ただ、触れていた。

「音を消す連中が何を消して回ってるか、旦那はもう見ただろ。古い歌。古い文字。古い帳面。あれはね、物覚えの掃除じゃない。管を切ってるのさ。昔から今へ、下から上へ、本当のことが流れる管を、一本ずつ。で、昨日、あいつらは一番太い管を切りに来た。三十年黙って、もう一度言う稽古を始めた、あの人の喉をね」

「……火事のついでに、じゃなく」

「ついでなもんか。狙いはあっちさ。店と帳面は、ついでだよ」

 トリルは、初めてこちらを向いた。

 化粧の下の目が、まっすぐ俺を見た。怒っている目だった。ただし、熱のある怒りではない。長い時間をかけて底まで冷えた、職人の怒りだった。

「あたしはね、旦那。芸ってものを、世界で二番目に大事にしてる」

「二番目」

「一番はね――芸をしていい世界のほうさ。芸なんてものはね、明日も誰かが笑ってて、明日も誰かが本当のことを言える、って前提の上でしか回らない。その前提を消しに来る連中とだけは、あたしは、芸抜きでやり合うことにしてる」

 芸抜きでやり合う。

 王宮付きの道化の口から出る言葉としては、たぶん、最上級の宣戦布告だった。猫の首に鈴をつけよう、と相談した鼠たちの話がある。相談は立派で、つけに行く鼠がいなかった。道化というのは、あの話の、つけに行く側の職らしい。

 俺は、この小柄な道化の正体を、あらためて測り直していた。屋根から降ってくる軽口の主。鈴で答えをはぐらかす芸人。仮面の男の正体を見抜いて黙っていられる目。そして今、帽子を脱いで、冷えた怒りで立っている、これ。全部が同じ一人の中に入っている。入っていて、破綻していない。道化という職業は、俺が思っていたより、ずっと深い容れ物だった。

「三日の白紙は、まだ生きてるよ。使い道、決まったかい」

「――半分ほど」

「残りの半分も、早めにね」

 半分ほど、と答えたのは、正確な申告である。

 昨夜からずっと、俺の帳簿は反攻の頁を組み立てていた。組み上がっているのは前半だけだ。写しを渡す。灰色どもの工程を狂わせる。そこまでは線が引けた。後半――どう狂わせ、どこで仕留め、誰の目の前で何を守り切るか。そこは、明後日の照合の儀の段取り次第だった。段取りを知る人間と、まだ話せていない。話すべき相手の署名は、一文字である。

 午後、治療院に寄った。

 トリルも一緒だった。というより、トリルが行くのに、俺がついて行った。

 病室の親父さんは、起きて、窓の外を見ていた。俺たちが入ると、目だけがこちらを向いて、トリルの顔を見て、それから、帽子を持ったままの頭を見て――親父さんの眉が、微かに動いた。帽子を取った後輩の意味を、あの人は正確に読んだのだと思う。

 病室には、見舞いの跡が増えていた。

 枕元に、マルグリット婆さんのパン。窓辺に、子供たちの摘んできた野の花。卓の上に、ドヤールの置いていった講談の口上書き――「快気の一席、予約済み」と表に書いてある。読む声のない部屋に、読まれる日を待つものだけが、静かに増えていく。

 トリルは、寝台の脇に立った。

 しばらく、何も言わなかった。

 それから、帽子の三つの鈴のうち、一番古い色をした一つを、指で外した。

「――先輩。これ、返すよ」

 鈴が、親父さんの掌に、置かれた。

「三十年前、黙って持ってったやつさ。あの時のあたしは、こう思ってた。先輩は鈴を置いてくんじゃない、捨ててくんだ。捨てるくらいなら、あたしが拾う。あたしがいつか、先輩のぶんまで鳴らしてやる。……そう思って、三十年、帽子につけて歩いた」

 親父さんの手が、鈴を包んだ。

「でもね、先輩。あたしはもう、自分の鈴で鳴らせるようになった。時間はかかったけどね。だから、それは返す。……声が出ない間、声の代わりに使いな。言いたいことがあったら、鳴らしな。あたしたちは道化だ。音が一つありゃ、喋れる」

 病室は、静かだった。

 親父さんは、掌の中の古い鈴を、長いこと見ていた。

 見て、それから、ゆっくりと手首を振った。

 ちりん。

 小さく、一度、鳴った。

 声のない部屋で、それは確かに、返事の形をしていた。

 何と言ったのかは、俺には読めない。読めないが、トリルには読めたらしい。道化二人の間には、鈴一個ぶんの言語がある。三十年の空白を挟んで、その言語は、まだ通じていた。管というものは、切られても、こういう形で繋ぎ直されるのだと、俺は病室の隅で、黙って記帳した。

 トリルが、笑った。今日初めての笑いだった。芸の笑いではなかった。

「――ん。いい音だ。喉より正直な音だよ、先輩」

 帰り際、廊下の角で、トリルは足を止めた。

「旦那。一つ、耳に入れとく」

「なんだ」

「明後日の、照合の儀ってやつ。……荒れるよ」

 声は、また低く戻っていた。

「連中の『まだ』は、あたしの読みじゃ、あそこだ。塗り潰しの答えが公の場で読み上げられる、その瞬間より奴らに都合のいい的は、この街にもう残ってない。紙も、人も、一箇所に集まるんだからね」

「……だろうな。俺の帳簿も、同じ頁を開いてる」

「なら、話は早い」

 トリルは三叉帽をかぶり直した。二つになった鈴が、小さく揺れた。

「あたしの白紙と、旦那の帳簿で――あいつらの工程表に、書いてない行を一つ、書き込んでやろうじゃないか」


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